ちょっとだけ、改変(ってか、一応あちらでは「組織内の人間」呼び捨てで書いてるのを「さん」づけにしたりとかね)してこちらにも置いておきます。
(2011年03月11日)
ええと自閉症の人と「TEACCH」とか「PECS」とか「療育」とかについて。
ここから書くのはあくまで、個人の感想です(って代替療法か怪しいサプリかっ!)
「おめめどう」のハルヤンネさんやsyunさんが、ある自閉症のお子さんの保護者に、
「こんなふうに考えたらいいよ」
「こんなふうにやってみたらいいよ」
と 言って、それを実行しているのを横から見る人が「これは素晴らしい療育や」と言う可能性は高いと思います。ハルヤンネさんやsyunさんは嫌がるだろうけどね。
で、私がこのブログで書いてることでも「これは療育やな」と言う人もいるでしょう。
私は、もしその方と支援方法について対話していたら、その「療育」という言葉を否定する気は全然ありません。「『療育』ってのは『治療教育』であって、 そもそも自閉症は『風邪』が治るみたいに治るもんじゃないんだからその言葉は変。でもあの手この手でいろいろ社会参加はできるんだよ」なんてのは議論としては面白いし、実際楽しみつつ議論することもあるけど、支援方法について対話してる時だったら、その議論につぎ込む時間が惜しいから。
これって「『自閉症』という言葉は変」という話にも似てるかな。変なんだけど、とりあえずこの言葉を使って共通理解を進めていく。
だいたい私がよく勧めるTEACCHでも、もともとノースカロライナ大学医学部でできたものだし、医療モデルを最初は取っていたのじゃないかな。これは まったくの想像。つまり「問題がある。だからどうにかして治そう」みたいな。
TEACCHって言葉も「 Treatment and Education of Autistic and Communication related handicapped CHildren」だから「自閉症や類するコミュニケーション障害(不利)のお子さんの治療と教育」っていう意味だし。(treatment は「治療」とか「取り扱い」とか「おもてなし」とかいう意味らしい)
※2013年にTEACCHは元となる単語を
Teaching Expanding Appreciating Collaborating and Cooperating Holistic
に変えました。
ただ早期に「治療」というモデルはやめたのじゃないかな。そのお子さんのことで「できること」「できかけていること」「できないこと」を調べて、「でき ること」「できかけていること」を組み合わせてあれこれやっていこう、というスタイルになったわけだし。
「治そう」とは考えなくなった。あるいは何かの 「能力を伸ばそう」というのじゃなくなった。もちろん、あれこれやっているうちに結果としては「能力が伸びた」ように見えることはありますが、別に自閉症 が治ったわけじゃない。
あるエピソード。(ソースがどこだったのがわからなくなっているので「ソース俺」ですが)
ノースカロライナのTEACCHのスタッフが日本に来た時、ある「療法」をやっている場を見学して言ったこと。「ああ、私たちがとっくにあきらめたこ と、やってるね」
ちなみに、ここはすごく「まとも」なことをやってるとこです。
あと、TEACCHの人だと、とにかく保護者と話している時は保護者が、本人と関わっている時は本人が楽になるように考えると思います。
「自閉症の人たちへの援助システム」1999.8.20発行から(この本、500円だし、とてもいい本ですから購入を勧めます)
第2章 診断と評価(内山登紀夫文)から「8 親への説明」の部分の引用。
これはTEACCH のディレクター ジャック・ウォール(髭のジャック)が診断をして親に説明するシーンです。
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まず子ども担当のセラピストから検査の結果について伝えます。数値をすぐに言うようなことはせず、検査中にセラピストが感じたこと、子どもの行動などか ら説明していきます。
直接話法で書くと大体次のようなようすです。
「ジョン君と一緒に数時間過ごしたけど、とっても楽しかった。ジョンは可愛いし元気だし、本当に楽しんで仕事をすることができました」。
