いい天気です。ちょっと霞がかかってる気はします。これはなんだろう?
ー秋月龍a著 一日一禅より kingstoneちょい変えー
大梅和尚(が若い時だろうな)が馬祖和尚(709年 - 788)に問うた。
大梅「仏とは何ですか」
馬祖「即心是仏(心そのものが仏だ。即心即仏ともいう)」
これは「平常心是れ道」とも同じ。煩悩も含めふだんの心こそがさとりである、ということらしい。のちに大梅和尚が大梅山に住してから、ある僧が尋ねた。
僧 「老師はこんな山中でどんな禅を行じておられますか」
大梅「即心是仏」
僧 「馬大師も昔はそのように言われていましたが、このごろは違います」
大梅「どう言われる」
僧 「もっぱら『非心非仏』と言われます」
大梅「老漢(おやじ)はまだそんなことを言って人をだましておるのか。たとえ馬大師がなんといおうと、私はただ『即心是仏』だ」
それを伝え聞いて、馬祖は言った。
「梅の実は熟した」
ええなあ。これは直感的にはよくわかる。老師がどうであろうと自分は自分。
しかし「即心是仏」は「心は仏である」でよくわかるのだけど、「非心非仏」は「心でないものは、仏ではない」という意味なのかな??「AはBである」はよくわかるけど「AでないものはBでない」は・・・ふむ
「AはBである」は集合としては、AとBが同じか、AがBの中に入ってる。
「AでないものはBでない」は集合としてはAとBが同じか、BがAの中に入ってる。
そーゆーことか。(ってそう考え出すと「間違い」なんだろうけどね)
ラベル:挨拶 天気 禅語
「即心是仏」の場合、「是」は「=」や「is」みたいな意味ですから「心によりそうことは仏道である」となりますが、「非心非仏」の場合前後の関係を示す語がないので「心ではない、仏ではない」という否定の並列に過ぎません。否定の仮定条件(「○○にあらずんば○○にあらず」)だと強引に解釈すると「kingstoneさんの訳となりますが、若干無理があります。漢人の感覚として同じ語を使う場合は「並列」です。仮定条件にしたいのなら、同様の違う語を使って、例えば「非心不仏」とでもするはずです。