私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年05月27日

フェルマーの最終定理 サイモン・シン著 青木薫訳

 図書館で借りて来ました。




 今は新潮文庫版も出てますね。

 2000年に発行されてます。

第1章 「ここで終わりにしたいと思います。」

 アンドリュー・ワイルズが1993年6月23日、ケンブリッジで行った「フェルマーの最終定理を証明した」講義の終わりの言葉。しかし瑕疵が見つかりワイルズは奈落の底へ。

 まず前史から。エピソード。

 紀元前6世紀、ピタゴラスは最初講義を聞いてくれる人がなく、お金を払って講義を聞いてもらっていた。
 その後場所を移してピタゴラス教団に発展。入会時に秘密を守る誓いを守らせられる。ピタゴラスの死後だが、正12面対について漏らした人は殺された。またピタゴラスが生きている時にヒッパソスが√2が無理数であることを発見した時は、ピタゴラスは自然現象を全て有理数で全て説明できると考えていたので、ヒッパソスを殺した。こええ。

 それから教団に入るには全財産が教団に没収される。まあこれは「教団」と名のつく所ではよくあること。でも、私にわからなかった記述が「教団を出る時には財産を倍にして貰える」ってとこ。だったらみんな押すな、押すなで入団してきて、また出ていき、あっという間に教団がつぶれそうなもんだけど。何か訳し間違いかなあ・・・

 ピタゴラスの定理は
「直角三角形の斜辺の2乗は、他の2辺の2乗の和に等しい。
 xの2乗+yの2乗=zの2乗」

第2章 謎をかける人

 フェルマーは1601年生まれ。17世紀フランスの裁判官と言うか・・・やっぱり裁判官か。死刑とかも判断してるから。で、趣味で数学をやっていた。

 メルセンヌ神父は1611年、ミニム修道会に入って数学を学ぶ。そして他の修道士や修道女に数学を教え始める。修道会で数学!で、彼が当時の数学者と違っていたのは秘密主義ではなかったところ。

 さて、パリにやってきたメルセンヌ神父は、こうした秘密主義の風潮と戦うことを決意した。そして数学者たちに対し、互いに意見を交換して知識を増やしてゆこうと説いたのだった。メルセンヌは定期的な会合をもつ手筈をととのえ、その会合に参加した人たちがのちにフランス学士院の中心メンバーになってゆく。誰かが会合への出席を拒むことがあれば、メルセンヌは書簡や論文を示して、できるかぎりの情報を出席者に伝えようとしたI?たとえそれがメルセンヌ個人に宛てられた秘密の内容だったとしてもである。これは聖職者にあるまじき倫理にもとる行為だが、情報交換は数学と人類のためになるという立場から、メルセンヌはそれを正当化していたのだった。そんなことまでした以上、善意の修道士と、気位が高くてとっつきにくい哲学者とのあいだに辛辣な口論が起こったのはいわば当然のなりゆきだったろう。メルセンヌとデカルトは、イエズス会のラ・フレーシュ学院で机を並べて以来のつきあいだったが、その関係もついに壊れてしまう。それというのもメルセンヌが、教会の怒りに触れかねないデカルトの哲学上の文書をみんなに見せたからだった。しかしメルセンヌの名誉のために言っておくと、彼はデカルトを神学上の攻撃から護りもしているのだ−かってガリレオを擁護したときと同じように。宗教と呪術に牛耳られたこの時代にあって、メルセンヌは合理的思考のために立ち上がったのである。

 で、このメルセンヌがフェルマーが定期的に接触を持った数学者はメルセンヌだけ。

 紀元前332年、アレキサンダー大王はアレキサンドリアを作った。
 その後をついだプトレマイオス1世が数学者を始めとした知識人を集めた。
 そして図書館が作られた。本を持って入って来た人たちは全て本を取り上げられ、「写本」を渡された・・・
 ユークリッドが生まれたのが紀元前330年頃。

