※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2012年03月31日

3月31日(土)  赤肉団上 有一無位真人

 おはようございます。

 雨です。


ー秋月龍a著  一日一禅より  kingstoneちょい変えー

臨済「われわれのこの肉体の中に一人の無位の真人がいて、つねに眼耳鼻舌身意を通じて出たり入ったりしている。すなわち君たちが見るところ、聞くところ、思うところに、生き生きとして働いている。まだそれを自覚体認しないものは、心眼を開いて見よ見よ」
僧 「無位の真人とは、どんなものですか?」
臨済「(イスから降りて僧の胸ぐらをつかみ)言え、言え!」
  「(いきなり僧をつき放し)無位の真人のくせに、なんという糞かきべらだ(役立たずの鈍物め)」
 臨済はさっさと方丈へ帰って行った。

赤肉団上 有一無位真人  しゃくにくだんじょうに むいのしんじんあり
                          ー臨済録ー

 「赤肉団」というのが人間か。
 結局無位の真人というのは「よきもの」「あしきもの」とかなく「ただそうあるだけ」のものなんだろうな。
 でも、結局、そんなこと考える時点で間違っているのかな?
 それこそ「言葉にこだわるな」というやつかもしれない。

posted by kingstone at 09:33| Comment(2) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 まぁ「常識に囚われるな」と言うことなのでしょうが基本的な「常識」を形成する以前にこれをやるとただの「非常識」でとうてい悟りを得るはずのない人を生み出しますね。
 亡くなった立川談志は「ちゃんとした型を持っていてあえてそれを超えるのが『型破り』。型を持っていないのに崩れるのは『形無し』」と言ってました。禅宗がメジャーにならなかったのは「形無し」を大量生産したからかと思います。
Posted by もずらいと at 2012年03月31日 20:10
もずらいとさん、どうもです。

|「ちゃんとした型を持っていてあえてそれを超えるのが『型破り』。型を持っていないのに崩れるのは『形無し』」

これはよくわかります。
まあ、私も「形無し」かもしれません。


Posted by kingstone at 2012年03月31日 23:02
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