面白いなあ。
1997年に行われた連続講演会(たぶん一般人向け)に手を入れて冊子にしたもの。2001年に発行。2000年に肺癌が見つかって2004年に亡くなっているから著者最晩年ののりにのっている時期か。
佐藤進一 「支配」中世では配分、配布、割り当て
佐藤進一『〔新板〕古文書学入門』
「時宜」時の権力者の意思・判断(「ちょうどいい時」の意ではない)
「日本」「にほん」「にっぽん」両方の読みがある。本来地名では無い。
689年の「浄御原令(きよみはらりょう)」で国名として使われた。
大宝律令が701年。その翌年、遣唐使がそれまで「倭王」の使いと名乗っていたのを「日本」の使いと変えた。この時の周の皇帝は則天武后。
「日本の旧石器時代」「弥生時代の日本人」といった表現はまずいのではないか。だから私(網野)は日本列島と置き換える。
この網野さんの主張は以前より知っていましたが、「そりゃこだわりすぎやろ」と思ってましたが、言われてみれば、確かに誤解を与えるなあ。
聖徳太子の出した国書の「日出る処の天子」という言葉に隋の皇帝が怒ったが、これは別に「日出る処」「日の没する処」という表現に怒ったのではなく「天子」という言葉に怒った。
日本国の呼び名、秋津島、大八洲国、倭、やまと、日本etc.
「日本」「天皇」も正式には同じ時に公式に決まった。(それ以前から使われてはいる)
国家ができるやいなや東北や南九州に攻め込んだ。しかし東北は頑強な抵抗を続け、現在の岩手県南部のあたりから秋田県のあたりは、9世紀はじめ頃までに、東北人の自立的な秩序を認めた上で一応形の上では日本国に中に入ったことを承認させた。
8世紀の「国」(上毛野、下毛野、美濃、山城など)の枠組みは非常に強固で、現在に至るまで破られていないと言えるほど。
7世紀末から帝国は畿内・東海道・東山道などに10m幅の道路を作った、が、海運が主であった当時としては不自然な事業であったため、およそ70〜80年で狭くなったり消えてしまったりした。
平将門 「天慶の乱(939?)」武蔵、相模、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東八国と伊豆を基盤。下総国猿島に都を起き「新皇」と名乗った。この頃「坂東」という地名あり。
平将門って東北で反乱を起こしたと思ってたのに、伊豆とか武蔵まで含まれていたんや。ここで網野さんは「もし将門があと数年生きていたら・・・京都の王朝は滅亡の危機を迎え・・」と書かれている。
『吾妻鏡』治承4年(1180年)の条に「まづ東夷を平らげて後、関西に至るべし」と書かれているのが「関西」の初出。
「四国」は『古事記』に「身一つにして面四つ」「伊予のニ名島」として出てくる。また鎌倉中期には「四国遍路三十三所諸国巡礼」と「お遍路さんが巡礼する範囲」の意で使われる。そんな昔からお遍路さんはあったんや。
「人民」『日本書紀』から使われている。「天下人民(あめのしたのおおみたから、ひとくさ)
「国民」中世では「国人」という用例が多い。
「市民」シビルからの翻訳語。
「庶民」『日本書紀』から使われている。読みは「おおみたから」ただ公的な文書にはほとんど使われない。カジュアルな言葉?
「常民」柳田國男や渋沢敬三が作った。「コモンピープル」しかし朝鮮半島には、両班でも被差別民でもない人のことを「常民(サンミン)」と言うのでこれを積極的に使った可能性あり。
「平民」明治政府が身分として作った。対になるのが「華族」「士族」「新平民」「平民」に積極的意味(納税者である、とか)を持たせようとしたのが、幸徳秋水や堺利彦。「平民社」や「平民新聞」を作った。言葉としては『続日本紀』に「天下平民(あめのしたのおおみたから)」として出てくる。
「土民」鎌倉幕府の法律では「平民」「百姓」とほぼ同義。別に悪い意味は無かった。江戸時代に「土人」と使われる。これも「みやげ」が「土産」と書かれるように本来は悪い意味では無かったと思われる。「土風」は「くにぶり」なお北海道のアイヌについての「旧土人法」も本来は侮蔑的意味ではなかった。本州から北海道に渡った人のことを「新土人」と呼んでいた。
「百姓(おおみたから)」別に「農業専従者」のことではない。「百」は「非常に多くの」「あらゆる」
ただし、古代の律令国家が「百姓に本気で水田を与えようとした」ことは事実。しかしそれは失敗した。また時々の為政者が「税を水田の米や麦の取れ高に換算して」取ろうとした。そのために「百姓」→「農業専従者」というイメージがついた。