 西暦389年。キリスト教徒テオドシウスが異教徒の建物の全ての破壊を命令。図書館はクレオパトラが神殿内に作らせたので破壊。

 642年。イスラム教徒のカリフ・ウマルが(ほぼ)コーラン以外の書物の破棄を命じたので書物は共同浴場の炉にくべられた。

 続く1000年の間、インドやアラブで数学の灯がともり続けた。0の発見など。(紀元前3000年のバビロニアやギリシャでも似たような概念はあったらしい)

 友愛数とはペアになった二つの数で、一方の数が他方の数の約数の和になるようなものである。ピュタゴラス教団
は、220と284か友愛欲だというめざましい発見をした。
(中略)
 こうして、この二つの数は友愛の象徴となった。マーティン・ガードナーの『数学のマジックショー』という本によると、中世には愛を育む護符として、この二つの数字を彫りつけたお守りが売られていたという。アラビアの放言術師は、数学的な媚薬として、二個の果物それぞれに220と284と彫り、一方を自分で食べ、もう一方を愛する人に与えるという方法を書き残している。初期の神学者たちは、ヤコブがエサウに二百二十頭のヤギを与えたという聖書の記述に注目した(創世記32−15)。そして、友愛数の一方に相当するヤギを与えたことは、ヤコブのエサウに対する愛情を表すものと考えたのだった。 
 

 媚薬!!

第3章 数学の恥

 数学におけるベルヌーイー族を、音楽におけるバッハー族にたとえる人もいる。ベルヌーイー族の名声は数学界を越えて広がっていたが、それを象徴するこんなエピソードが伝わっている。ダニエル・ベルヌーイがヨーロッパを旅してまわっていたときのこと、ゆきずりの人物との会話がはじまった。しばらくして彼は控えめに名を名乗った。「私はダニエル・ベルヌーイと申します」すると相手は皮肉まじりにこう応じたというのだ。「それはそれは、私はアイザック・ニュートンです」嘘偽りのない誉め言葉としてこれ以上のものがあるだろうか。ダニエルは後年、この逸話をうれしそうに何度か語っている。

 今、日本だったら誰がいるだろう・・・
 「私は益川敏英です」「それはそれは、私は湯川秀樹です」いまいち一般的じゃないなあ。湯川さんは故人だし。
 数学だったら、もっと「一般的に高名な」人っていないよな。

 ロシアのおかかえ数学者となっていたオイラー。エカテリーナ2世に無神論者のディドローをぎゃふんと言わせてくれ、と要請されて。

「閣下、a+(bのn乗)/n=x' ゆえに神は存在します。いかがか!」

 なんのこっちゃか、全然わからんぞ。

 川の両岸と中洲を通る橋を1回だけ渡る問題からネットワークについて「オイラーの関係式」

 V+R-L=1
 V ネットワークの頂点の数
 R ネットワークの面の数
 L ネットワークの辺の数

 頂点の数と面の数を足したものから辺の数を引いたものは必ず1になる

 図の説明を見てもわからん・・・


第4章 抽象の中へ

 1908年。ダルムシュタット出身のドイツ人資本家パウル・ヴォルフスケール。失恋し、深夜零時にピストル自殺しようとした。そして遺書など事務手続きを淡々とこなすとまだ零時前だった。そこでクンマーの書いた数学書を拾い読みし始めたが、フェルマーの最終定理のところを読んでいて、証明のための小さなギャップに気づく。で、夢中で考えていて気がついたら夜は明けていて、自殺したい気持ちも消えていた。そして彼はフェルマーの最終定理を証明した人のためのヴォルフスケール賞を作る。期限は2007年まで。つまり100年間。

 1902年頃。バートランド・ラッセルの集合についての疑問についての言葉。

 多くの識者がラッセルの仕事に疑問を呈し、数学は現実にうまく機能しているではないかと主張した。これに対してラッセルは、つぎのように自分の仕事の重大性を説いたのだった。

