仲正昌樹氏は現在金沢大学人間社会研究域法学系教授。(なんかすげえ長い部署名だな)
サブタイトルは
「右翼/左翼」の衰退とこれから
基本的なこととして、右翼・左翼なんて言葉はローマ時代とかからあったわけでなく、フランス革命時の議会での議席の配置に由来。
1791年頃のフランス議会でジャコバン派から別れた「フイヤン派」が議長から見て右側に座った。また左側には「ジャコバン派」や「コルドリエ派」が座り、真ん中に中間派が座った。「フイヤン派」は革命の急進化を嫌った人たち。
1792年(本には1892年と書いてあるけど、話の流れからして100年違うと思う)には復古を目論む王に対して民衆が蜂起し、フイヤン派や中間派の多くの人が逃亡(つまり革命が先鋭化した、ということ)し、しかしその急進化するジャコバン派から離脱したジロンド派(なんかドロンジョみたい)が右翼になり、より先鋭化したジャコバン・クラブの人は「山岳派」と呼ばれ左翼となった。
で、この時は右翼というのは王政復古を望んだり、革命の急進化を嫌った(つまり既得権益を守ろう、ということでもあるか)人がなり、左翼というのは「理性の崇拝」みたいなイデオロギッシュな人たちや、「食えない人にパンを」みたいな人がなった、ということになると思います。
で、それと重なりつつ「進歩史観」というものがある。
まずもって「歴史」というフランス語 histoire には「物語」という意味もある。「歴史」はもともと「物語」だった。
で「啓蒙主義」が出てきて歴史から宗教・神話・俗信を排するようになった。
キリスト教はエデンの園の無垢な時代から悪い時代が来て、未来には神の王国が来て良くなる、という考え方かな。
カント(18世紀後半)「非社交的社交性」によって秩序が形成される。この「非社交的」というのは「自己中心的」というか「エゴイズム」というか、とにかく自分の利益のために動こうとする、ということだけど、そういう人が集まるからこそ秩序ある世界が作られる、という考え方。結構納得。
ヘーゲル1807年に「精神現象学」「絶対精神」ってのはゲームに例えると神の作った全体のプログラムみたいなもん。それを外部の人間はパッとはわからない。けれどキャラとして参加しているうちに構造は少しはわかってくる。で、最終局面、エンディングに向かって進んでいく、みたいな。
マルクス主義だと「原始共産制」というよき(?)時代があり、その後封建制→資本主義→共産主義と進歩する、という考え方。
で、この左派の進歩史観に対抗して右派の進歩史観も精緻になっていく。
明治期の日本の思想家で、歴史の「進歩」を最も体系的に論じたのは福澤諭吉。
1875年「文明論之概略」で、人類は野蛮から文明に向かって不可避的に進んでいる、とし、「最上の文明国」は欧州諸国とアメリカ合衆国、「半開」の国として、トルコ・中国・日本など。「野蛮」がアフリカやオーストラリアの国々。
で、「脱亜入欧」という考え方になるわけ。
ワーグナーの娘婿ヒューストン・スチュアート・チェンバレン(1813-1883)は「19世紀の基礎」の中でアーリア人中心主義を展開し、それがヒトラーに影響を与えた。
日本では「アジア主義」「近代の超克」あるいは「大東亜共栄圏」理論となるわけだけど、これには三木清も。
あと「京都学派の四天王」とは高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高だそう。
「◯◯がやられたようだな」「あいつは四天王の中でも最弱」って言われたのは誰だろう?
