曇りです。さきほど一雨来ました。すぐに上がりましたが。
ー「種田山頭火と尾崎放哉」徳間書店よりー
けふも托鉢ここもかしこも花ざかり
山頭火 1925年(大正14年)
昨日の「労(つか)れて戻る夜の角のいつものポストよ」が東京で、1920年(大正9年)に発表されたものですが、1921年から1924年(大正10年から大正13年)にかけて、山頭火は句を作っていない・・・というか発表していないってことだろうな。
昨日も書いたけど、1920年に妻、サキノと離婚。
1921年(大正10年)39歳で5月父竹治郎死去。
6月正式に東京市役所の事務員になる。
1922年(大正11年)40歳。一ッ端図書館を神経衰弱症で退職。やっと正式採用になったのに・・・
1923年(大正12年)関東大震災。避難中に憲兵に拉致され巣鴨刑務所に留置される。って・・・朝鮮人か中国人と間違われたということ??別に大杉栄みたいな思想犯と誤認された、ってことじゃないだろうし・・・当時は官の警察・憲兵だけでなく、「自警団」もめちゃめちゃヒステリックな動きをしてたもんな。
9月に熊本に帰る。
1924年(大正13年)42歳。12月、酒に酔って熊本公会堂前で電車の前で仁王立ちになり、急停車させる。運転手や乗客から詰問されても泥酔して埒があかない山頭火を救ったのが「熊本日々新聞」の記者、木庭徳治。そのまま山頭火を市内の曹洞宗のお寺「報恩寺」に連れて行き、預けた。
住職の望月義庵は山頭火を受け入れ、無門関を与える。
1925年(大正14年)43歳。2月望月義庵和尚を導師として得度。(しかし、正式の僧としての資格ではなく沙弥という資格であるらしい)耕畝(こうほ)と改名。まもなく熊本県鹿本郡植木町にある味取観音堂(みどりかんのんどう)の堂守となる。句作に励む。
今日の句は、得度もし、堂守となり托鉢に出た時の句かな。この頃から句作に励んだとのこと。
世界史との関連で見ると1922年。ワシントン海軍軍縮条約締結(主力艦保有量を米・英・日=5・5・3の比率)
それから1923年には北一輝の「日本改造法案大綱」が出てます。
そういう時代に、堂守となり、托鉢してたんやな。なんて言うか、それなりに充実した日々だったのかもしれない。
関東大震災関連映像
ラベル:挨拶 天気 俳句