※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2012年08月30日

8月30日(木)  大士講経竟

 おはようございます。

 雨上がり。曇です。


ー秋月龍a著  一日一禅より  kingstoneちょい変えー

 梁の武帝(464 - 549)が溥大士(ふだいし。生没年不詳)に「金剛経」の講義をしてもらった。大士は講座の上で机を一つ打つと、さっさと座をおりた。武帝が驚いていると、そばにいた誌公(武帝の宗教顧問)が言った。誌公「陛下、おわかりですか」
武帝「わからぬ」
誌公「大士講経竟(大士は経を講じ終わられたのです)」

 おもしろい。

 けど、下手すると「裸の王様」になっちゃうんだよな。「馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地」が「ある」と思い込んで、みんな見えないのに「おきれいですね」と誉めそやす。で、子どもが「王様は裸だ!」と叫ぶ。
 まあ何にせよ、「わかった気」「わかったつもり」になっちゃいかんよなあ。


 昨日は歯が痛くなって(意識しては)初めて痛み止めのロキソニンを飲みました。すぐに効いてきてびっくりしました。

posted by kingstone at 08:02| Comment(2) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 このエピソードは「講義」の特徴を如実に表していますね。一般の理解と違って「講義」は受講者側に「講義する側と同等の知識・力量」が求められるのです。なんたって、「聞くだけでわかる」からには相当の知識量が必要なのです。旧制中学の講義や1960年代くらいまでの大学の講義では、全員とは言わないまでも、一定数「講義者を超えているような逸材」が聞く側にいたのです。そのような人に触発されて他の凡人も精一杯「見栄を張る」ために「頑張った」のです。今日の教育の一番の特徴は「頑張らなくていい」「ありのままでいい」「見栄などはらなくていい」という、還元すると「努力しないでバカのままでいろ」というメッセージを発していることです。私流に言えば「知的好奇心の否定」です。
 私の師の一人である宇佐美寛先生は、「大学で講義などするな。座っている学生はサルですらなく、放おっておくとミミズになるような輩だ。そういう輩にはまず人まで進化させる必要がある」という意味のことを言ってました。
Posted by もずらいと at 2012年08月30日 18:17
もずらいとさん、どうもです。

|「聞くだけでわかる」からには相当の知識量が必要なのです

これはいろいろ痛感しますね。
で、見栄を張ることもすごく大事なことだと思います。

|そういう輩にはまず人まで進化させる必要がある

そう。そうする必要があります。
Posted by kingstone at 2012年08月30日 18:27
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