このように前置きした上で、
「今日やった検査はPEP-Rという検査です。この検査で見たいことは……」
と続きます。一通り心理検査の説明が終わると、いよいよジャックの説明が始まります。
ジャックから親への説明は非常に印象的でした。まず子どもの長所をたくさんあげます。そしてとても子どものことを誉めます。形容詞は驚くほどいっぱいあ ります。beautifu1(すてき)、nice(みごと)、cute(可愛い)、precise(几帳面だ)、cheerfu1(快活だ)、 outstanding(際だっている)、great(凄い)、patience(我慢強い)、それにvery(とても)とかstrikingly(著し く)といった副詞がついたりします。それも子どもに合った言葉を選んでいるため、お世辞には聞こえません。
その後で、もう少し具体的に子どもの特徴を説明します。やはり肯定的な点をまずあげます。 communicative (コミュニケーションができる)、skillful(器用だ)、smart、bright(どちらも頭が良い)、easy(穏やか)、have fun with him (一緒にいて楽しい)、good memory (記憶力が良い)、good visual response (視覚的な反応が良い)、good at manipulation (手先が器用だ)、active(活動的だ)などなど。
そして最後に子どもの問題点について説明します。「コミュニケーションが難しい」、「聞いて理解することに多少の問題がある」、「人より物の方に興味が ある」、「多動である」、「動きが少なすぎる」、「自分から行動を開始しない」、「変化に対して抵抗が強い」などです。
その後、テスト結果と直接観察のまとめに加えて親から得た情報を加えて最終的な診断について告げます。日本でよくあるような「とりあえずようすを見ましょう」といったあいまいな説明はしません。診断からテスト結果まですべてはっきり と親に告げます。診断を告げた後でどこの学校や幼稚園が良いかといったplacement(措置)の話題になります。必要に応じて言語療法士や作業療法士、医師なども紹介します。
日本と比べて恵まれているのは、自閉症の子のためのTEACCHクラスが幼稚園や学校などできちんと準備されていることです。もちろん自閉症と診断され たからといってすべての子どもがTEACCHクラスを勧められるわけではありません。高機能の子どもの場合には普通学級を勧めることもあります。ただしその際には 普通学級で過ごすための構造化の工夫について助言します。自閉症と構音障害を合併していたり、自閉症に加えて動きが非常に不器用だったりする場合には、養護学級を勧めることが多いです。養護学校には教師以外に言語療法士や作業療法士が常勤あるいは常勤に近い形でいるので、教師以外の専門家が常にかかわることで子どもが利益を得る場合には養護学校が適切だというのがジャックの考えです。これも日本とはかなり事情が違うと思いました。
このように自閉症か自閉症でないかだけでなく、どのような専門家の援助が必要かという視点からも診断・評価がなされます。そして診断結果が援助の方法と有機的に結びついていることがTEACCHにおける診断の大きな特徴でしょう。
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続いて「9 事例」からの引用。
これも髭のジャックの様子です。
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Aという2歳10ケ月の重度の自閉症の男児。言葉は全くありません。手かざしなどの感覚的な遊びに没頭し、人に対しては何の興味も示しません。一見して かなり重度と分かる子どもでした。
ジャックは親に対して重度の自閉症だとはっきり言った後、
「これは一生のものだ(life long)、おそらく生涯に渡って自立は不可能だろう」
とまで説明したので私もちょっと驚きました。当然のことながら、母親は泣き出してしまいました。ジャックは
「あなたが思っていたより悪い結果か?」
と聞き、母はうなずきます。
