について
既に起きている責任を放棄せずに、子どもたちの手で証明させるようなことになる前に
を読んで思ったこと。
まず元記事。幼稚園で「投票で追い出した」という話。
幼稚園でもだろうし、小学校・中学校・高校そして大学でもそうかもしれないけど、「投票で友達をクラスから追い出す」はやったらあかんやろ、と思います。
子どもたちの意見に耳を傾け、選択させ、意見を取り入れていくのは大切。しかしクラスで投票するというなら「次の時間の紙芝居は『花さかじいさん』にする?「桃太郎にする?」くらいでしょう。
私は、え〜〜と、あれは小学校何年生だったんだろう、3年か4年か。そのクラスで
「み〜〜んな仲良く、なんてしなくていい」
「嫌いな人がいたっていいんだよ。でも(その人に)言わないでおこうね(先生には言ってもいいよ)」
と教えていました。またクラスの中である子が激しく文句を言われかけたことがありました。その子がトイレではなく校庭のすみでおしっこをしてしまったのです。子どもたちは「そんなことをする子は激しく文句を言われても当然だ」という主張をする子が複数いました。その時の私の対応は
愛子さま記事(週刊新潮6/10号)から考える
エントリにもあるように、このクラスの前年に担当したクラスでは「イジメていた子」を私が「そんなことをしてはいけない」と言い、悪者にしてしまったがために、その子は不登校となり、学級も崩壊しました。(と書いてますが、私の授業やクラス運営がまずかったからイジメが顕在化してしまった、ということでもあります)
当時の私のクラスはギスギスしていたクラスと思われるかもしれません。でも例えば上でいろいろ主張していた子たちが「この学校でkingstone先生のクラスは校内球技大会で優勝したことが無い。だから僕達の手で優勝させるんだ!」と言って本当に優勝させてしまうようなクラスでした。(私は一切煽ってません。どちらかというとそういうことは嫌いなので)
何て言うんだろう。子どもたちの声にいっぱい耳を傾けることは大事なんですよね。しかし教師が教えなければならないことを放棄してしまってはいかんだろうと。
上の追放した幼稚園もアメリカの例ですが、もずらいとさんが教えて下さった例にこんなのがあります。探し出せないのでうろ覚えで。なおもずらいとさんは「こんなアメリカのまねをしたいのか?(こんなのまねしたら嫌だろう)」というニュアンスで書いて下さったのだけれど、私は感動的なエピソードと思った話です。
大学で
あるゼミ。日本人留学生がゼミでの発表というかとにかく仕事にもたもたしていた。しかしアメリカ人の友人がアドバイスをくれたり協力したりしてくれて何とかこなすことができた。後でそのアメリカ人が「あの日本人はゼミの足を引っ張る」と文句を言っていたという話を聞いて留学生はショックを受けた。
この話、とりあえず目の前の現状については「自分の評価は別として全体がうまくいくように努力する」という話で、めっちゃ感動的ではあるまいか。でももちろん「陰口はきかない」を実行していたらもっと良かったとは思いますが。(陰口は日本でもたくさんあること)
小学校で
あるクラスで。日本人の子が転校してきて、過ごしていたある日。ある子からこう言われた。「私はあなたが嫌いだ。でも私に危害を加えない限りこのクラスから出て行けとは言わない。」
これは私なら「別に言わんでもええやん」とは思いますが、でも「このクラスから出ていけとは言わない」ってのがすごく素敵な気まします。
で、教師は「こんなふうに考えたらいいんだよ」というのを子どもに伝える義務があると思います。
それから「既に起きている・・・」で著者は
「自閉症に対する実践研究会や講習会、講演会は毎年各地行われいるだろう。実際にぼくも参加することもあるし、職場のスタッフも研修に参加している。では、研修に参加してどれぐらい自閉症という障害に対して理解が深まっているか、実はぼくはかなり危ぶんでいるところがある。たぶん、0が1か2になる程度のことじゃないか、と。その1か2になった理解で、いざ実践!となったとき、この記事に出てくる「アレックス」のような子どもとどう向き合うのか。」
