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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年10月17日

科学と科学でないもの 菊池誠 から考える



 「もうダマされないための「科学」講義」の第1章「科学と科学ではないもの」菊池誠 から考えたこと。基本的にゴシックは引用。

 最初の「科学っぽいもの」を疑ってみるに出てくるのはY軸に女性の平均寿命、X軸に100世帯あたりのテレビの台数をとったグラフ。これがまあ見事に相関してます。

 でもこのグラフから「テレビを見れば健康になる」とは誰も主張しないでしょう。

 あれ?でも「テレビが普及するほど経済が豊かになれば平均寿命は伸びる」は直接の因果関係ではないにしても言えるのかなあ??

 「ヤバい経済学」に出てきた「中絶が合法化されれば犯罪発生率は下がる」みたいな・・・

 文部科学省のポスター(検索をかけたけれど既に削除されてるのかな。見つけられなかった)「朝食を食べる児童・生徒」と「テストの結果」のグラフに対して

 男の子のキャラクターに「よし、これからもきちんと朝ごはんを食べよう」と言わせています。これくらいなら許されるかもしれません。でも、女の子が「朝ごはんを食べて成績アップだね!」と言っているのは、かなり気になりますね。

 そやな「朝食を取っている児童・生徒」の方が「テストの結果」が良いというのは事実としてあったとして、「テストの結果」が良いのは「朝食を取っている」から、っていうのは言われへんもんな。

(しかしお医者様らしい写真とともに「朝食をとると成績が上がる」というタイトルをつけている記事はネット上にあり、検索上位に来ます。検索上位だから信用できる、って話では全然ないことはよくわかりますね)

 科学が道徳まで教えてくれるというのは、期待しすぎなんです。
(中略)
  科学では答えられない問いというのがあります。たとえば、科学は人生の意味は答えてくれません。生命科学が発達すれば、生命の成り立ちぐらいまではわかるだろうけれども、それでも生命の「意味」は教えてくれないでしょう。われわれはなぜここにいるのかという問いに対する、身も蓋もない説明ならできるだろうけれども、哲学あるいは宗教の領域に入るようなことは教えてくれません。世界がなぜこうなっているかという記述はできるけれども、理由なんか教えてくれません。もちろん、倫理や道徳を物質が教えてくれるはずはありません。
 だけどこの授業では、物質の性質が道徳を教えてくれると言っている。それは科学に対する誤解であるし、期待のしすぎです。


 そやな、と思います。道徳的なこと、とかはね。

 ※「疫学的思考」の重要性

という見出しのところで

 このような効果があったかなかったかの問題を考えるときには疫学的な考え方が重要なのですが、日本では疫学をものすごく軽視する傾向があります。ある確率でしか起こらないものに対して、因果関係を推定する学問は疫学しかないんですが。
 疫学では「少なくともこれだけは調べなければいけない」ということがはっきりしています。たとえば「お祈りをしたらある病気がる」という説があったときに、お祈りの効果を調べたければ何か必要か考えてみましょう。
 まず祈ったときに「効果あり」が何人、祈ったけれども「効果なし」が何人かを調べます。これで「効果あり」のほうが十分に多ければよさそうに思いますが、実はそれでは足りません。さらに、お祈りはしなかったけれども治ったという妬巣あり」が何人かと、祈らなかったし治らなかった「効果なし」が何人かも調べなくてはなりません。何かの効果を検証するためには、この4項目のどれが欠けてもダメなんです(図5)。
(図は略します kingstone)
 なぜこんなことをするのかというと、もしかしたら、お祈りをしなくても治る・治らないの比率は同じかもしれないからです。もしそうならお祈りの効果は「ない」のだと結論づけられます。
 一番忘れられがちなのが「何もしなかったし、効果もなかった場合」の数で、これを数えないケースが多い。でも実は、これがないとこの表は完成しなくて、効果の検証ができません。一番やりたくないのがその数を数えることですが、これをやらなくては検証にならない。いっぼう体験談というのは、「祈りありx効果あり」の数だけ数えていますから、疫学的にはまったく意味がないし、なんの証明にもならないのです。


 これを自閉症関連にあてはめてみると。

 「お祈りをしたら自閉症が治る」というのは論外としても(自閉症当事者や周囲の人がお祈りをするのは全然構わないし、いいことだと思う価値観を私は持っていますが、「祈る」→「治る」はインチキだし、それを他人に言ってはならないと思っています)たくさんの「療法」とかいうのがある。しかし、その大半は「意味が無い」ものであったり逆に「危険が大きい」ものであったりするわけです。

