・その人の好きなことを見つける
・その人のできることを見つける
・その人の選択を大事にする
・できるだけ選んだことが実現できる環境を整える
みたいなことを言います。書きます。そしてそのためにも「見てわかる」ことで伝えたり、「見てわかるもの」の助けを借りて表現してもらったり、それが実現できたりすることが大切なんですよ、と。
するとよくある反論?というか質問?にこんなふうに言われることが多いです。
・あなたはわがまま放題にしていいと思っているのか?
・あなたはほったらかしでいいと思っているのか?
まあ私としては脱力してしまうわけで・・・そこんとこ話そうと思えば、相手の方がちゃんと聞くつもりで1コマ1時間、9コマくらい実践動画をお見せしつつ、また実践の話も加えつつ、語らないとわからない話なわけで・・・
で、たいていは相手の方は「ちゃんと聞く」気なんかなくて「ほんま理想論ばっかり言いやがって。人手も無ければ、施設もお金も無い中で、しかもこの自閉症の人の能力は低いのに」みたいに思いつつ腹立ててたりするわけで・・・
だから私はたいていにこにこしながら、ちゃんとメモし、そのメモを見せつつ「ええっと、これ、私、言いました?他の方が言ったことですよね?」とか言うと、「ええ、確かに。そんなことを言われる方も多いので」みたいなことになることも多いかな。で、それ以上は「議論」せず、必要であれば「具体的な支援方法」のみ話し合います。ここで「音声言語のみの言い合い」になったら多分それは不毛です。
「kingstoneがこんなこと言ってた」って全然違う話をされたら困るから、一応の確認のみはしますけど。
まあ、言ってもいないこと、を他人が「頭の中で作り上げる」のはごく普通のことです。だからそれを「悪い」と言ってもしかたないんですけどね。
で、私の実践動画を見ていただければ、私が「わがまま放題」「ほったらかし」にしていたかどうかは一発でわかるでしょう。
でもね、例えばメールであるとかTwitterであるとかで「(自分のやりたいことがあるのだけど)こんなわがままなことやってええんやろか」「他人に迷惑をかけるのとちがうやろか」と躊躇しているような人を見かければ「わがままでいいんだよ」「迷惑をかけてない人なんかいないんだよ」とレスをすることはよくあります。たぶん、その人は今まで「がまん」し過ぎてきているんじゃないかなあ、と思うし。
また自閉症や発達障害の人はちゃんとわかるように伝えてもらっていないのに「わがまま」「さぼり」「なまけ」と言われることが多く、(いや多いなんてもんじゃなくてほとんどがそうじゃないだろうか)、その時に「わがままだっていいんだよ」と言ってあげることが大事なことはよくあると思います。
でも、これも、人により、場合により、変わってくることではある。
例えば「わがまま」「やりたい放題」とか言う時、自閉症の人が好きな活動があった時、別の人がやっちゃうと殴りかかる、とか泣いてる子どもがいる時殴りかかる、とかいった「問題行動」がよく取り上げられることがありますが、私もこのブログの中で咄嗟に止めたことがあることも書いていますが、結局のところ「その人がわかってできる行動を増やす」「スケジュールで見通しを伝える」「殴らなくてもいいような環境を整える」「きちんとしたコミュニケーションを取れるようにする」で改善あるいは無くなったことがほとんどですけど。
これも「今ある問題行動」だけに着目しているとわからないことだと思います。
で、そういう事例の時、「この子(人)のわがままを聞いていてはいけない。ちゃんとしつけなければ」という人に対しては「わがままでええんちゃう」というところから本当は話をしたいけどね。
例えば昔、超有名大学の超有名教授が
超有名大学の超有名教授がやって来た
の時、語られた
ある施設の施設長さんの部屋を訪問した。二人にお茶が出された。自閉症の人が入って来てお茶を取り、口に含み施設長さんと超有名教授にプーッとお茶を吹きかけた。施設長と超有名教授はにこにこしていた。
を「ええ話」として語るのは、あほかいな、と当時でも思えました。
まあ、それより昔、文書や記録には残されていなくても、たぶん成人施設でも養護学校でも、当たり前に「威嚇と暴力」がふるわれていて、それが当たり前だった時代に少しは意味を持つエピソードであったのでしょうが。で、この当時、少なくとも私の勤務していた知的障害養護学校で威嚇と暴力が普通にあったことも事実だから、その人たちに意味があった??
まあ、無かったような気はする。
実践動画公開をして、いろいろ思い出してしまったので、書きました。