曇り。で雨上がり。また降ってきそうです。
直心是道場(じきしんこれどうじょう)
私の考えたこと。これ「日本語と同じように考えてはいけない」例なのかも。でもまあそれしか考えられ無い。ま「まっすぐな心は自分を鍛える場である」
「道場」を「鍛える場」としたわけですが。
解説 どこか遠くに、自分に合う場所があるのではありません。どんな場所にも幸福や学びはあります。「直心」とは、素直な心。まっすぐな気持ちで取り組めば、どんな環境でも、今いる場所が自分に多くのものをもたらしてくれるのです。
私は「まっすぐな心そのものが」だけど解説は「まっすぐな心を持っていれば」で、そこが違ったな。
今日はラグビーで有名な京都市立伏見工業高校で福祉機器展。
http://omemedo.tanba-sasayama.com/new/syouhhin/sonota/kyoutokiki.htm
たくさんの福祉機器を扱っている会社が出展します。
ハルヤンネのミニセミナー「(自閉症や)発達障害のある人への非常時の支援と工夫」は10:30〜11:15
直心是道場
はググれば分かりますが維摩経という古い教典の中の維摩居士と光厳童子とのやりとりの言葉です。また、漢和辞典で調べれば分かりますが、「道場」というのは「仏道の修行場」つまり、寺と同義です。ですから、
>どこか遠くに、自分に合う場所があるのではありません。どんな場所にも幸福や学びはあります。
は意訳しすぎです。これは「修行場なんて形に囚われてはいけない。素直な心さえあればどこでも修行の場となる」というのが本来の会話内容ですから、「形に頼るな。自分の強い意思を持て」というのが意味でしょう。
「是」は「是非」のように「正しい」「良い」が本来の意味ですが、有名な杜甫の「絶句」に「何日是帰年」というのがあります。何れの日か是れ帰年ならん」と訳しますが、この場合の「是」は「can」みたいなもので「いつになったら帰ることができるのだろう」となります。故郷に帰って妻子と一緒にいる状態が「正しい」「是」な状態なので、こういう用法になります。
|修行場なんて形に囚われてはいけない。素直な心さえあればどこでも修行の場となる
なるほど。で、私は「真っ直ぐな心は」と思ってたけど、解説でももずらいとさんでも「真っ直ぐな心さえあれば」なわけだ。
|「是」は「can」みたいなもの
私はbe動詞かと思っていました。そうかcanか。
「be動詞」という解説の辞書もあります。というか、そちらの方が主流。「can」の解説はないと思います。ただ、be動詞と理解してしまうと、前後はどんな結びつきでも良くなってしまいます。「是」の場合、後に続くものはポジティブな内容です。「直心是道場」での「道場」は心を鍛える場ですし、「何日是帰年」の「帰年」は「家族のいる故郷に戻れる時期」とポジティブなものです。なので、あえて「can」としました。