親も行政も「たかが教員」扱いなのです。テレビに出ているとか、いろいろな講演に呼ばれるみたいな教員は例外ですが。世の中は教員をまともに取り扱っていません。
と書いて下さっています。わおっ、です。
う〜〜ん、もずらいとさんの周囲ですから「特別支援教育」関連ですね。その現場でこういう所(日本全国だとどうかわからないけれど少なくとももずらいとさんの周囲)がある。
私が現役の頃、通常校で「新興住宅地はやりにくい。親が高学歴で教師を馬鹿にしているから」という話はありました。どうなんかなあ・・・
ほんま通常校の通常クラスでも「専門性」はごっついあるのですが。
私が特別支援学校から通常校の特別支援学級担当に移動した時、学校全体の士気の高さ、といったものには驚いた経験があります。(逆に言うと、特別支援学校、ちょっとよどんでいたか・・・で、それは「手応えのない」ことばかりやっていたせいかもしれない。手応えのないことばかりやっていたらやる気というか士気は下がるから。もちろんほんまは手応えのあるやり方というのはある)もう先生方、めちゃめちゃ熱心。もちろん特別支援教育については??なところだらけでしたけど、それ以前の研修がまともなものが無かったことを考えるとそれは仕方ない。そして私が報告することにみなさん耳を傾けリスペクトして下さいました。(特別支援学校では私の言うことは相当に「嘘」と思われたり「わからん」と思われたりしていた)
で、専門性と言えば、特別支援学級の子で「跳び箱を跳びたいのに跳べない」子がいて、体育指導が得意な若い先生に聞いたら「その子だったらたぶんこれで跳べます。跳び箱を高いのと低いのとを縦に並べます。で、低い方に乗って高いほうに手をついて跳び越して下さい。」
で、私、体育館から跳び箱を2台特別支援学級まで運んできて(!考えたらすごいことやってるなあ。よう持って行ったもんや)言われた通りやったらすぐに跳べ、だんだん低いほうを下げ、最後はなくし、結局45分1時限以内に完璧に跳べるようになりました。その子もものすごく喜んでずっと跳び続けていました。
つまり現場の先生にはそういう専門性があるんですよね。そこらへんの教育評論家にあるとは思えない。
「たかが教員」まあ人間ちょぼちょぼやから別に「たかが」でええんやけど「たかが校長」「たかが教育評論家」「たかが大学教授」「たかが医者」ということなら。(で、私が現役のころはほんまに無茶なことを言う、そういう人たちは多かった)しかし教師を下に見て上のものがあるという意味で「たかが」だと困るなあ。
でこの場合「たかがでない人」ってどんな人なんだろう・・・
ラベル:特別支援教育 教育 教師
テレビや専門誌や親の会の講演などに「出ている先生」、有名な「○○先生」と共著なり分担執筆を「されている先生」、保護者の「味方的な先生」ですね。
最後の例では人事異動公表前に、学級担任発表前に、人事をメールで教えてくれる先生を保護者はそうとらえるようです。明らかにメチャクチャな指導で、学担はずされていた先生なのに保護者の人気絶大でしたから。
教員の地位が低下したのは、「ダメな教員」をかばい続けた自業自得の部分と、マスメディアの教員叩きによるコラボの見事な結果だと思います。
理想化されるフィンランドの教育ですが、まともな人は「先生に対する敬意と『先生の言うことは聞きなさい』という保護者の結果に過ぎない」という意味のことを言っていますが、それが正しいのだと思います。フィンランドでは不登校というのは犯罪の一種ですから(親が処罰される)。日本の半世紀前の教育がうまくいったのと同じ理由です。
逆に言えば、これがなくなったのですから、教員の評価は下落して当然です。
ですから、こんな不況であるにもかかわらず首都圏の教採志願者はやっと3倍越えを維持できるかどうか(市町村の一般職は百倍越えが普通です)で、なおかつ初任の一割が辞めるという「敬遠業種」になっています。
|学級担任発表前に、人事をメールで教えてくれる先生
そりゃあやっちゃいかんですね。
|フィンランドの教育
大学院は必須。少人数授業。給料は多くはないみたいだけど、みんなちょぼちょぼ。(多くは税金で持っていかれる)教師以外でも何かにつけて免許とか資格が必要。
とかいろいろ違いがありそうです。でもってそれを学ぶべきだ、とも思いませんが。(もちろん部分、部分で参考にできるところはいろいろあるとは思います)
|初任の一割が辞めるという「敬遠業種」
ひょっとして、他業種と比較した時、ましだったりして・・・
西洋は日本より「学歴社会」なんです。東京大学卒業より三流私大でも「大学院修了」の方が評価が高いのです。東京大学は面白く大学院、博士課程と進むにつれて合格しやすくなります。ですから、東京大学の教育学博士は筑波大学や東北大学、広島大学の学位より低く扱われるのが普通です。
でも、実際には「箔付け」の部分が大きいでしょうね。また、教員になるまでのハードルが時間的に長ければ、さして教員願望が強くなければ教員になるのあきらめちゃうでしょうしね。ただ、私の世代くらいまでの「デモシカのつもりで教員になったけど」からけっこう有能な人材が輩出されている現実を見るとフィンランドが正しいのかどうかは分かりません。フィンランドでも教員志願者の減少に頭を抱えているそうですから。
>ひょっとして、他業種と比較した時、ましだったりして・・・
5年に増やすと実感として3割が辞めるか、女性だと結婚して育児休暇(今は最大3年)に入っちゃいますね。他業種とは違って教員は「先生になりたい」人が大半なので「自分探し」的なバカ野郎のミスマッチとも違います。
有能かどうかは別として、私も「デモシカ」
で教員養成6年制にも強く反対します。
教員は経験職の色彩が強いですから、採用前に何年勉強しようが博士号取ろうがあまり意味がありません。たくさん勉強すれば優秀な教員になるなどというのは幻想です。
意味があるのは、教員やって10年目くらいに大学院で再教育することでしょう。あまり早くやっても意味がありません。10年教員をやると大まかな経験はだいたいできます。そこで問題意識のない教員は辞めた方がよいです。
これは、教師だけじゃなくて、他の多くの仕事にも言えるような気がします。純粋な学問としての数学・物理学などはどうかわかりませんが、「人に関わる」仕事の多くは10年目くらいにまた勉強できるのがいいと思います。「問題意識」も出てきてるはずだし。