今日の天気はなんだ?おひさまは差してますが、やっぱり薄曇りなんだろうなあ??
忘筌
私、さっぱり意味がわからない。
解説。 「筌」は魚を捕るためのかごのこと。魚を捕ったら、大事な道具(手段)のことは忘れましょう。目的を達成するための道具は重要ですが、道具を大事にするあまり、目的をないがしろにしてはいけません。
また、人はよく目的と手段を混同してしまいます。研究をするため大学を目指していたのに、大学に入ることだけが目的になり合格後は遊んでばかり・・・。手段が目的になってしまう一例です。手段にばかり心を奪われて、目的を見失ってはいけません。
なるほど、そういう意味か。しかし、後ろの「大学」は置いておいて「筌」のほうだと、魚を捕った後、ちゃんと手入れしてしかるべき場所にきちんと保存しておかないと、次の時にさっと使えないよなあ。手段は手段としてめちゃ大事。もちろん「ただ手段にすぎない」とわかっておくことは大事だけどね。
ラベル:挨拶 天気 禅語
筌)は魚に在る
所以、魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る
所以、兎を得て蹄を忘る。言は意に在る所以、意を得て言を忘る。吾安にか夫の忘言の人を得て、之れと与に言わんや。
『景徳伝灯録』巻二十八
意を得て言を忘れ、理を悟りて教を遺るるは、亦た猶お魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘るるがごとし。
とあります。「魚が大事なのであって筌(魚を捕る道具)が大事なのではない。兎が大事なのであって蹄(兎を捕る罠)が大事なのではない。「目的が大事なので手段が大事なのではない」ということです。「言(遺言などのように根源的な言葉,この場合は悟り)が大事なのであって意(意識,意味のようにこちらの方が客観的で表層的。この場合は公案をどうにかして理屈付けして解こうとするような意思)が大事なのではない」ということです。いくつかサイトをのぞきましたが「言」と「意」を逆に解釈しているところが多くあります。「意」は会意文字で「心」+「音」です。つまり「まだ言語化されていない心(だから言葉にならず音)」というのが根本的な意味です。悟りが開ければそれは「言」で言い表せるんです。そういう人が有史以来少ないだけの話で。「意」は「言」より下位なんです。「真言」ていうけど「真意」って仏教では言わないでしょ?禅の公案は悟りを得るための手段であり,それにはまっているようじゃダメじゃん。という教えです。
無茶面白いです。
|「意」は会意文字で「心」+「音」です。つまり「まだ言語化されていない心(だから言葉にならず音)」
で
|悟りが開ければそれは「言」で言い表せるんです
へへええ。曹洞禅で「不立文字」とか言うから「言」を軽く見るのかと思ってました。(って、禅全体とか荘子とかから見ると曹洞禅が特殊かもしれませんが)
悟りかどうかは別として、私も思ってること、考えていることは、相手に伝わる言葉にできないとなあ、とは思ってます。うむううう、しかし「言」って「筌」のような気もするし・・・う〜〜ん。
は「言葉による解釈の恣意性」を憂いたものなのであって「言葉で表す」を否定したものではありません。
>「言」って「筌」のような気もするし・・・
今の日本では「言葉」は「意思・思想」を表現するための「手段」と理解されていますからそれで正しいと思います。日本の「言霊」はちょっと違いますが,「言語」とか「文字」は「意思・思想」という未分化なものが「はっきりと具体的に示されたもの」ととらえます。学術論文がそうですね。どんなに立派で斬新な発想でも「言語化」しなければ伝わりません。つまり,「言語」は「発想・思想」より「重要であり格が上」なのです。
>私も思ってること、考えていることは、相手に伝わる言葉にできないとなあ
それは,そういうトレーニングを受けていないからです。私は相手を激怒させることはあっても,私の意思はたいてい相手に伝わっています。