プリントや問題をやった時に、わかったか、わからなかったかを教えてもらうためのメータ。
で、また「いらいらしてる」なんてえのもやってみたそう。その絵は見せてもらわなかったので、私がこんなのもできるよね、と「おこっている」と「よろこんでいる」で描いたもの。
でね、これを「いらいらする」でやられたそうなのだけど、するとあるお子さん「すごくいらいらする」を指し示し、しかしそれから問題に取り組んだそうな。いやあ、めちゃよくわかります。「俺はこんなにいらいらしてるんだ!!」というのを周囲の人に理解してもらったら、またその困難に立ち向かっていける、ってことありますもんね。(注・それをねらって、本人がいらいらするような課題の時に使おう、なんてえのはやめておいて下さい)
また「おこってる」だったか「はらがたってる」だったかの時、そのお子さんが「はらがたっている」を指し示したそう。で、そのスタッフさん「私もはらがたっている」とか指し示したそう。そしたらその子が「ごめんなさい」だったかなんか言ったそうな・・・(注・たぶんここにあげた例のお子さん、複数ですが、みんなたいていの方には音声言語でじゅうぶんやりとりできている、と思われているお子さんです)
その話を聞いて、私は
「そうなんですよ。コミュニケーションというのは双方向なわけですよ。障害のある方の気持ちを聞こう、尋ねようというのは大事。しかしよくあるのが障害のある人の意向を汲んで、支援者はがまんするのが当たり前みたいなの。でもそんなのおかしいですよね。お互い、伝え合えてこそです。お互い様です。
ただし、障害のある人は、自分がどんな思いをしているか、どんな考えを持っているかにおかまいなく、周囲の思い込みで動かされていることも多いし、こちらが『これが当たり前やろ』と思っていることが本人にしたら全然当たり前のことじゃなかったりするから、そしてそれがほとんどという状態で日々過ごしていることが多いから、それは気をつけないといけないけどね」
という話をしました。
あとあるお子さんについて
「算数ねえ・・・文章題になると『いやだ』と拒否するんです」
とおっしゃったので、もちろん私はそのお子さんのことはわかりますから即
「そんならやめたらええやん。必要ないで」
と答えました。
世の中、生活していく時に、算数の文章題みたいな文、無いって・・・
追記
大事なことを書き忘れていました。
このスタッフさん、なぜこんな取り組みを始めたのか。それは
「子どもが思いを持っているのはびんびん伝わってくるんです。でも、その内容が何かわからない。だからそれをはっきりさせたくて」
とおっしゃってました。
私が肢体不自由養護学校に行った時に「君たちの考えていることを教えてくれ!!」と強く思ったことを思い出しました。
そういう「思い」があっての「具体的な方法」なわけですね。
でも、もちろんもっと「カジュアル」に、そんな「思い」なしで気軽に取り組んでくださってもいいし、それが世の中に、一般に、広がる、ということかもしれません。だいたい「思い」が強いのなんて「暑苦しい」し・・・
しかし考えて頂きたいのは、上のような思いを持ったスタッフさんでも、とりあえずの講義も受け、引き継ぎも動画も見ながら受け、一部教材を用意してもらっても、「すばらしい取り組み」で書いたように、最初は「音声言語でやりとりすることしか考えない」もんなわけです。それが当たり前、という言い方をしてもいいでしょう。これだけ素晴らしい資質を持った方でもなんです。
でね、今、学校で「問題行動」をやってる先生、たくさんいると思うんだけど、きっとそんな先生がたも、「ちゃんとしたことを教えてもらってない」せいだと思うよ。その先生がたの資質の問題では無い。
教師を教える立場の人の責任は重いと思うよ。