神学部とは何か 非キリスト教徒にとっての神学入門 佐藤優著
同志社大学神学部で行われた講演を元に、しかしほぼ書き下ろしで書かれたもの、とのこと。
いきなり「神学とは虚学である」というところから入ります。で、この「虚学」は「実学」に対応しているのだけど、神学から見れば、我々が普通「実学」と呼ぶ、経済学・法学・工学など以外に、文学・哲学なども「実学」に入ってしまう、と。この「虚」って「虚数」の「虚」みたいなもんか。しかし私は「虚数」も理解できていないのだけど。
また神学と一番仲が悪いのが哲学だ、とかなんかめちゃ面白い。
「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」というのも面白い。過去の例から言うと整合性が高いほうが負けると。例えばその一番古い負け組がグノーシス主義だと。でだいた整合性が低い方が多数で勝つのだけど、「いやあ、そやけどあっちのほうが整合性があるよなあ」と後ろめたく思い、負けた方は「俺達は負けたけど整合性は高い」と思い、ちょうどバランスが取れる、と。これはよくありそうだ・・・
神学の4区分
聖書神学
歴史神学
教会史
教理史
組織神学 この「組織」というのは「体系」という言葉がよりふさわしいとか。
「教義(ドグマ)」は「決して変えることのできない絶対に正しい考え方」
であって、カトリックや東方正教会はドグマをもっていると自己理解しているが、
プロテスタントはそれは神にのみ存在し、人間が示せるのはドグメン(諸教理)のみと考える。
実践神学 これは牧師・神父のための神学。どう実践するか、ということらしい。
牧会学(つまり教会の運営とか人間関係の作り方?)
説教学(いかにお話するか、だよね?)
で、ここで牧会学についての説明が面白かった。
牧会学というのは、人間関係をケアするための実践的な学問である。アメリカで成立したカウンセリングが日本に入ってくるよりずっと前から、神学部の学生は牧会学の枠内で、カウンセリングに相当するような勉強をしていたのである。神学部の学生がホスピスに行って臨床実習することは、私が神学部の学生の頃からあり、実践神学を専攻する学生はみんな実習に行っていた。
ここはすごく面白い。確かロジャースも神学部生というか神学学校生だったはず。今Wikipediaを調べたらユニオン神学校に行ってはりますね。
「私が新学部生の頃から」とのことですが、佐藤さんは1979年入学と後ろに書いてありますから、佐藤さんの入学以前にカウンセリングは日本に入って来てはいると思います。Wikipediaのロジャースの項目jに「1968年には、その記録映画のひとつ『出会いへの道(Journey into Self)』がアカデミー賞長編記録映画部門で最優秀作品賞を受賞した。」とありますから。もうこの頃は相当入ってるんじゃないかな。
読者も、洗礼を受けているかどうかにかかわらず、悩みがあったときはプロテスタント、カトリック、正教に関係なく教会に飛び込むことをお勧めする。どんな教派の牧師や神父でも口は堅い。人の秘密を厳守する訓練を、牧師や神父は徹底的に受けているからである。また、どんなにいやな話、どんなに変な話でも、いちおう最後まで聞く訓練ができている。牧師や神父は心の中で「変な人だなあ」と思っても、職業的良心から、話を最後まで聞いてくれる。だから本当に悩んで死にたいと思ったときは教会に飛び込めばよい。このように、様々な人の悩みをどう受け止めるかを訓練するのが実践神学なのだ。人の生命にかかわる学であるから、その重要性がわかるだろう。
私は「カウンセリングは宗教や」と言い、ひょっとしたらそれは間違ってるかもしれないけど「カウンセリングは信仰や」というのは間違ってないと思っています。で「カウンセリングは宗教の果たしていたある部分を担うもの」という言い方をするのだけど、ここらへんにそれは現れていると思う。
神学と信仰との関係というところで
「目に見える教会」、すなわちカトリックのようなヒエラルキーの教会や、正教のような神秘の中にある教会と言った場合と、「見えない教会」と言った場合とでは、意味がまったく違ってくる。
ここは私には意味がよくわからないのですが、何か面白い。
非キリスト教徒の神学は可能である。前述したようにマルクスやフォイエルバッハの神学を非キリスト教徒の神学と認めることができる。ただし、非キリスト教徒の神学は、逆説であり、反転している。もう一度それを反転するとまっすぐな神学になる。
キリスト教徒が気をつけなければならないのは、無神論やキリスト教以外の諸宗教の脅威ではない。むしろキリスト教という名称の中に入っている無神論、キリスト教という名称の中で行われている人間中心主義、キリスト教を脳った本質的に非キリスト数的なものなのである。こういったものを神学の視座から警戒しなければならない。
まあ、これはどのような組織・思想・団体でも言えるこっちゃなあ。
で、その例としてフリードリヒ・ゴーガルテンって人がナチ・ドイツの文脈でアドルフ・ヒトラーを神の啓示と同一視した「ドイツ的キリスト者」を指示した例をあげてはります。
またその時代の人としてディートリッヒ・ボンヘッファーという人たちが「ドイツ的キリスト者」に対抗して「告白教会」というのを作り、ボンヘッファーはヒットラー暗殺計画に関わり、捕まり、処刑されたとか。獄中から友人に送った手紙に
「神という作業仮説なしに我々をこの世で生きさせる神こそ、我々の神である」
「神の前で、神と共に、神なしに、我々は生きる」
などの言葉があったとか。
同志社大学神学部には、本当に優秀な学生は卒業しないで退学するという風潮が随分と昔からあった。徳富蘇峰も中退だったが、マルクスの『資本論』を一番最初に訳した高畠素之という、私の尊敬する国家社会主義者もそうだった。『山谷ブルース』を作った岡林信康もそうである。しっかりした人は中退するのが同志社大学神学部の伝統なのである。
まあ、そんなことはないやろけど。
非キリスト教徒ということならば、イエスはおそらく、自分がキリスト教徒だという意識を持っていなかった。最後までユダヤ教徒であると思っていたわけである。
なるほど。親鸞聖人が法然上人の徒である、と考えてはったんと同じか。
それから「カエサルのものはカエサルに」のエピソードはその前に何段階かの話があるみたい。「ローマ帝国に税金を払うべきでしょうか?」という「ひっかけ質問」に対して、まず「1デナリオン銀貨を持って来なさい」というところがあって、実はそれを持って来るということはその貨幣に「神」という言葉が書いてあり、それを神殿に持ち込むということはその段階で「お前には質問する権利が無い」という意味を込めた逆ひっかけだったと。これは知らなかった。
コペルニクス以降、地球が丸いことが明らかになり(あれ?これはコペルニクスだったか??)地動説が主流になると「神は本当に天にいるのだろうか」とい疑問が芽生える。
う〜〜ん、もう私なんかは「それが当たり前(って言っても、自分自身で証明したことは無いけど・・・)」の世界で生きてきたから、天というのはそういう地上←→天みたいな方向ではなく、何か次元(この言い方がもう時代に囚われているか)の違うものと思っているけれど・・・
カール・バルト 1919年に「ローマ書」を書く。これは第一次世界大戦のおり、ドイツの錚々たる知識人たちが戦争賛成を公にしたことに衝撃を受けて書かれた。
佐藤さんが研究したチェコの神学者フロマートカの座右の銘。
「フィールドはこの世界である」
ところで、世界で初めてインテリジェンス・オフィサーの養成学校を作ったのは、実は日本なのである。これが1938年にできた陸軍中野学校である。陸軍中野学校は、ハルビンの特務機関長をやっていた秋草俊が作った。当初は、後方勤務員養成所と言っていた。中野学校と改名されたのは1940年のことだ。
で、なぜ作ったかというと、スターリンが秘密警察を強化しそれまでの方法が通用しなくなったから。で
そこで秋草悛は、まったく新しい情報学校を作ろうと考えた。そのときの基礎にしたのが、実はキリスト教のミッション(宣教団)なのである。宣教団が本質的にスパイとしての役割を持っていることに、陸軍中野学校を作った人たちは気づいていた。すなわち現地の人と結婚し、語学を徹底的に覚える、こういったことを中心にして、相手の内在的な論理をつかまえるということを宣教活動の基本にした。同じように陸軍中野学校は、「謀略はまことごころによって行う」というのをインテリジェンス教育の中心に据えたのである。
まあスパイと言うと「あれ」な印象やけど、そういう「役割」をもっているのは確かやろし、ほんま「まことごころ」が無ければ大切な情報は取れないやろな。
なんか、めちゃ面白かったです。
ラベル:宗教 神学