「よりみちパンセ」というシリーズ、会社がつぶれてしまったと思っていましたが、会社を替えて出続けてるのかな。
著者山内明美さんは1976年生まれ。ってことは今、36歳か。宮城県の三陸の農家(百姓)の生まれ。
高卒後、村内の民俗資料館の臨時職員を経て慶應の環境情報学部へ。現在一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在学中。
おじいさんは著者の小さい頃すでにアルコール依存になられていたよう。でお酒を飲んで近所の神社にへたり込んでいたら近所の人が教えてくれる。でその時に「じいちゃん、狐に化かされたなぁ」と言う。その優しさと残酷さについて述べられています。
つまり「本人が悪いのじゃない」みたいなことにもなるし、しかし「冷笑」の気味もある。まあだけど「まとも」から外れてしまった人間を優しく包みこむ感じもある。
祖父の父親である曽祖父は、祖父かまだちいさいころに亡くなってしまった。そのため、祖父の少年期の生活はかなり苦しく、土地を担保に借財を重ねざるをえなかったそうだ。それを返済すべく、祖父は志願兵となった。そうすれば、恩給がもらえ、土地を取り戻すことかできるからだ。そんな祖父か教練から戻った日、まっすぐに家の中に入らずに、自分の土地のまわりをまずひと回りしてからようやく玄関先へと向かったという話か、近所の語りぐさになった。少年期から家長にならざるをえなかった祖父は、それほど土地、つまり「家」に執着したひとだった。しかし、そうして取り戻した土地を、敗戦後、今度はGHQ(ポツダム宣言執行のために日本における占領政策を実施した連合軍)による農地解放でふたたび失うことになる。
ここでびっくりするのは、兵になってその給与や恩給で土地を取り返せるほどもらえていたのか、という点。まあそれだけ土地代も安いものであった、ということも言えるのかもしれません。またそんなおじいさんが「持っていた物」は
家の中座敷にある、祖父の仙台箪笥の中にあったものは、衣類のほかには、ボロボロになった墨書きの借用書と、戦地での写真、戦地でもらったと思われる手書きの賞状・・・。ただそれだけだった。
と書いておられます。いやほんま、現在の私なんかには想像できないくらい、物が少なかった(つまりあまり貨幣は必要なかった)のだろうな、と思います。
1990年前後、私が小学校六年生の頃まで、わたしの家は基本的に専業農家で、お米をたくさん作っていた。
ってことは私が肢体不自由特別支援学校にいた頃だ。20年より少し前。
1990年、わたしか中学校に入るか入らないかのころ、ちいさな三角の田んぼを父から1枚もらった。「自分で食うコメは自分でつくれ」といわれたのだ。いまでも、その田んぼはあって、家族の中では「アケミの田んぼ」と呼ばれている。この三角田は、あぜ道とあぜ道のあいだの田んぼの連なりの端っこに、たまたまできたものの、稲を栽培するにはとても効率の悪い田んぼだ。いってみれば、たいして必要ではない田んぼをもらったというだけの話だ。この田んぼ、ちいさくて三角形のかたちをしているためにトラクターもいれられない,腰が曲がるような思いをして、丸一日かけて鋤で田起こしをした。田植えも手植えしたし、稲刈りも手刈りだ。水の管理もしなくちゃいけなくて、朝早くに田んぼに水を入れたのを忘れて、そのまま学校へ登校してしまい、タ方見にいったら、田んぼから水があふれて、稲にすっかり水かかぶって水没しているということがなんどもあった。そもそも怠け者なので田の草取りも中途半端で、いつも田んぼは、草ぼうぼう。ずいぶん失敗もしたし、手技きのこども百姓だったけれど、それでも150キロくらいのお米が、秋には収穫できる。中学生のわたしが1年食べるには十分な量のお米だ。
すげえ。
ところが1993年に大凶作にみまわれます。ほぼ20年前ですね。
当時の宮城県の作況指数は37。そして著者いわく、三陸地方はさらに悪く20そこそこだったのではないかと。例年だと550キロとか600キロとれる田で20キロしかとれない状況だったとか。
村のおじいちゃんやおぼあちゃんだちか「こんなにひどい凶作ははじめてだ」となんどもいった。「時代か時代なら、餓死者がたくさんでて、村が全滅しただろう」とも。そして、高校生だったわたしに「おまえは、いまかそんな時代なら、娘身売りになったかもしれない」と笑った。もちろん、その笑いにはずいぷんと余裕があった。脅しのようにいわれたわけじゃない。