 じゃあ、お前が勧めるTEACCH的な取り組みとか、おめめどうのグッズを使ったりすることはどうなんだ、と言われると、実は疫学的に根拠となる数字のデータはTEACCHにしても乏しいし、おめめどうに関しては一切無いと思って間違いない。じゃあお前は何故勧めるんだ、と言われれば、このブログに延々と書いてきている私の勉強してきたこと(1996年に知的障害特別支援学校に赴任したのに、まともに自閉症についての文献を読んで勉強し始めたのは1997年度になってからですが)と、それに基づく私の実践による体験、周囲の人たちのエピソード「しか」無いです。

 だから本当に大学に勤務してはる人とか、大学に内地留学している教師とか、大学院生さんとかにデータを取って「研究」して頂きたいのだけど。

 しかし、ほんまデータを取るのもたいへん。「◯◯すれば□□する」と仮説を立ててそれを証明したり、それが成立しないことを証明したりできる形にするのはとても大変です。

 たとえば「視覚支援すれば〜〜になる」という文を考えた時、「視覚支援」とは何か、そこがまず問題になってくる。くり返し書いているように「写真を見せる」「カードを見せる」ことが視覚支援ではありません。

 で、次に「〜〜する」の部分に何を持ってくるか。

 視覚支援で「(指示を伝えて)周囲の思う通り動かす」というのは単なる「視覚の檻」に過ぎないし、またそれは早晩無理が来ます。「効果」はすぐになくなるし、「有効」で無くなる。で、実はこう書いた時点で「視覚の檻はいけない」という考え方というか価値観を含みこんだものになってしまっているわけです。

 で、人によっては「人間は音声言語の指示でこちらの思うように動ける(ようにするのが教育である)」という価値観をお持ちの方もいるだろうし、価値観(とか宗教観とか)に上下貴賤は無い、という相対主義の立場を取れば「視覚の檻なんていけない」と他人に言えないことになってしまう。実は「こちらの思うように動ける(ようにするのが教育である)」なんて全然考えてないよ、ただ音声言語でわかった方が便利だしそう成長するように視覚支援を使わないだけなんだよ、と言われる方もおられると思うのですが、じゃあその方はどれだけの実践体験とかデータをお持ちなのだろう?

 例えば「威嚇と暴力」を使うと「朝礼の時にピシッと並ぶ」ということに「効果」があったりします。正直私はびっくりしました。(といっても私の体験にすぎないのですが。「威嚇と暴力」を使う先生が長年の担任をやめ、使わない先生が担任になったら、それまでビシット並んでいた児童がぴょんぴょん飛び跳ねくるくる回り出した、っていう「体験」にしか過ぎません)その「行動」を数値化すれば「ものすごく有効」という結果が生まれることもあり得るなあ、と思います。

 しかしそれは変やろ。

 で、この「変やろ」ってのは全然科学的ではないな。価値観であり道徳であり理念であり思想やろな。宗教であるかもしれない。

 やっぱり「〜〜する」っていう部分、かなりよく考えないといけないやろな。ひとつ思うのは「自発する機能的(役に立つ)表現コミュニケーションが増える」ってのはかなりいいかなあ、とは思うのですが。

 また基本的にどんなに優しく、愛情豊かな人であっても「自閉症の人にわかる方法」で伝えて、かつ「自閉症の人が周囲の人に伝えることのできるコミュニケーション手段」を身につけてもらえるように努力しないと、すぐに「威嚇と暴力」や表面上はそんなものを使わなくても「虐待」の陥穽に落ち込んでしまうのだと思います。

 それは悲しい。

 ま、というわけで、ほんま大学におられる方に研究して頂きたい。で、しかし現実の困難にさらされている自閉症児・者は待ったなしの状態に置かれているのだから実践者は「方法」を選び、やっていくしかないのですが。

 で、本の方に戻って菊池さんはこんなことも書いてはります。

 科学コミュニケーションの問題としては、理屈を理解してもらうところまでは目指せても、「納得」は個人の気持ちなので、目指しようがないということ。もうひとつは、自分がその当事者である場合です。
 自分白身が「理解しているが、納得はできていない」という状態にあるのではないかと疑ってみるのは、よい練習問題になるでしょう。納得はできないが、理屈ではそうなのだから仕方ない、と理屈と気持ちのあいだに折り合いがつけられればよいのだと、僕は考えています。いや、もちろん、それも難しいことなのですが、少なくともその二つは違うのだと頭にいれておくのは重要でしょう。