これね、よくわかります。
できるなら、自閉症・アスペルガー症候群の人(子ども)に実際に来てもらってやりとりするところをみんなに見てもらう。できれば参加者にやりとりしてもらう。それができなければ実際のビデオ。また実践例の物語。そんなもんが必要だなあ・・・通りいっぺんの「講義」「講演」で理解できると思ったら大間違いだ。
診断名は「だから私(教師)は悪くない」という言い訳に使うためにあるもんじゃない。
たぶん私は「アメリカというのは良くも悪くもドライである」という文脈で引き合いに出したのだと思います。最初に見かけたのは「なぜ、宇多田ヒカルがコロンビア大学に入れるのか―誰にでもチャンスを与えるアメリカ社会 」という本の中でしたが、その後何回か別の人の本で同様の話を見かけました。
で「文句を言っていたという話を聞いて」ではなく、評価レポートだかディスカッションだかで書かれたか言われたと言うことです。つまり「陰口」ではありません。相手に直接そう言う文化なのですよ。だから逆に「今日パーティーがあるんだけど来ない?」と誘われて断っても後に引かない文化でもあります。さすがに断るときは婉曲的な表現を使うそうですが。
知り合いが米国に視察に行ったとき、障害児のいる学級のクラスメイトに「あの子をどう思う?」と尋ねたら「嫌いよ。でも、彼は別に私に何かをするわけではないから、クラスメイトとしてならOKね」と言う意味の返事が返ってきたそうです。日本だと「友達百人できるかな」の文化ですが、米国は友達の数なんか関係ないという文化です。つまり「みんな仲良く」という発想はないか、日本のそれと根本が違っているのです。
普通学校の担任になったことはありませんが、交流学習の時、相手校の児童に対して「皆さんの中には、本当は養護学校の人とは一緒に遊びたくないと思っている人がいるかもしれません。だったら、遊ばないで良いです。でも、その人はこれから自分が困ったときも誰にも助けてもらってはいけません。仲良くしてもらってはいけません。自分がしないのに、人にはしてもらいたいのはズルいですから」という意味のことを前口上で述べたら、やたらうまくいったことがあります。「もし自分だったら」という風に考えるようにすることが、特に小学校段階では重要かと思います。
|評価レポートだかディスカッションだかで書かれたか言われたと言うこと
なるほど。「陰口」よりいいようなな気がする。
交流学習の時の前口上。もずらいとさん風名人芸ですね。(笑)
口調・表情・姿勢、すべて目に浮かびます。そこんとこ、わかんない人は「文」だけでマネしないほうがいいとは思うけど。
記事の紹介して頂きありがとうございます。
個人的にはやっぱりケアや教育のシステムが必要だなーと思い記事にしました。
一人ひとりの子どもたちや教師が相互関係にあることを前提に、人が「生きる」環境・空間や関係を専門性や教養を利用しながら一緒に創って行く「仕組み」としてのシステム、です。
教師だけの問題にもしたくないですしすね。きっとこういう問題のとき、良心的な教師ほど苦労して潰れてしまい、さらに批判も受けてしまいがちだと思うので。。。
|やっぱりケアや教育のシステムが必要だなー
私もまったく同意します。
|教師だけの問題にもしたくないですしすね。
ええ。なんていうか「資質」や「能力」のせいにはしたくない。そのためには教師を指導する人(大学教授など)や、教育委員会などが「考えていく方向」を示し、そちらの方向に進む人を評価し、進まない人を評価しないシステムを作るのが大事、と考えています。そしてそれができていないからこそ
|良心的な教師ほど苦労して潰れてしまい
といった事態が起こるのだと思っています。
copeindealtさんはTwitterをしておられるとのことで、読ませて頂こうと思いましたが、アカウントがわからず今のところ断念しております。
http://twitter.com/copeindealt
よろしくお願い致します。