グローバル経済の進んだ現在、凶作時にむかしのような餓死者が出ないのは、食料品を海外から大量に輸入していて、わたしたちの食生活も、かならすしもお米か主とはいえなくなっているからだ。朝はパンやシリアルを食べることもあるし、お昼だってラーメンや蕎麦ということもある。そもそも国内でお米か凶作だったとしても、海外から補う手だてがある。もっともこんなふうにいっていられるのは先進国に住んでいるからで、世界の途上国では現在でも、飢饉かあれば多くの餓死者か出ている。
それに、1993年に日本か大量にタイ米を輸入したときは、アジアの米市場が急騰して、アジアの途上国のひとたちに大きな打撃を与えたことも、また事実だった。
93年の凶作のあのとき、わたしは、青立ちの田んぼを見なから、さめざめと泣いた。日か暮れるころ、父が、田んぼに火を放った。百姓『か田んぼに火を放つ。言葉にできない絶望感というものを、このときわたしは、はじめて知ったのだと思う。
「身売り」をせずにすみ、「餓死者」を出すことのない社会になっていること、それはおおいに喜ぶことなのでしょうね。
小学生のころ、学校では毎週水曜日の朝に、全児童が体育館に集められて「発音練習」をやっていた。全校児童で「アエイウエオアオ……カケキクケコカコ……」とくり返すのだ。音読か上手にできるようになることか目的ですすめられていた。それはつまり、標準語の教科書を上手に読むことができるための訓練だった。戦前に行われたような、露骨な方言矯正とはちかうけれども、私の通っていた小学校は、僻地教育のモデル校に指定されていて、「発音練習」は僻地教育の重要なカリキュラムとみなされていた。わたしの母校は、小学校も中学校も、少子化のため呪いまでは廃校になっている。小学校の同級生は12人、中学校でも23人しかいなかった。だから同級生たちとは、まるで兄弟みたいに育った。
わたしがいま、あるていど標準語を話すことかできるのは、小学校時代にこの発音練習をしていたからかもしれない。村のこどもだったわたしか、標準語に接する機会はとても少なかったからだ。もちろんテレピでは標準語が使われていたけれど、家族も学校の先生も隣近所の・ひとたちも、日常的には方言で生活していて、それか当たり前だった。
また、この前の部分で小・中学校をともに過ごしたタケシ君という魚釣名人の話も出てきます。夕方5時には眠り、早朝起き、近所の河でヤマメやイワナをたくさん釣ってくる、タケシ君。著者も真似て釣ってみようとしたけどいちども成功しなかったとか。しかし彼は小学校から中学校に進む時、特別支援学級のある他地域の学校に行かせるべきか近所の保護者が集まって話し合ったそう・・・で「地域の中学校に」と決まったとのことです。しかし高校進学ではみなと同じ高校にはいけなかったとか。
発音教育に戻りますが、う〜む、しかし「全国の人が共通にコミュニケーションできる」ことは大事だよなあ。著者が最後のページに谷川俊太郎さんの質問にふるさとの言葉の音で答えている部分、私にはあまり読み取れないもんなあ。
ところで今はどうだろう?少なくとも私の友人が大学に進んだ40年近く前だと、早稲田の友人は関西弁を使うとサークルの先輩に「ふざけるな!」と怒られたとか。
また私自身、割と普段から関西弁っぽく喋りますが、20年ちょっと前、保護者との懇談会で関西弁で喋ったら先輩(それこそ尊敬する先輩でしたが)「その言葉はやめなさい。もっときちんと喋りなさい」と注意されました。関西でですが・・・
今は明石家さんまさんを筆頭に、関西タレントの活躍でそういうことも少なくなっているかなあ・・・
「学歴社会の成立」については小熊英二さんの「日本という国」という本がいいらしい。
ところで山内さんはいったんお勤めしてから大学に行こうとした時(1996年頃か?21世紀になろうとしていた頃とのことですが)に親戚からさんざん言われた言葉。
「娘を大学へやるなんて。結婚もさせないで、あまやかして遊ばせていいのか」
「今」でもそうなのかな?「今」は違うのかな?
安藤昌益の話。秋田県ニ井田村に1703年(元禄16年・・・忠臣蔵の2年後か。って、忠臣蔵って1700年頃の話なんや。もっと後の話かと思っていた)に生まれ、青森県八戸で町医者をしていた。高校の歴史教科書には「自然真営道」1753が紹介されているが「統道真伝」1752という書物も書いている。
昌益の生きていた時代、宝暦の大飢饉(宝暦5年1755年)に際し、たくさんの人が死んだ。当時の南部藩だろうか?死亡と逃散で5万人と出ているけど。5万人・・・今回の東日本大震災での死者は2万人弱・・・まあこの数字は「比較」すべきものではなく1人ひとりの「嘆き」があるわけですが。しかし宝暦の大飢饉がどのようなものであったかを少しは想像できるかと思います。
「飢饉考」江戸後期、南部藩の横川良助の書いた本。
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