  「しかしそのことは、2足す2は4だという私の信念をゆるがすものではない」とあなたは言
  うかもしれない。それはその通りだろう。しかしきわめて周辺的な問題では、そうはいかない
  場合が出てくるのだ。そして、ある動物が犬であるかどうか、ある長さが1メートルより短い
  かどうかが問題になるのは、つねに局辺的な場合なのである。2とは、何かが二つあることで
  なければならない。したがって、「2足す2は4」という命題は、その何かに適用されなけれ
  ば意味がない。二匹の犬と二匹の犬を足せばたしかに四匹の犬になるだろう。しかし、その二
  匹が本当に犬かどうかわからない場合もあるのだ。「いずれにせよ四匹の動物がいることには
  違いないだろう」ともあなたは言うかもしれない。しかし世の中には、動物なのか植物なのか
  はっきりしない微生物もいる。「では生物ということにしよう」とあなたは言うだろう。しか
  し、生物なのか無生物なのかがはっきりしないものもこの世にはある。しまいにあなたはこう
  言うことになるだろう。「二つの存在足す二つの存在は四つの存在だ」”存在”の意味するとこ
  ろを教えてもらえれば、そこから議論を再開しよう。


 そこから考えるかあ・・・

 ゲーデルの話。大学時代というのは1930年頃か。

 子供時代のゲーデルは科学と数学に才能を示し、なんでもうるさく質問したがるため、家族からは”なぜくん”と呼ばれていた。ゲーデルは数学と物理学のいずれを専攻すべきか決めかねたままウィーン大学へ進んだが、P・フルトヴェングラー教授の情熱にみちた感動的な数論の講義を受けて、一生を数に捧げる決心をする。そのみごとな講義をいっそう驚くべきものにしていたのは、フルトヴェングラー教授は首から下が麻鎌していたことだ。教授はノートも見ずに車椅子から講義を行い、助手がそれを板書していたのである。

 この頃にホーキング博士みたいな人がいたんや。

 で、ゲーデルは不完全性定理を発表します。

第一不完全性定理
   公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。
第二不完全性定理
   公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない。


 ゲーデルの第二不完全性定理は、体系が無矛盾であると証明することはできないと述べているが、必ずしも矛盾があると述べているわけではない。そこで多くの数学者たちは、心情的にはまだ数学の無矛盾性を信じていた。だが理性的には、それが証明できないこともよくわかっていたのである。後年、偉大な数論研究者のアンドレ・ヴェイユはこう述べた。「神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することはできないから」

 ゲーデルの第一定理はエピメニデスの”クレタ人のパラドックス”あるいは”嘘つきのパラドックス”と呼ばれるたとえ話で説明できるらしい。かつてクレタ島出身者には嘘つきが多いとされていて、彼はこう主張した。

「私は嘘つきだ」

 この命題は証明できない。

 そうか、私は先日「私は嘘つきです 自閉症の人の視覚優位の話とかその他」をまとめたけど、あれって証明できないんだ。

 1940年、G・H・ハーディは、最高の数学のほとんどは何の役にも立たないと述べた。しかしこのとき彼は、役に立たないのは必ずしも悪いことではないと言い添えている。「純粋数学は戦争にはまったく影響を及ぼさない。数論を戦争のために使う方法を見つけだした者はいないのである」だが、ハーディーの間違いがまもなく証明されることになった。
 1944年、ジョン・フォン・ノイマンは、『ゲームの理論と経済行動』という共著の本を出版した。
(中略)
それ以来ゲーム理論は、戦闘をチェスに見たてて戦略を練る将軍たちにとってなくてはならない道具となった。


 第二次世界大戦中、ゲーーム理論よりもさらに重要だったのが暗号解読への応用である。連合国側は、ドイツ軍の暗号は数学的に解読できることに気がついた。しかしそれはあくまでも理論上の話であって、実際にはたいへんなスピードで計算をしなければならない。そこで、計算を機械化する方法を見つけだすことが課題になった。この暗号解読の研究に最大の貢献をなしたのが、イギリスのアラン・チューリングである。

 で、1938年にプリンストンからケンブリッジに戻ってきたチューリングはゲーデルの定理の巻き起こした混乱から、決定可能な問題と決定不可能な問題をどう定義するかについて、無限の計算力を持つ計算機を想定した。で、これは想定しただけでできなかったと思っていたのですが、1940年9月4日に英国政府暗号班に徴用される。英国政府出版局の公式記録から。

