2013年発行
副題は
「世界を変えたナチスの薬と医師ゲハルト・ドーマクの物語」
しかし、確かにナチス政権下で開発されたけれど、バイエルという独立した会社が、ゲハルト・ドーマクをはじめとしたチームで開発した時、たまたまナチス政権下だった、というだけの話と思うが・・・
医学生ドーマクが1914年に第一次大戦に従軍し、負傷、野戦病院に送られるが、快復後もその病院で働き、外傷から細菌感染の悲惨な状態を見て、何とか薬を作りたいと決心するところから始まります。
1932年12月 バイエル社にいたドーマクは化学者(様々な物質を少しずつ変えて作り出す)
から受け取った、アゾ色素にサルファ剤を加えた物質が連鎖球菌に効くことを発見する。
この当時、「治験」という仕組みはなかったが、バイエル社は緻密な動物実験は組織的
にやっていた。
そして特許を申請し、また治療実績は少しずつ結果を蓄積していった。(このあたり
後のアメリカの会社とは全然違う)
1935年11月 フランスのパスツール研究所のフルーノのチームは特許を解析してバイエルの新薬を
作り出す。バイエルの正式発表から3か月後。そしてさらに、バイエルは色素こそが
治療し、サルファはそれを強める添加剤と考えていたのに、サルファこそが治療し、
色素は治療に関係ないことを見つけ出す。
1936年11月 ルーズベルト大統領の息子が副鼻腔炎で死にかけたところをサルファ剤で助かる。
その後アメリカでサルファの大ブーム
1937年秋 アメリカのマッセンギル社が、サルファに溶剤としてジエチレングリコールを使った
エリクシールという薬品を販売。この本では確かな死者67人。(Wikipediaでは105人)
しかしもっと死んだであろう最悪の事態を阻止したのはFDA。当時はFDAは300人以下
の部隊だったが、この後増強された。
1938年 連邦食品医薬品化粧品法が議会を通過。この法案はロビイストによって骨抜きにされ
るところだったのが、エリクシールの事件により、現在の土台となるものができた。
そして新薬は発売される前に安全性を証明しなくてはならなくなった。
ジエチレングリコールって聞いたことがあると思ったらWikipediaによると
2007年5月には、パナマ政府が2006年に中国から輸入した風邪シロップとして配布した薬(Azucar)は、中国の業者が「グリセリン」と偽って販売したジエチレングリコールが原材料に含まれていたため、これを経口摂取した少なくとも100人以上が死亡した。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻。第二次世界大戦の始まり。
10月26日。ドーマクにスゥエーデンからノーベル賞受賞者に決まったと連絡。
しかし政府(というかヒトラー)は許さず、ドーマクは一時逮捕拘禁される。
1941年12月7日(日本では8日)真珠湾攻撃。
たまたま講演にハワイに来ていた外傷専門医のジョン・J・ムーアヘッドはすぐに病院に行き
1医療部隊の班長となる。この時サルファ剤をもちいて、最初の1週間で直接の外傷が原因
で死亡した以外、感染症で死んだ兵はいなかった。
イギリス軍・アメリカ軍・ドイツ軍は個人装備の中にサルファ剤があった。
日本では知られて、作られてもいたが、基本的に医薬品不足でいきわたらなかった。
1942年 軍の病院でサルファ剤の効かない例が増え始める。耐性菌問題。
戦後はペニシリンなど抗生物質にとって変わられる。(しかし、抗生物質でも耐性菌問題はある)
1947年 ドーマク、ノーベル賞受賞。
一読、1936年とかそれ以前、ほんと産褥熱、咽頭炎、副鼻腔炎、ちょっとした外傷、ねぶと(膿瘍)などでバタバタ人が死んでいった、という印象が強い。またそれ以前は「治験」という概念が無かったというのが恐ろしい・・・その中でバイエル社などは慎重に動物実験はじめ、よくやっていたほうだと思った。
サルファ剤が細菌に効いた初めての「化学治療」の物質であることを知る。(それまでにサルバルサンがあったが、梅毒は細菌ではなくスピロヘータだし)
追記。「スピロヘーターはらせん状の形をしたれっきとした細菌」というツッコミが入りました。
単細胞生物>スピロヘータ>細菌>ウィルス とかで別もんかと思ってた・・・(^_^;)
そしてサルファ剤以降、化学薬品で治療できるという希望を人が持つことができた。(それまでは悲観論が多かった)
いやーー、私もものすごく恩恵を受けてるんだなあ・・・
ゼンメルワイスのこと(産褥熱への対処法を発見した医師)
ラベル:本