「これは確かに良い知らせではない。でも我々はずっとAのことも親御さんのことも必要なだけサポートする用意がある。まず自分のことを大事にして欲しい。 あなたが必要と思うだけ話はできる。後で疑問に思ったり、聞きたいことがあったらいつでも電話してくれ。私がいなくても子どものことを知っているセラピス トがあと2人いる。3人のうち誰でも相談にのる」
と言った後で、今度は別のセラピストから
「どこそこの幼稚園に自閉症のクラスがあるから、そこだとTEACCHセンターが援助できる。また自閉症の親の会に入ると親同士で助け合ってあなたにも きっと役に立つだろう」
などと説明されます。ジャックも親の会に入ることを薦め、
「我々は自閉症の専門家だから、自閉症の子どもをどう援助するかについてあなたに助言することはできる。でも自閉症の子どもを持つことはどういうことかに ついては、何も言えないのだ。親の会には素晴らしい人がたくさんいる。彼らも今のあなたのようにつらい思いをしたことがあった。きっとあなたの力になって くれるだろう」
と締めくくりました。ジャックはいつも診断の最後に親に向かって
「自分のことを一番大事にするのが大切だ」と説明します。
2歳10ケ月の子どものケースに対してそこまで言い切っていいのか疑問に思い、後でジャックに質問しました。
「確かに今後伸びて自閉症でなくなったり自立できる可能性はゼロではない。でも彼は現時点ではとても重度だろ。可能性としては重度のまま大人になっていく 確率の方が圧倒的に高い。我々はそういうデータを持っている。自分の持っているデータに基づいたことを言うことが専門家の役割じゃないか?」
と彼は説明してくれました。私自身いろいろ考えさせられました。読者の皆さんはどう思われるでしょうか?
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この後、高機能の男児の事例が出てきますが、割愛します。
お分かりになるでしょうか。きっちりと診断は告げるし、また「見てわかること(構造化)」の大切さは伝えているけれども、いかに親御さんに気持ちを楽に してもらえるか、希望を持ってもらえるか、支えていくよ、ということも伝えていることがおわかりになるでしょう。
もし不安のままに置いておくような、また「療育」ということを「たいへん」「とてもできひんわ」とか思わせるようなら、それはTEACCHじゃないと思 います。(もちろんそれだけ努力しても不安を抱える方はおられることと思います)
私は日本で教師対象のトレーニングセミナーに髭のジャックたちが来た時にトレーニングを受けました。
自閉症の人に音声言語で話しかける
自閉症のお子さんとのやりとりに感動した話
あと髭のジャック関連はこちらにいくつか集めています。
髭のジャックについて(元ノースカロライナTEACCH部ディレクター)
髭のジャックにしろディビッドにしろ、参加して我々に教えてくれたお子さんに対しても、教師に対してもすごく褒めてくれてリラックスさせてくれようとし てました。ものすごく楽にさせてくれようとしたのですね。
で、その時、髭のジャックは我々への何の講義の時だったのか、概ねこんなことを言いました。
「私は疲れてこの仕事を辞めようと思うこともある。専門家はいつでも辞められる。しかし保護者は辞められないのだ。そのことを考えてまた仕事へ向かう」
ほぼ同じ言葉を「だから親は頑張れ」という方向で語る方もおられます。それはしんどい。髭のジャックの言葉は真逆の方向であることはおわかりになるで しょうか。
髭のジャックの言葉は、教師や支援者に対してなかなか厳しい言葉ではあります。しかし、責められる感じ、追いつめられる感じはしませんでした。
その「責められる感じ」「追いつめられる感じ」について。上で書いた5日間セミナーは、私にとって4回目のトレーニングセミナーでした。だから慣れてき ていたというのもあるかもしれませんが、それまでの日本人だけで運営されていたセミナーと少し感じが違いました。ものすごく楽だったのです。
それまで3回のセミナーは、別に講師が言葉(音声言語)で言ったわけではないのですが、何か「がんばらなきゃ」というメッセージを私が(勝手にですが) 受け取って、ちょっとしんどかったのです。これは私がもともとうつ傾向が強く、自責感があった、というだけかもしれません。しかし4回目の髭のジャックた ちが運営に関わった時は全然感じなかったのです。