 1937年までに次のことが明らかになった。日本やイタリアとは異なり、ドイツ陸軍、ドイツ海軍、そしておそらくドイツ空軍は、鉄道およびナチス親衛隊などの組織とともに、便宜的な通信を除くすべての通信に対して、同一の、しかし版の異なる暗号システムを用いている。ドイツの使用しているエニグマ機は、1920年代に市場に出されたものであるが、ドイツ軍はこれに漸次変更を加えることにより安全性を高めている。1937年に英国政府暗号班は、一党独裁国家主義をとるドイツ、イタリア、スペインの各軍隊が使用していた比較的変更が少なく安全性の低いモデルの暗号の解読に成功した。しかしそれを除けばエニグマの暗号はいまだ解読されておらず、この状況が改善される見通しは立っていない。

 大戦がはじまったとき、英国政府暗号班はほぼ古典学者と言語学者によって占められていた。しかし外務省はじきに、ドイツの暗号を解読するのに必要な鍵を見つける可能性は、むしろ数論の研究者の方が高そうだと判断した。そこでまず手はじめに、バッキンガム州ブレッチレー・パークにあるヴィクトリア朝の大邸宅に暗号班の新本部を設け、そこにイギリスでもっとも優れた9名の数論研究者を集めたのである。こうしてチューリングは、無尽蔵の仮想紙テープを使って永遠に計算を続けられる仮想計算機を捨て、かぎりある資源と差し迫った期限をもつ現実的な問題に立ち向わなければならなくなったのだった。

 で、電気機械式リレー回路の計算機を作ったのだとか。そんなもんができてたんや。こういう計算機はアメリカのエニアックが初かと思っていた。(今Wikipediaのエニアックの項目を読んだらいろいろあるみたいですね)

 チューリングは、暗号解読の仕事をしているときにも数学上の目標を見失うことはなかった。仮想計算機は実在の計算機になったが、難解なパズルは手つかずに残されていた。戦争が終わりに近づいたころ、チューリングはコロッサスの製作にかかわっていた。コロッサスとは、”燥弾”に採用された電気機械式のリレー回路よりもはるかに動作の速い真空管を1500ももつ電子機器で、今日で言うところのコンピューターである。その飛び抜けたスピードと精巧さに、チューリングはこれを原始的な脳とみなすようになっていた。それは記憶し、情報を処理する。そしてコンピューターの内部状態は心の状態に似ていた。チューリングはかつて考えた仮想の計算機を、最初のコンピ予‐‐ターに生まれ変わらせたのである。

 で、戦後も研究を続けていたのですが、同性愛者だったので

 チューリングはつねに尾行され、1952年、同性愛禁止法に触れて逮捕される。そのときに受けた屈辱のために、チューリングの人生は耐え難いものになった。チューリングの伝記を著したアンドリュー・ホッジスは、その死にいたる出来事を次のように記している。

   アランーチューリングの死は、彼を知る人々にとって大きな衝撃だった……。たしかに彼は
  悲しみに沈んで安らげずにいたし、精神科医にもかかり、死を選んでもおかしくないような打
  撃を受けてはいた。だが、つらい出来事が起こったのはもう二年も前のことで、ホルモン治療
  は一年前に終了し、チューリングは立ち直ったように見えていたのだ。
   1954年6月10日、検死の結果は自殺だった。


 そんな時代があったんやなあ。エルトン・ジョンなんかでも昔やったら捕まるとこやったんか。

第5章 背理法

 ここで谷山豊と志村五郎について詳しく触れられています。谷山−志村予想を作った人。知らなかった。現在は証明され谷山−志村定理になっている。

 1954年、志村が図書館で参考になる冊子が借りられているのに気づき、借りた人(谷山)に葉書でいつ返すのかを問い合わせたところから交流が始まった。

 志村が緻密で几帳面なのに対して、谷山はときに不真面目に見えるほどずさんなところがあった。驚いたことに、志村はそれを称賛している。

    谷山は、たくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能
   に恵まれていた。私はそれがうらやましく、真似してみようとしたが無駄だった。そうしてわ
   かったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだった。


