たまたま図書館の返却コーナーにあったのを借りて来た。
面白かったです。
良寛さん。Wikipediaによると宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕
天明の大飢饉(1782年(天明2年)から1788年(天明8年))とかあったころだな。
越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)名主の家の生まれ。で、若い頃は本人の詩にうたっているところによれば
朝には黄色いぴらぴらした衣装を来て、白い鼻面の馬に跨って遊びにでかけ、お酒を買って飲むし、夕暮れには花見に行ったり、何不自由なくj暮らしていた。帰って行くところはどこかといえば娼婦の家。
という生活をしていたと。しかし良寛は18歳で出家してるんですが、それ以前にそういう生活をしていたと・・・
この頃、青年が出家するというルートは確かにあったものみたい。で地元の曹洞宗のお寺で修行をしていたところ、たまたま国仙和尚が行脚しに来て、感化を受け玉島(岡山県倉敷市)の円通寺に行きます。
ここで十数年修行し、国仙和尚から印可も受けます。その時に国仙和尚からもらった名が大愚。
しかし、国仙和尚が亡くなり、本山から円通寺の住職として玄透即中和尚が来ます。この和尚も優秀で「やり手」だったようです。良寛はそりが合わなかったのか、もともと寺の運営とかいうことには興味が無かったのか、寺を出、行雲流水の旅に出ます。
その頃、近藤万丈(玉島の国学者)が土佐・高知への旅の途中で会った、みすぼらしい庵に住んでいたほとんどしゃべらない僧が良寛であったのかと述べている。
48歳(1806年か)のとき、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵で暮らし始める。
で、良寛は詩文をよくしたわけだけど、もともと道元にも心酔し、「正法眼蔵」に対する理解も深かった。で、「正法眼蔵」には、詩文みたいなものに婬しては堕落なんだ、と書いてある。また当然、道元禅だと寺の運営とか組織とかに価値を見だすところもあると思う。で吉本さんは良寛は道元に憧れつつも、詩文を愛し、寺から出て隠遁することで、道元から落ちこぼれたような思いもあったのでは、というような意味のことを書かれていてなるほどな、と思いました。
まあ、「只座れ(只管打坐)」と言いつつも道元さんも「正法眼蔵」を書いたわけですが・・・
で良寛さんは托鉢・乞食で命をつないで行く。詩文にも凶作の時のこと、値上がりのこと、とか書いているものがあるので、周囲の人も苦しい時も多々あっただろうに。
で托鉢の途中に子どもと手毬をついて遊んでしまって用事を忘れるなんていうエピソードも出てくるわけですが。
晩年の貞心尼との交流もいいなあ。瀬戸内寂聴さんに「手毬」という作品があるそうな。
ラベル:宗教 曹洞宗