これはひょっとしたらかなり大きいことかもしれません。(繰り返しますが日本人講師の方も言葉で言ったわけじゃありません)
もちろんそれ以前は「私は変わらなきゃ」「学校を変えなきゃ」というのを思い続けていたからかもしれませんが。でも4回目の時は私は感じなかったのね。 で「そのままでいいよ」というメッセージを受けました。(でも言葉(バーバル)でなく、あくまでも感じ(ノンバーバル)なものです)
アンディ・ボンディさんのPECSの2日間セミナーに行った時もすごく楽でした。
アンディさんはそれまでの周囲で見られる「指導」というものが、「指導者が出すプロンプト(行動を起こすきっかけ、みたいな意味。自閉症の人の前にいる 指導者の音声のこともあるし、身振りや視線であることもある。)によって行動する」というふうになり、本人からの自発性やコミュニケーション能力が育って ないことに困ってPECSを開発したのです。セミナーの時のノートからいくつかの言葉を拾ってみます。断片だし、不正確かもしれませんが。
「『強制は学ぶことじゃない』まず『信頼する』ということを教える(必ず好子(強化子、まあ「好きなもの」と考えればいいです)が貰える)」
「なぜPECSをするのか。発話できればそれはすばらしい。しかし発話できなくてもすばらしいスキルを身につけることはできる。アイコンタクトができなく てもできる。机(の前)に座れなくてもできる。もちろんアイコンタクトができたり机(の前)に座れることができればそれはすばらしいけど」
で、PECSは本人の「好きなもの」「好きな活動」を徹底的に探して、その要求ができるようになるところから始めます。
やっぱり、私は「君は君のままでいいんだよ」「楽にやればいいんだよ」というメッセージを受け取りました。(もちろん専門家には、その上で知識・技術が 必要になるわけですが)
自閉症児と絵カードでコミュニケーション PECSとAAC アンディ・ボンディ他著
で、TEACCHでもPECSでも自閉症の人は視覚的な情報処理に強い人が多いから「見てわかるもの」を多用します。視覚支援ですね。で、こんなことも 言われます。ってか私も言います。
自閉症の人から視覚支援を取り上げるというのは、視覚障害者から白杖を取り上げるような薄情な話だ(門眞一郎先生の駄ジャレ)
視覚支援はメガネをかけるようなもん。
視覚支援は歩けない人の車イスみたいなもん。
すべて支援グッズ(自助具)だと言いたいわけです。
ここで「車イス」でもこんなこともあるよ、の例を書いてみたいと思います。
私の80歳の母親は、現在家の中を杖をついて歩いています。外出はほぼ不可能です。現在かかっている大病院に初めて行った時、広い病院だし車イスを使うことを提案しました。母もそうしよう、と賛成しました。楽々素早く移動できました。
しかし帰る時に母が「次からは車イスを使わない」と言いました。
で、次からはゆっくりゆっくり歩いています。時間はかかるけれど、まっ、いっかあ、です。これで私が「いや、車イスを使いなさい」と言うのは変ですよ ね。もちろん、転倒などの危険が大きくなればまた提案します。
まあ、このたとえは自閉症の人への視覚支援や支援グッズの話とはちょっと違う点もあるのですが。でも周囲の人が押し付けるもんじゃない、という話なんで すけどね。
自閉症の人に対してだったら「いくら周囲の人に便利だからと言って、音声言語の使用を自閉症の人に押し付けるのは間違っているよ」ということで もあるし。また、専門家や特別支援教育担当教師が「視覚支援」「支援グッズ」を作ることは当然として、現時点で作ることのできない保護者や、構えのできていない保護者に無理強いすることはできない、って話でもある。(もちろん、あれこれ作って下さったらすごくいいのは確実ですが。でも具体的なアイデアが楽に出るところまで、サポートする専門家や担当教師は持っていって欲しい。責めるんじゃなくてね。で視覚支援は従わせる手段じゃないってのもちゃんと伝えて頂きたい)
まあ、そんなことを考えています。
※その後、母は少し足を痛めたりして、
病院では自分から車イスを要求する
ようになりました。