 何か、もちろん谷山さんの才能もあったのだろうけれど、すごく友情を感じるな。

 1950年頃の日本の数学界の様子。

 志村の言葉を借りれば、教授たちは「くたくたに疲れ果て、希望を失っていた」のである。それにくらべて戦後の学生たちは熱意にあふれ、学ぶことに貪欲だった。まもなく学生たちは、前に進むには自分たちで勉強するしかないことを悟った。そこで彼らは定期的にセミナーを開き、最新のテクニックや、新しくわかったことなどを順繰りに報告し合うようになった。谷山はふだんはぼんやりして見えたが、セミナーとなると猛烈な推進力を発揮した。そして、年長の学生には未踏の領域を探るべきだと力づけ、年下の学生には父親的な役割を果たしたのだった。
 学生たちは外部との交流をもたなかったので、セミナーで取り上げられるテーーマのなかには、ヨーロッパやアメリカではすでに時代遅れとみなされているものも少なくなかった。純朴な学生たちは、西洋では見限られた方程式を研究しはじめたのである。そんな流行遅れのテーマのなかで、とくに谷山と志村を魅了したのが”モジュラー形式”だった。


 周囲で「遅れている」「時代遅れと見做されていることが本当は「大事なこと」だったりするのはよくありますね。

 1955年、日光の国際数学シンポジウムで谷山−志村予想の原型が示される。それを志村が仮説を磨きあげている時、1958年、谷山は鈴木美佐子との婚約が決まり、新居も決めた後、自殺してしまいます。その遺書の一部。

「昨日まで、自殺しようと明確な意思があったわけではない。しかし私が精神的にも肉体的にも疲れてしまっていたことに気づいていた人が少なからず居たと思う。自殺の原因について、明確なことは自分でも良くわからないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。私の自殺のために、ある程度迷惑を被る方々が居られるでしょう。私の自殺がそのような方々の将来に黒い影を落すことがないよう、心から望んで居ります。いずれにしても、私の行為がある種の裏切であることは否定できませんが、私の最後の我儘と捉えてください。私がこれまでの人生で行ってきたように。」

 谷山−志村予想はこの時点では証明されていません。しかし、この後、多くの数学理論が「谷山−志村予想が正しいとすれば・・・」という仮定で作り上げられていきます。それだけ魅力的で正そうに見えたということでしょう。志村は

「私は、良さ(goodness)の哲学というものをもっています。(中略)そして良さの哲学は、私の美意識から生まれたものなのです」

と言っている。

 1984年、ゲハルト・フライが「谷山−志村予想が証明されればフェルマーの最終定理は成り立つ」と示す。しかし・・・

 カリフォルニア大学バークレー校の数学教授ケン・リベットの話

「私は、谷山−志村予想は証明できないと考えている絶対多数の一員でした。証明してみようともしませんでした。やってみるどころか、考えることさえしなかったのです。たぶんアンドリュー・ワイルズは、この予想を証明できると考えた、世界にも数少ない無謀な人間の一人だったのでしょう」

第6章 秘密の計算

 問題解決のエキスパートは、相矛盾する二つの資質をそなえていなければならない−たえまなく湧きあがる想像力と、じっくり考えるしぶとさである。
                            ハワード・W・イーヴズ



 アンドリュー・ワイルズは1963年10歳の時、学校帰りの図書館でたったひとつの問題しか載っていない本に引きつけられた。それがフェルマーの最終定理であり、まだ解かれていなかった。そしてそれを解かなければならない、と思う。

「xのn乗+yのn乗=zのn乗 この方程式には3以上の整数解は無い。」

 後年数学者となり、ケンブリッジからプリンストンに行っていたワイルズ。

「あれは1986年の、夏も終わりのある晩のことでした。私は友人の家でアイスティーを飲みながら話をしていました。するとその友人がなにげなく、ケン・リベットが谷山=志村予想とフェルマーの最終定理とのつながりを証明したよ、と言ったのです。私は感電したようなショックを受けました。その瞬間、人生の流れが変わってゆくのがわかりました。フェルマーの最終定理を証明するには、谷山=志村予想を証明すればよいというのですから。子供のころに抱いた夢が、取り組むに値するりっぱな仕事になったのです。その夢を手放したりできないことはわかっていました。家に帰ったら谷山=志村予想に取りかかるんだ−そう思いました」
 アンドリュー・ワイルズが町の図書館で一冊の本に出会い、フェルマーの挑戦を受けて立とうと思ってから二十余年の歳月が流れていた。