また統計でも明治政府は1872年の壬申戸籍を作る際、職業は基本的に「農工商」とし、「百姓」「水呑」(どれも多様なたつきがある)すべて「農」としてしまった、という事情もある。山梨県の明治7年の統計では、もっとも田畠の少ない都留郡は95%が農、もっとも田畠の開けている山梨郡が77%が農。
農本主義と重商主義。
7世紀末の「日本国」は農本主義。
北条氏・得宗が重商主義。
その後の後醍醐天皇も重商主義。貨幣の発行も企てた。
室町。足利尊氏・高師直が重商主義。足利直義が農本主義。
織田信長・豊臣秀吉が農本主義。これはちょっとびっくり。信長・秀吉は貿易を推し進めた人、というイメージがあったから。
過去の「史料」は農本主義的な国家制度の中で作成されたものが多い。だから文書の裏に日記が書かれたために残った「紙背文書」や「襖下張り文書」に商工業や金融に関する生活が見えてくる。
「五色の賤視」「陵戸」「奴婢」
中世の不自由民。「下人」「
ギリシャ・ローマでは「戦争奴隷」が多かったが、日本では「債務奴隷」「犯罪奴隷」が多かったのでは。
近世「家風」「家抱」「家来」「名子」
江戸時代「奉公人」
職能集団「道々の物」10〜11世紀から。「芸能」も。
「道」は様々な芸能に即した技術のあり方という意味。
「兵の道」「博奕の道」「好色の道」博奕は官庁おそらくは陰陽寮が統括していた職能。遊女も官司に属している。
手工業は「道々の細工」と呼ばれていた。「職人」という言葉は鎌倉期から。
西国では11世紀頃から職能民を平民・百姓から異なる身分に
貴族・民間が使う「道々者」「外才人」「職人」「芸能」
公式「神人」「供御人」「寄人」いずれも聖なるものの直属民。また「非人」も。
ケガレ
「死穢」「産穢」
著者はここでケガレは「社会の不均衡。そのバランスを取ろうとする」と書かれていますが、これは単に「死がつらい」「死は感染症も引き起こしやすい」「子どもが産まれる時もよく死がかかわる」というだけの話じゃないかな。
9世紀半ば、飢饉によって多くの死者が出て、賀茂川の河原にたくさんの死体があったので、処理と葬送を政府が悲田院(孤児や重病人の救済にあたる)の人々に命じた。
10世紀になると財政難となり、官庁に予算が行き渡らなくなり、職能民たちも独自の集団を形成して活動し始めた。自力で「葬送」などの職能をもって生活しなければならなくなる。
11世紀から12世紀頃、「非人」集団が現れる。「長吏」に統括される。
「非人」は差別語では無かった。「人ならぬ姿をした人」で「人の力をしのぐ存在」
清水坂の非人は「犬神人」「釈迦堂寄人」と呼ばれた。
13世紀〜14世紀頃。
東国では武士が罪人の処刑をした。西国では放免がした。『法然上人絵伝』では承元の法難のさいの安楽房の処刑の絵では放免が首を切っている。
13世紀後半の『天狗草子』はそのころの異常なことはすべて天狗のせいとする絵巻。その天狗が「穢多童」に殺されるというのが描かれている。ただしここでも「賤民」という意味はなく「強力なおそるべき力を持つ人」とされている。
商業に関わる言葉や実務的な取引の用語には翻訳語が無い。
「小切手」「手形」「為替」中世から古代までたどることができる。
経済学の言葉「資本」「労働」「価値」などはほとんど翻訳語。
複式簿記も17世紀前半には三井などでは実質上出来上がってい、江戸後期の九十九里浜の地引網の経営でも、複式簿記の発想で帳簿が作成されていた。
「市場」は「市庭」「相場」も「相庭」あと「狩庭」「網庭」「塩庭」「稲庭」など。「ニハ」は共同作業をする場。
市が立つ場は、河原、中洲、浜、坂の途中など、川と陸との境、海と陸との境、山と平地の境など。大きな木の下は天と地の境。また虹がかかったところに市をたてた例も。あの世とこの世の境。そこで物を「無縁」の状態にする。また人間も「縁」の切れた状態とする。だから見知らぬ男女の交合の場ともなる。
売買の値段を決める行為を「和市」と呼ぶ。一方的に値段を決めることを「押し売り」「押し買い」と呼ばれ市庭ではきびしく禁じられていた。
「手形」に関しては「切る」という言葉が使われる。「切符」や「切手」も。つまり「一度無縁の物とする」ということではないか。また「手」は「交換」という意味が含まれる。
「酒手」「塩手米」「塩手麦」「山手塩」
金融。古代の「出挙」から。
13世紀後半以降は銭貨が本格的に流通。古代以来神物・仏物の貸付であるから過度に高い利息は認められなかった。「利倍法」による規制。利息は元金と同額、つまり十割まで(これって1年でか)14世紀になって複利の暴利を取る「高利貸」が盛んになる。室町幕府は『建武式目』で「無尽銭土倉を興行せらるべき事」という文がある。15世紀後半には徳政一揆が盛んに起こる。しかし、一方禅宗系の寺院を中心に低利で貸し付ける「祠堂銭」も。(価格破壊みたいなことか)