 私と自閉症の人との関わりで言えば周囲の人に「理屈を理解」して頂くことすらできないわけです。(もちろん私はいろんなことを言いますが)当然「納得」もなくてあたり前。で、その時にTEACCH的な取り組みとか、おめめどうの考え方やグッズを使うことを納得して頂くためには(自閉症の当事者はもちろんのこと)周囲の方に「あっ、ほんまに楽になった」「得をした」と実感して頂くしかないんやろなあ、と思います。

 でも、ほんま、大学におられる人には「科学」を追求して頂きたいなあ。

この記事へのコメント
> あれ?でも「テレビが普及するほど経済が豊かになれば平均寿命は伸びる」は直接の因果関係ではないにしても言えるのかなあ??

 ないでしょうね。「テレビの普及」と「経済が豊か」は相関しません。テレビが普及したのは「安くなったから」です。そう言うと「安くなっても買えるだけのゆとりができたからでしょ」となりますが、そうではありません。「みんながほしがるもの」というのは、経済的にギリギリな状態でも売れるんです。今の自動車は1960年代の貨幣価値で比べればべらぼうに安い(一般のサラリーマンの平均年収が50万弱くらいの時代に普通のモデルが70〜80万した。今の平均年収は400万弱として、一般車は150万円で買える)ですが売れません。昔は一家に一台あったミシンもいまや2万円しないで1960年代では到底不可能な裁縫ができますが、ミシンはない家庭の方が多いでしょ?テレビ普及率はたぶん世界一のアメリカは、むしろ貧困層では平均寿命が落ちています。医者にかかれないのとジャンクフードのせいでしょう。皮肉な話で安全で健康な食品というのは高いのです。

> そやな「朝食を取っている児童・生徒」の方が「テストの結果」が良いというのは事実としてあったとして、「テストの結果」が良いのは「朝食を取っている」から、っていうのは言われへんもんな。

 「朝食」だけ切り取るとそうですね。実際には「朝食を毎日食べさせるだけの規律を持った家庭」の子は「学業に対しても親の監視とアドバイス」がそうでない家庭に比べて高いからなのでしょうね。朝食の代わりに500円玉おいといて親は寝ているという家庭では「成績」なんて本格的に気にしないでしょう。
 高島俊男さんの「お言葉ですが...」7巻「漢字語源の筋違い」に「紙芝居とアイスキャンデー」というのがあります。簡単に内容を言うと「教育のある、そして子どもの健康その他に注意を払っている家庭」は紙芝居の飴とかアイスキャンデーのような不衛生なものに接触させたくないので、小遣いは与えなかった(必要なものは現物支給)。しかし、学のない家(貧乏とは限らない。商売をしている家も子どもが家にいると邪魔である)は「金で解決のつく」安易な道を選んだ、というものです。

 評判の良い幼稚園は、弁当袋や上履き袋を親に自作させますね。また、弁当のある日も月に何回かあります。これで「親」を評価するのでしょうね。安易にできあいのものに走る親は信用ならんと言うことなのでしょう。というと「毎朝弁当を作るのは大変だ」なんてフェミニストが出てくるかもしれませんが、ちょっと前までは共働きだろうが、自営業だろうが毎朝親は作っていたものです。「それが当然」だった時代にはできたものが理屈をこねてできないことを正当化するというのは民主主義という愚かな形態の必然とも言えます。
Posted by もずらいと at 2011年10月17日 20:13
> だから本当に大学に勤務してはる人とか、大学に内地留学している教師とか、大学院生さんとかにデータを取って「研究」して頂きたいのだけど。
>
> しかし、ほんまデータを取るのもたいへん。「◯◯すれば□□する」と仮説を立ててそれを証明したり、それが成立しないことを証明したりできる形にするのはとても大変です。 。

 いえ、全然大変ではありません。日本の心理学の病理のひとつは「量的研究」のみが評価されて「質的研究」が軽んじられることです。これは研究者の質が低いからです。「量的研究」は何十人、何百人と取ったデータを統計で検定してはいできあがりというきわめて「客観的で分かりやすい」ものです。つまり研究者にとって「これは正しい」と言いやすいんですね。ところが「質的研究」は少数の事例を実験者が論理的に推論して「こうだ」と言うもので、追試がない段階では「正しい」と言いづらいんです。でもね。ピアジェの理論は自信の二人の娘さんの観察から生まれた「質的研究」なんです。