 そして、普通は他の数学者と情報交換しつつ助け合い励ましあいながら研究をするところ、ワイルズは屋根裏部屋にこもりひとり考え続けます。

「大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、それは必ずしも必要ではありません。とくに、袋小路に入り込んでしまったり、未解決の問題にぶつかったりしたときには、定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向わなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです」

 何か棋士の世界みたいな話やなあ。

 で、自分がやっている仕事を隠すために、別のところでできたいた仕事を小さな論文として小出しにすることで周囲に気づかれないように(つまり別の仕事をやっているように見せる)します。

 ワイルズは証明の第一段階としてエヴァリスト・ガロアの研究の中に潜んでいることを発見する。ガロアは1811年生まれ。

 ガロアは十六歳にしてはじめて数学の授業を受けるようになった。しかし数師たちの目には、ガロアはその授業のせいで、おとなしい生徒からやっかいな学生に変わってしまったように見えたのである。そのころの成績表からは、新たに出会った情熱の対象に夢中になるあまり、ほかの教科をおろそかにするガロアの姿がうかがえる。

 16歳で初めて数学を学ぶって遅すぎるように見えるのですが、そんなことは無いのですね。そしてガロアは17歳にして五次方程式の解を見つけ、科学学士院にニ編の論文を送っている。しかし、そのあと紆余曲折があり、預けたフーリエが死んでしまい学士院には提出されずじまい。そして20歳で決闘で命を落とす。しかし過激な共和主義者であったガロアを殺すための陰謀説(恋人と思っていた女性も王党派の手先)という説もあるそう。

 ワイルズがガロアの群論からヒントを得て第一段階を乗り越えた時点で2年が過ぎていた。

「解けないかもしれない問題に、なぜそれほど時間をかけることができたのかと思われるかもしれませんね。その答えは、私はこの問題を考えているのが嬉しくてしかたがなかったから、これに夢中だったからです。私はこの問題との知恵くらべを楽しんでいました。それに、たとえ私の考えていた数学に谷山=志村予想を、したがってフェルマーの最終定理を証明するほどの力はなかったとしても、何かを証明することにはなるだろうと思っていたのです。私はあやしげな裏通りに入り込んでいたわけではなく、あれは間違いなく良い数学だった。それは一貫してそうでした。フェルマーの最終定理にたどり着けない可能性はあっても、単に時間を無駄にしているという心配はありませんでした」

 志村さんの言う「良さ(goodness)の哲学」と同じことを言ってはるんやろな。

 ワイルズが考えている間に1988年、東京都立大学の数学者、宮岡洋一がフェルマーの最終定理を証明したと発表する。しかし2週間後に矛盾が発見される。

 ワイルズは岩澤理論の応用を考える。しかしそれは敗北する。

 次にワイルズはコリヴァンギン=フラッハ法を適用しようとする。6年の歳月が過ぎていた。この時点で初めてワイルズはプリンストン大学のニック・カッツ教授に相談する。カッツは徹底的に吟味しようとし知力を振り絞る。

「アンドリューが説明すべきことは、膨大かつ長大だったので、彼の研究室で日常会話のようにやるわけにはいきませんでした。これだけ大きなものになると、きちんとした講義計画が必要です。さもなければまともなことはできないでしょう。それで私たちは講座を立ち上げることにしました」
 
 これはええ手や。でワイルズが大学院生向けの講座を立ち上げ、カッツは大学院生に混じって聴講します。しかし、最終目的を隠したままなので、大学院生には面白くなく、一人また一人と来なくなり最終的にワイルズとカッツの2人で講座をしていたそう。(笑)

 そして証明を完成させたと思ったワイルズは1993年6月21日から23日にかけて、ケンブリッジで「フェルマーの最終定理を証明した」講義を行うわけです。

第7章 小さな問題点

 攻撃に値する問題は、反攻によりその真価を示す。   ピエト・ヘイン

 ワイルズの「証明した」という知らせがヴォルフスケール委員会に届き、論文が公表され、レフェリーにかけられた。

 そして「小さな問題点」が見つけられたと思われたがそれは「根本的な欠陥」だった。それに気づいたのはワイルズの講義を聞いていたカッツで、なぜその時発見できなかったのか、ということについて

「おそらく問題は、講義を聴くときの態度にあるのだと思います。すべてを理解することと、講義する人のじやまをしないこと、その兼ね合いが難しいのです。もしもひっきりなしに質問していたら−−ここがわからないとか、そこはどうなっているのかとか−−講義する方は何も説明できなくなり、聴く方も結局は何もわからずじまいになるでしょう。一方、質問しなければ内容は理解できませんから、礼儀正しく頷いてはいても、何もチェックできないことになってしまう。質問をしすぎることと、しなさすぎること−−そのバランスが難しいのです。そしてあの春の講義の終わりごろ、私は質問をしなさすぎるという過ちを犯した。そこからこの誤りがこぼれ落ちたのです」

 これはよくわかる気がします。プロレスみたいに相手に思う存分技を出させつつ、こちらも技を出さないといけない・・・ちょっとちゃうか・・・

 1993年の冬、ワイルズがピーター・サーナクに敗北を認めるところまで来ている、と打ち明けると、相談できる頼りになる人間がいれば、という話になりケンブリッジ大学のリチャード・テイラーをプリンストンに招き共同研究をすることにした。そんなことができるといいうのがすごい。

 1994年、フェルマーの定理が否定された、とメールが飛び交う・・・エイプリルフールでした。人がテンパってる時にシャレにならんなあ。

 そして、本当に本当にもう9月いっぱいであきらめようとしていた時、

「ある月曜日の朝、そう、9月の19日のことです。私は机に向ってコリヴァギン=フラッハ法を吟味していました。この方法を生かせると思っていたわけではありませんが、少なくとも、なぜだめなのかは説明できるだろうと。溺れる者は藁をもつかむといった心境でしたが、私は自信を取り戻したかった。すると突然、まったく不意に、信じられないような閃きがありました。コリヴァギン=フラッハ法は完全ではないけれども、これさえあれば、最初考えていた岩澤理論が使えることに気づいたのです。コ‘リヴァギン=フラッハ法があれば、3年前に考えていたアプローチが使える。それはまるで、コリヴァギン=フラッハの灰の中から真の答えが立ち上がったようでした」
 岩澤理論は、それだけでは不十分だった。コリヴァギン=フラッハ法もそれだけでは不十分である。それぞれが相手を補い合ってはじめて完全になるのだ。その閃きの瞬間を、ワイルズは決して忘れないだろう。その瞬間について語るとき、あまりにも鮮烈な記憶にワイルズは涙ぐんだ。


 片方だけでは不十分なものが、両者あいまって力を発揮する・・・戦隊ものとか、ヒーロショーとかの典型ストーリーみたい。

 ここで本当にフェルマーの最終定理が証明されました。

第8章 数学の第統一

 感想を求められた志村は穏やかに微笑むと、控え目に、しかし威厳をもってさらりとこう述べた。

「だから言ったでしょう」


 現在の数学の未解決問題。

「ケプラーの球体充填問題」

 カリフォルニア大学バークレー校のウーイー・シアンがこれを解いたと言ったが、他の数学者の全てに間違いを指摘されている。たった一人シアンを除いて。この点については

 シアンの一件がいみじくも明らかにしたのは、数学界がいかに”自主管理制度”に依存しているかということだ。数学界は、トップクラスの大学に終身在職権をもつほどの敦授かインチキな主張をするはずがなく、欠陥を指摘されればすぐに主張を撤回するだろうと考えている。この自主管理制度を逆手に取る者は、長引く混乱を引き起こすことができるだろう。というのは、その人物の後をついてまわって、インチキな主張をするたびに化けの皮を剥がして歩くほど暇な人間はいないからである。(1993年に『マセマティカル・インテリジェンサー』に掲載されたヘールズによる反論記事に多大な労力が費やされたことや、その記事を書いたことが彼の研究者としての経歴にはなんのプラスにもならなかったことを考えれば、問題点は自ずと明らかだろう。ヘールズの記事に対するシアンの答弁はまったく的はずれだったが、それに反論して堂々巡りに陥っている暇はない、というのがヘールズの結論だった)(訳注一ヘールズは1998年にケプラー予想を証明したとの論文を発表。レフェリーの判定待ちとのこと。ヘールズの手法はコンピューターを駆使した「シリコンによる証明」である)

