岩波ジュニア新書
いや・・・題名はちょっと恥ずかしい・・・まあ「岩波ジュニア新書」だからしかたないか・・・
「はじめに」ではラグビーという町でラグビーが生まれた話(でもってバドミントンって町もあるんだって。そこでバドミントンは生まれたのかな?)のあと、2010年暮れから11年の初めにかけての花園のことが出てきます。大阪朝鮮高校の権裕人(コンユイン)君が花園の2回戦で脳震盪を起こし、その後の試合に出られず、それを残念に思った人たちの尽力でたくさんの花園に出場した選手が選抜チームを作り、大阪朝鮮高校と関西学院大学で対戦したエピソードが出て来ます。
2011年1月22日ですね。私もエントリを書いています。そして初めてコンパクトデジカメLUMIX FX60で動画を撮り、iMovieで編集をしました。
高校ラグビー 大阪朝鮮高級学校VS黄金世代選抜 於関西学院大学
大阪朝鮮高級学校対黄金世代選抜総集編
総集編の動画だけ貼っておきます。
この本の最終章、第6章は神谷考柄君。
1990年生まれ。
東大阪市立池島中学校(ラグビー部)
↓
東大阪市立日新高校(ラグビー部)
↓
国立筑波技術大学
彼は右目はほぼ見えず、左目も0.02〜0.04で視野狭窄もあり、文字はいつも携帯しているルーペに顔をくっつけるようにして1文字1文字読む。ただし杖はつかず普通に(?)歩いている。
1歳4か月で「くも膜のう胞」で頭にシャント(頭(脳)から体に埋め込んで髄液を体内に逃がす管)を入れる。4歳の時に原因ははっきりしないが(シャントつまりの可能性大)視力を失う。
中学でラグビー部に入る希望を出すが、学校側は「試合には出ない」という条件をつける。これ後ろを読めばある意味「当然」の条件かもしれません。
しかし、2年生の時に「試合に出たい」という気持ちを両親に伝え、それを両親が監督に伝えます。監督は「試合に出さないまま後悔するよりも、試合に出してみて試しながら考えよう」と決断してくれます。で出た試合で彼は2トライを上げます。そして彼はすぐに中心選手になったそうです。
日新高校ではラグビー部はまだ創部2年目だったが、花園をかかえる町にありレベルは高かった。入部をためらう神谷君にキャプテンは「目が悪いとか、パスが取られへんとか、関係ないから気にせんと一緒にがんばろ」と声をかけます。
彼はパスを取るのはむつかしいが、ボールを持っている相手は一人だけ動きが速いから、わかるとか。ポジションは左プロップ。左側頭部のシャントチューブに衝撃を与えないため。彼は1年からレギュラーになります。
大阪工業大高校(現・常翔学園)との試合では、デフェンスラインを抜けた相手を後ろからのタックルで倒した。
2年生の冬には同志社香里に勝っています(すごい!!)
準決勝では大阪工業大高校に50-21で負けてますが、大阪工業大高校に21点も取るのはすごい。
試合ではチームメートの声かけ「こっちや」「まだ入るな」「いまや、行け」そしてボールを持ってゴールラインを越えた時には「入ったぞ」という声をたよりに動いていたとか。(逆に言うとゴールラインは見えない)
2008年、花園ラグビー場の第2グランドが彼の最終戦になります。密集から相手側にボールが出た後すぐに彼が突進したのを反則と見なされシンビン(時間限定の退場)を取られます。なんせ見えてないからねえ・・・そこでチームは崩れていき大敗します。しかしみんなは明るく突っ込んでくれたとか。
で、卒業後鍼灸師を目指し、筑波大学技術大学に進み、クラブチームでやったり、ブラインドサッカーのチームで楽しんだりしていたが、シャント関連で腹膜炎から髄膜炎になります。命が危険な状態になります。しかし彼は奇跡的な回復力を見せます。
現在は、ブラインドサッカーも引退したとか。鍼灸師を目指すためにリスクは最小限にする、という彼自身の判断であるらしいです。
で、ここまで来て、中学・高校の時に「何も起こらなかった」というのは「運」以外の何物でもないよな、と思います。じゃあ、本当はラグビーなんかしない方が、させない方が良かったのか??そんなことは無いと思います。
本当に難しいところですけどね。本人が「やりたい」と望み、周囲がサポートした、それだけだと思うのです。もちろん「もし万が一何かが起こっていれば・・・」う〜〜ん。
実は私も身内が試合中に「四肢麻痺になるか」という事故を起こしたことがあります。結局大丈夫でしたが。その間、私が考えていたのは「まあ、何かあったら電動車イスもあるし・・・支援グッズも揃えられるやろし」みたいなことでした。
ふり返ってみれば、私も親に反対されながら冬山に登っていたし、そして命を失っていておかしくないこともあったし・・・
でも、全体通してみりゃ、良かったな、と思えるし。
まあ、学校とかの立場としてはむつかしいところですけどね・・・
ラベル:ラグビー