> じゃあ、お前が勧めるTEACCH的な取り組みとか、おめめどうのグッズを使ったりすることはどうなんだ、と言われると、実は疫学的に根拠となる数字のデータはTEACCHにしても乏しいし、おめめどうに関しては一切無いと思って間違いない。じゃあお前は何故勧めるんだ、と言われれば、このブログに延々と書いてきている私の勉強してきたこと(1996年に知的障害特別支援学校に赴任したのに、まともに自閉症についての文献を読んで勉強し始めたのは1997年度になってからですが)と、それに基づく私の実践による体験、周囲の人たちのエピソード「しか」無いです。

 それは質的研究で証明されるだけでなく、今の時点だったらケース数が相当ありますから量的研究でも証明されるでしょう。私がTEACCHやおめめどうに一定の距離を保っているのは「典型的な日本文化と矛盾する」からです。私は「自閉症文化」を限定的にしか容認しません。「自閉症文化圏」なるものは自閉症者をバカにしているとさえ思っています。私はTEACCHにハマッている人には「Autistic Land」ともいうべき独立国家運動を行っていただきたいと考えています。

> 例えば「威嚇と暴力」を使うと「朝礼の時にピシッと並ぶ」ということに「効果」があったりします。正直私はびっくりしました。(といっても私の体験にすぎないのですが。「威嚇と暴力」を使う先生が長年の担任をやめ、使わない先生が担任になったら、それまでビシット並んでいた児童がぴょんぴょん飛び跳ねくるくる回り出した、っていう「体験」にしか過ぎません)その「行動」を数値化すれば「ものすごく有効」という結果が生まれることもあり得るなあ、と思います。

 これも状況により評価は分かれます。「ピシッと並ぶ」ことが生死を左右するのなら威嚇だろうが暴力だろうがそれを達成できる方法が優先されるでしょう。朝礼レベルだと何ですが、たとえば駅のホームで「それまでビシット並んでいた児童がぴょんぴょん飛び跳ねくるくる回り出した」ために電車に接触して死んだら、「やはり威嚇と暴力が正しいんだ」となってしまいます。「使わない先生」は違う方法で。「ピシッと並ぶ」を実現しないといけません。「文化が違う」「そんなこと必要ない」では対抗できません。

> ま、というわけで、ほんま大学におられる方に研究して頂きたい。で、しかし現実の困難にさらされている自閉症児・者は待ったなしの状態に置かれているのだから実践者は「方法」を選び、やっていくしかないのですが。

> でも、ほんま、大学におられる人には「科学」を追求して頂きたいなあ。

 そう言う他力本願ではダメでしょうね。KINGSTONEさんがやったら?
Posted by もずらいと at 2011年10月17日 21:03
もずらいとさん、どうもです。

|テレビ普及率はたぶん世界一のアメリカは、むしろ貧困層では平均寿命が落ちています

なるほど。
しかしテレビ普及率、どうなんやろか・・・
2000年頃、私の家に来た電気屋さんが家に1台しかテレビが無いのを見て「あれ?テレビ、お嫌いですか」と質問しはったのだけど。つまり当時で家に2台3台当たり前だったみたい。菊池さんのグラフでも2000年に100世帯あたり250台くらいですね。アメリカ、日本以上なんやろか??

|病理のひとつは「量的研究」のみが評価されて「質的研究」が軽んじられること

う〜〜ん、つまり「見た目だけは量的研究を装っているもの」が多いのじゃないかなあ。
量的研究ったって、私がエントリに書いたように「何を尺度とするか」がごっつい問題になるし。
あと、エントリに書いた「ビシッと並ぶ」の例で言えば、後年の本人の生活を「どうより良く変えたか」「いかに誰でもが支援しやすいように変えたか」みたいな部分も必要だと思うのね。そういうところを「量的」にきちんと出してくれてる論文って無いような・・・(私が浅学なせいかもだけど)

|そう言う他力本願ではダメでしょうね。KINGSTONEさんがやったら?

どうもっす (^_^;)
でも今マジで仕事が忙しい・・・

Posted by kingstone at 2011年10月17日 21:32
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