 これって自閉症の人への支援についての話でも言えるなあ・・・昔メチャクチャなことを言っていた大学教授たち、どないしてんねんやろう。

 地図の塗り分け問題(4色でいいのか、5色必要なのか)でコンピュータの馬力を使うようになって

 そして、この問題に取りかかってから5年後の1975年、二人はコンピューターが単なる計算にとどまらない仕事をする場面に居合わせた。コンピューターが、アイディアの面でも力を発揮していたのである。ハーケンとアッペルは、研究の転回点となったこのときのことを回想して次のように述べた。

 この時点で、プログラムはわれわれが驚くような働きをしはじめた。当初われわれは、プログラムのやることを手でチェックしていた。したがって、いかなる場合でも、プログラムの進む方向は予想できたのである。ところが突然、プログラムがチェスをする機械のように振る舞いはじめたのだ。「教えられた」すべての方法をもとに、それらを複合した方法を考え出し、しかもその方法は、しばしばわれわれ自身が試した方法よりもはるかに賢かったのだ。こうしてプログラムは、思いもよらない研究の進め方を教えてくれるようになった。ある意味で、プログラムは機械的作業のみならず、「知的」な部分でもその創造者を追い抜いたのである。


 あれ?これはまだ(今、2011年の時点でも)無理だ、と思っていたのですが・・・

 いつでも、どこでも、誰でも、プログラムの詳細を入力してチェックすることができる。人間が一生かけてできる以上のことをコンピューターが数時間でやってのけるからといって、数学的証明の基本的概念が変わるわけではない。変わったのは数学の理論ではなく、数学の実践なのだ。

 そうやな。で、実践はめちゃくちゃ変わったやろな。自閉症の人への関わり方、特別支援教育などで言えば動画が利用できるようになって、発達や支援方法について革命的な変化が起こったと思うし。それまでは美しげな理屈をこねまわして実は何の役にも立たないものも多かったけれど、動画を見れば一発で嘘か本当かわかる領域はめちゃ増えてるし。もちろんそれが全てではないにしても。

 さらに最近では、いわゆる遺伝アルゴリズムという考え方を用いて、コンピューターにさらなる力を与えた数学者たちがいる。その種のプログラムでは、おおまかな構造は数学者が設計するが、細かい部分はコンピュータ上目身が決定を下す。プログラムの一部が、ちょうど生物のDNAに合まれる遺伝子のように変化し、進化していくのである。
 コンピューターは、母プログラムにランダムな突然変異を起こさせ、少しずつ異なる娘プログラムを何百も作り出す。それらの娘プログラムを使って具体的な問題を解いてみる。大半のプログラムはうまくいかないが、解決にもっとも近づいたプログラムは、突然変異によって次の世代の娘を残すことを許されるのである。このプロセスを繰り返せば、プログラムが問題解決に向ってひとりでに進化するだろうと数学者はみている。実際、いくつかの場合に対しては、この手法が大きな成功を収めているのである。
 計算機学者のエドワード・フレンキンは、いずれはコンピューターが数学者の助けを借りずに重要な証明を発見するだろうとまで述べた。今から十年ほど前、彼はライプニッツ賞を創設し、「数学に大きな影響」を及ぼす定理を作った最初のコンピューター・プログラムに、十万ドルを授与することにした。

 
 へえ。遺伝アルゴリズムという言葉は聞いたことはあったけれど、こういう意味やったんか。

 いやほんま、わからないところだらけの本でしたが、なんかめちゃ面白かったです。





 

ラベル:数学
posted by kingstone at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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