冷戦も資本主義(市場主義)進歩史観と共産主義進歩史観との戦いと見れる。
でソ連が崩壊し、中国が共産主義とは言えないような形になり、資本主義の進歩史観の勝利と思われた。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」は予言の書のようにもてはやされた。
けど、イスラムの問題やその他地域紛争の問題がクローズアップされてきた。
日本では浅田彰の「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」1984年で「スキゾ・キッズ」という考えを出す。
しかし・・・このスキゾ・キッズって・・・ADHDじゃん。ってかADHDの特性持ってるよなあ。注意転導と言うか・・・自閉症スペクトラムの方はわかんないけど。
今までのパラノイア型の人たちで作ってきた社会に対して、「この道ひとすじ」ではなく興味の赴くままあれをやり、これをやり、っていう人たちで広告業界やカタカナ職業(コンサルタントとかコピーライターとか)で活躍する、ってことだけど、「今」の視点から見ると「バブルに咲いた徒花」みたいな見られ方もしていると。
で、当時出てきた言葉(しかも横文字企業リクルートが作った言葉)フリーターとともに肯定的に捉えられた。
しかし、今やフリーター→ニートとか進化(?あとパラサイトシングルとか社会的ひきこもりとかオタクとかの言葉が出てくる)として否定的に捉えられる。
歴史の終焉の2つの意味。
1.文字通り歴史の「目的」が達成されて終焉。
2.「(大きな)物語」が信じられなくなった。
フーコー「言葉と物」1966
サイード「オリエンタリズム」1978
デリダ「マルクスの亡霊たち」1993
アントニオ・ネグリ「帝国」2000
ネグリたちの言う<帝国>は国連などの国際機関やEU(欧州連合)のような超国家的な地域共同体によって構成されつつある、ってことだけど、EU、今えらいことになってきてるもんなあ・・・まあネグリの言う<帝国>というのは「古代ローマ帝国」のImperium(法的に基礎づけられた命令する権限)制度と似ている、ということですが。
出てきた記述
「ダメ連などの非マルクス主義・非労働価値説系の『左』の運動」
なるほど。そういう形容があるのか。
まあ「進歩」とわかちがたく結びついていた「労働価値説」が一概に信じられなくなってきた。って言うか欧米の失業率とか見ても(そして日本も)労働の場が無くなってきているのかな?先日Togetterで
発達障害が今クローズアップされてるが昔との違いって何?
をまとめましたが、やはり「経済的な右肩上がりが望めないから生かせる場が少なくなったので『問題』としてクローズアップされてきた」面はあるかも。
論座に出た赤木智弘氏の「『丸山真男』をひっぱたきたいーー31歳、フリーター。希望は戦争」2007年1月。下記の本に入ってるのかな?
「『丸山真男』を・・・」の中で、「進歩的知識人」の代表としての「丸山真男」をひっぱたきたい、というのは1944年、当時東京帝国大学助教授であった丸山氏が徴兵になりニ等兵として朝鮮に送られたさい(これは危険思想の持ち主と思われたための珍しいできごとらしい)、中学も出ていない一等兵から罵倒されたり殴られたりした、というエピソードから来ている。つまりそれまでの階級とかが無視され一から出直しできる、みたいな。
で、赤木氏は「戦争を望む」と書き、また「右翼」がいいと書かれているらしいですが、その理由が、「日本人の成人男子であれば、年齢によって、在日、女性、などより敬われる。尊厳を回復できる」という意味のことを書いておられる。
むむむ・・・
「承認欲求」ですね。で、著者の仲正氏は「配分(つまり経済)」と「承認」の論に進んで行かれるわけです。まあ、しかし赤木氏も経済的に苦しいというのもあって「『丸山真男』を・・・」を書いたわけで、これは「配分」の問題でもある。
「承認」・・・これは「プライド」「自己肯定感」の問題でもある。自閉症や発達障害の人はこれが持ちにくく、それが二次障害にも結びつく。これはめちゃ大事。
そして「承認」というのはひとりひとりが持つ「小さな物語(別に大きな物語につながっててもいいけど)」を他人に認めてもらいたい、ってことじゃないかなあ。
私がネタキリ生活に突入して行ったというのは、周囲に私が「承認」されなかったことも大きい。で、退職し「配分」が無くなって、ますますネタキリがひどくなって行った。
少しずつ元気になって行ったのは例えば昔の仲間が「承認」してくれ、息子が「承認」してくれ、さらにおめめどうからの「承認」そして「配分」(しかし、同じ年齢の「教師」だと私の70倍、今は少し差が縮まって35倍は軽く「配分」されてると思うけど)があったからです。
あと「共感」と「正義」って言葉も出てきます。
ロールズ「正義論」1971年。
1980年代後半以降ロールズは
「価値観が異なる人たちの間で、さらには西欧の自由民主主義的な政治文化を必ずしも共有しない社会に属する人たちと、共通の"正義"の原理を採択するために、取りあえず合意できるところから合意を成立させていく、漸進的な戦略を志向するようになった。」
ってことですが、そうやなあ、「取りあえず合意できるところから」が大事やろな。
それと同時に「大きな」ことは知らんしわからんけど「眼の前」「周囲」のことから。で、私だと自閉症や発達障害の人に関わるところから、そこからしか始めることはできひんのやろな。
でもって、「歴史の終焉」と言われようがどうであろうが、とにかく人って自分なりの「物語」を求めるものだと思います。その小さな物語をどれだけ作り、また見つけ、紹介していけるか、そのあたりなんやろな。
ラベル:右翼 左翼