私の関わりのある法人
ksbutton.png omemebuttan.png sowerbuttan.png
※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2012年07月12日

女の旅 ー幕末維新から明治期の11人 山本志乃著



 中公新書

1863年 荷車による貨物輸送が認められた(ってそれまであかんかった!!)
1866年(慶応2年)4月 海外渡航は学業修養や商用目的なら旅券が交付されるようになった。(鎖国の終了)

 当時の女の旅の制約。
  ・関所。「改め」は男より厳しい。
  ・男の道連れを要する。一人旅はまずなく、女同士も瞽女や比丘尼など職能者。
  ・旅が可能な年代。結婚後子どもが独立するまではお金も時間も捻出できない。
  (あと、当然、人目の無いところではレイプ、金品を奪われる、などの危険もあったと思うけど)

1869年(明治2年)正月 関所全廃(往来手形がいらなくなる。しかし鑑札が交付されていた)
1971年7月 鑑札も全廃。以後、日本人の旅行は制度上自由となる。

 しかし、本書の中でも「一人旅」をしたらしいのは第1章の田上菊舎だけかも。またこの人は尼(浄土真宗)であったから比丘尼に入るのかな。

田上菊舎
(1753 - 1826)
 長府藩士の娘。15歳で嫁ぎ、22歳で死別。(後ろにもいろんな人が出てくるが、15歳で嫁ぐってのはごく普通みたい)
1778 長府の五精庵只山(しざん)から俳号「菊車」(のちに「菊舎」)を授かる。
1781 萩の浄土真宗清光寺で得度・剃髪。
    俳諧に通じた人から、美濃派宗匠である朝暮園傘狂への紹介状をもらい、それを手に難波津へ。
    11月本願寺報恩講へ参加。
    難波津で世話を申し出てくれる人がいて長逗留。
1782 美濃の傘狂のもとへ。
    旅の目的は親鸞直弟子24人を開祖とする越前・越後などの寺院を巡る二十四輩巡拝と「おくのほそ道」の逆をたどること。
    4月に「一字庵」の号と、各地の美濃派宗匠に宛てた紹介状をもらい出発。

    かんこさへ聞かぬ日もありひとり旅

    関所で止められても、船賃代わりに短冊一枚で川を渡らせてくれるところも。(船頭さんも風流を解していたのか)各地の宗匠からの紹介状は通行手形なみの効力を持っていた。
    暮れに江戸に入る。
1874年4月 江戸から京都を経て長府へ。

    その後も東へ西へよく旅をしている。

 しかし・・・「おくのほそ道」をたどるというけれど「おくのほそ道」そのものが西行の旅のあとをたどるものだったし。歌や俳諧の先達の道を旅するというのはある意味定番やなあ。それって「旅行誌の情報を確認しに行く旅」とも似ている。なんか「そうしたくなる」ところが多くの人にあるんやろな。

 俳諧の宗匠を頼っていけば宿泊もさせてもらえる、というのも不思議と言えば不思議。これも「まれびと」というのとは少し違うけど、「情報を流通させる旅」であることは間違いないやろ。

松尾多勢子
(1811 - 1894)
 信濃国伊那郡山本村(現飯田市)の豪農に生まれる。庄屋の北原家当主が開く寺子屋で、手習い・裁縫・糸繰り・礼儀作法・漢学・算術・和歌の基本など教えこまれた。

1862年 51歳にして京都へ出る。歌の道を通じ御所でのイベントにも呼ばれたり、志士とのつきあいもできたりする。
1868年 岩倉具視邸で訪問者への対応・子女の教育など家政全般にあたる。

楢崎龍
(1841 - 1906)

 坂本龍馬の妻。日本で初めての新婚旅行。

岸田俊子
(1861 - 1901)

 民権派女弁士。そーゆーのがあったんや。

1883年 「女子学術演説会」で演説後に官憲に捕まる。(この「学術」というのも「政談」とか言って官憲との摩擦を大きくしないため)
     この「大演説会」は弟子も出ており、太刀ふじ・梁瀬壽惠(壽は嘘字。ほんとはさんずいへんがつく)はまだ10歳にも満たない。(ってことは演説内容より、ひょっとしてアイドルっていうか芸を見にいく感じか??また「衝突する弁士と警官に激昂する聴衆が加わって、大騒動となることも珍しくなかった。むしろそれを一種のパフォーマンスとして面白がるふうが、聴衆の側にはあった」ってことです)

 しかし、この時も400人ほどの聴衆が集まってた、ということだし、全国を巡業してたみたいだし、興行として成り立ってたのかな?すごく興味ある。

野中千代子
(1871 - 1923)

1895年 夫、野中到とともに富士山頂で越冬観測をしようとした。(すごいなあ・・・無茶苦茶やなあ・・・なお、当時は日清戦争が終わり、日露戦争を控え、探検ブームであり、こういう極地体験は大衆的な人気も盛り上がったそう)

 新田次郎の「芙蓉の人」は野中夫妻を題材としている。まあ言えばその後が「富士山頂」の物語に繋がっていくわけやな。





河原操子
(1875 - 1945)

 教師となり、上海で教鞭をとっていたが、官命を受け、モンゴルのカラチンに学校を作ると同時にスパイ活動(対露)もしていた。

イザベラ・バード
(1831 - 1904)

1878 日本に来訪。当時は外国人は開港場から10里四方の「遊歩区域」しか自由行動を許されておらず、それ以外の地域を旅行するには「外国人内地旅行允準条例」に基づく「外国人旅行免状」が必要だった。必要が無くなったのは条約改正後の1899年のこと。

 旅の途中「蚤」とか「煙」とか「下水の悪臭」にかなり苦しめられたみたい。また宿のプライバシーの無さにもまいったみたい。(というか宿にはいろんな人がいっぱいいたってことがわかる)

 しかし出発前の横浜でイギリス代理領事のウィルキンソンから「イギリス人女性であるあなたが一人旅をしても、絶対大丈夫だ」と言われていたように、安全感はあったみたい。なおイザベラは伊藤という若い男性通訳と二人旅。この伊藤は「危険だから金品を預かりましょう」と言われて預けても大丈夫なくらい信用のおける人だった。

1880 「日本奥地紀行」を出版。


posted by kingstone at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック