賀川豊彦記念館
こんなところにあったのかあ、という感じ。ビルの4Fでした。
賀川先生は掲示にも書いてたから書いていいだろうけど「貧民窟」「スラム」と呼ばれたところに入っていって、今の灘・神戸生協の元を作られたり、私は知らなかったけど、今の公的医療保険制度の元のアイデアを考えて作られたりした人。
略歴のページに書いてありますが
1888年生まれ
1909年に神戸のスラムに住む
ってことです。これ21(20?)歳の時に結核で余命半年を宣告されて、死ぬまでに何かをしたい、と「貧民窟」に住んで活動をするようになったということらしいです・・・まあそれで元気になっちゃって、71歳まで生きはってんけどね。
で、その20歳か21歳の時、その街の橋のたもとで幟を立てて宣教してる時、地域の人から「キチガイ」と呼ばれてたらしい(笑)やっぱりそう呼ばれるんやねえ。まあ半年後には「先生」と呼ばれるようになったらしい。(別にキチガイのままでも、それはそれでええけど)
で、この頃、この地域の就学率は6%(この頃、文部科学省の統計を見ると全国では98%)だったということです。その子どもたちのために日曜学校からいろんな活動を作っていきはったのね。
それと医療事業。地域にはやたら病気の方がおられたから、賀川さんがお金を出して病院に連れて行ったと。今のお金にして月に4〜50万円のお金がかかったとか。いろんなところから寄付を頂いたり、自分で煙突掃除などの肉体労働のアルバイトをしたり(余命半年宣言されてる人が・・・)などでお金を稼いでいたそう。これが後の公的医療保険のアイデアの元になったとか。
なお、お金のことを言うと「死線を越えて」という本で生涯、今のお金に換算して20億円ほど稼いではるそうです。全部合わせたら40億円くらい。やっぱり大きい仕事をしはる人は大きく稼いではるなあ。田中正造さんも不動産で大儲けしはったと思うし。
で、いろいろ事業を広げて成功したものもあるし、つぶれちゃったのもいっぱいあるそうな。歯磨き工場とかも1年で失敗したとか。いろいろやってその中の少しが大きくなってるんやね。
賀川さんに関する(持ってた?)本を集めた部屋があり「フレーベル全集」なんてえのもありました。
保育園事業も大きな柱やったんでしょうね。
で膨大な書籍を出しておられますが、その1冊に(しまった肝心の書名をメモし損ねている)
「叱らない子育て、上手な叱り方」
みたいな題の本を出してはります。1932年(昭和7年)6月12日 奈良県禁酒連盟 10銭
その図書・資料室みたいなところにあった27 インチiMac。2台ありました。またお仕事用に27インチiMacが2台ありました。
でね、食堂が併設されててね500円というリーズナブルな値段で食べることができます。私は知らなかったので少し東にあるファミリーマートで買ったパンを食べて行ってしまったのですが。
でこの食堂の名前が「天国食堂」て、てんごくしょくどう・・・いや笑っちゃいかん・・・いかんけどなんか笑ってしまう。
でも、これは賀川さんが地域の人に安くいいものを食べてもらおうと作った食堂の名前を引き継いています。
賀川豊彦記念館のすぐ北の東西の道が旧西国街道(京都と往還する道)です。
701年の大宝律令で既に言及されている古い道なんですね。
ラベル:宗教 キリスト教