「株式」語源は中世まで遡る。
「寄付」(市場が開く最初の値段)海岸に人の力の及ばない世界から何かがやって来る。
「大引」これは証拠はなさそうだが「海の香り」
「自由」中世。佐藤進一によると「わがまま勝手の意。慣習、先例、法令など秩序を形づくっているものに逆らい、乱そうとする行為は全て『自由の・・・』として非難された」
鎌倉時代に禅宗で「思うままになる、制約を受けない」など多少なりともプラスの意味で使われた。
明治になって福沢諭吉が『西洋事情』の中でフリーダム・リバティを「自由」と訳した。
「自然」(しぜん・じねん)中世では「しぜん」は「万が一、ひょっとして」で「じねん」は「おのずからそうであること」
ラベル:日本史 言葉
>「日本」「にほん」「にっぽん」両方の読みがある。
解説はありますか?これどっちも同じ読みなんです。平安初期まで「ハ行」は「ぱぴぷぺぽ」でした。平安から江戸初期までは「ふぁふぃふふぇふぉ」でした。ですから、その名残が今でもあります。「ぱ」だった名残は「ひよこ」です。「ピヨピヨ」なくから「ぴよこ」だったんです。「光」は?「ピカリ」と光ります。「ぴかり」だったんです。「ふぁ」行の名残は今でも外人が日本人のハ行を聞くと「Ha Hi Fu He Ho」と表記することから分かります。「は・ひ」と同じ口の形で「ふ」と言うと言いづらいです。
ちなみに、それ以外にも「じっぽん」とも言われてもした。「本日」が「ほんじつ」ですから、あっても不思議でないですね。それに国を付けて「日本国」を「じっぽんぐぅおく」のように発音していたのを聞いて「ジパング」になったのです。
>隋の皇帝が怒ったが、これは別に「日出る処」「日の没する処」という表現に怒ったのではなく「天子」という言葉に怒った。
随の煬帝という皇帝はかなり変わっていた人だそうで、機嫌が悪ければどんな表現でも怒ったと思います。
> 7世紀末から帝国は畿内・東海道・東山道などに10m幅の道路を作った、が、海運が主であった当時としては不自然な事業であったため、およそ70〜80年で狭くなったり消えてしまったりした。
産業道路にならなかったからですね。で、この道路ができた当時、東海道は今の東京湾を渡って千葉から日立方面に北上しました。千葉県の上総が南で下総が北にあるのはこのルートにならったからだといわれています。
> 平将門って東北で反乱を起こしたと思ってたのに、伊豆とか武蔵まで含まれていたんや。
あれっ?平将門の乱は下総や常陸ですから関東北部ですよ。
>江戸時代に「土人」と使われる。これも「みやげ」が「土産」と書かれるように本来は悪い意味では無かったと思われる。
当然です。「土着民」「現地人」の意味ですから。悪くなったのは昭和初期の冒険活劇ものやターザン映画で「未開の野蛮人」というイメージを付けたからです。やたら人食い人種を取り上げたり。
> 著者はここでケガレは「社会の不均衡。そのバランスを取ろうとする」と書かれていますが、これは単に「死がつらい」「死は感染症も引き起こしやすい」「子どもが産まれる時もよく死がかかわる」というだけの話じゃないかな
本をよく読まないと分かりませんが、「社会の不均衡」ではありませんね。元々日本には血を忌み嫌う風土が昔からあったんです。平安時代にはすでに整理中の女性は宮中に入れませんでした。鼻血や痔の出血のある侍も登城できませんでした。西洋社会でこれだけ血を忌み嫌う文化はありません。食器類がたいてい自分専用であるのもそのせいだと言われています。
屠殺や獄門、斬首の下働きは確かに非人の仕事でしたが、れっきとした御家人である同心や旗本である与力も「汚れもの故」登城できませんでした。
>「手形」に関しては「切る」という言葉が使われる。「切符」や「切手」も。
あのぉ〜、「切手」って「切符手形」の略なんですがぁ。
|それ以外にも「じっぽん」とも言われてもした
あっ、それでジパングかあ。なんでそんな音になるのかと思っていた。
|平将門の乱は下総や常陸ですから関東北部ですよ
なんかイメージ的に奥州平泉の藤原氏みたいな感じで・・・
|やたら人食い人種を取り上げたり
そういや、子どもの頃「首刈り族」みたいな表現があったけど、でもよく考えたら江戸時代までは日本は首刈り族だったんだよなあ、とある時、気づきました。
|れっきとした御家人である同心や旗本である与力も「汚れもの故」登城できませんでした
ええっ。同心や与力も。
|「切手」って「切符手形」の略なんですがぁ
あっ、そうかあ。
とってもおもしろかったです。
またこの本も読んでみたいな。
使われていた時代の「言葉」の意味へのこだわり、当たり前だとは思いますが、すごいもんだなあ、と思いました。