※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年04月29日

アメイジング・グレイスを観て思ったこと 人権より儲かること

 映画「アメイジング・グレイス」を観てつらつら思ったこと。

 パンフレットを読んでたら、近藤和彦さん(東京大学教授・イギリス史)の文で

「イギリス国内では奴隷制度は存在しなかった」
「映画の最初のほうで腐った貴族が、賭け金として黒人使用人を家畜のように売りつけようとして、その場の全員を驚かせる場面があるが、そうしたことは許しがたいスキャンダルだと考える文化が、すでに存在したのである」

と書かれています。ふむ。つまりたいがいの人は「いけないことだ」と思っている。でも「奴隷貿易で儲けている」人がいるし、それを禁じる法律も作れない。

 また石橋秀雄さん(牧師)はアメイジング・グレイスの歌詞について、作詞者の元奴隷貿易船船長で牧師のジョン・ニュートンが

「見えなかった私が今は見える」

と書いたことについて

「見えないというのは悲しいことだ。見えないことで人間は残忍になれる」

と書いてはります。

 で、ウィルバーフォースは「人道的見地から」奴隷貿易廃止法を訴えるわけだけれども長年うまくいかない。最後、「フランスの植民地への奴隷貿易を助けたり、参加したりすること(またその船を保護すること)」を禁じた法律を出し、(と言うかウィルバーフォースが出したのでは反対されるから「誰も疑わない退屈な議員」に出させた)それが通過することによって回りまわって奴隷貿易を廃止することに成功します。

 これねえ・・・例えば自閉症の人の人権って大切。でも人権で訴えても動かない人はたくさんいると思うんだよね。

 だから、「威嚇と暴力を使う人」は降給・降格。で「適切な方法で関わる人」は昇給・昇格。また「適切な方法で関わる人」は儲かる。そんな仕組みを作らないといけないんじゃないかなあ、と思うんだよな。

 まあ「フランスの植民地云々」は他の国の足を引っ張ろうというやつで「ちょっと歪んだ愛国心」に訴えたもので、儲かる・損するの軸ではないのかもしれませんが。

 う〜〜ん、ちょっと違うかな。

 でも「威嚇と暴力」を使う人のほうが学校の秩序を維持しているように見えて昇給・昇格できる、と勘違いさせた面はあると思うな。で、人権よりそっちの方が大切と思っていた、というか人権ってものはわからなかったと思うし、言ってもわからないと思うんだよね。

 う〜〜む。




posted by kingstone at 23:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 大英帝国は「法律としての奴隷制度廃止」は結構早かったようです。でもね。それは植民地がたくさんあって、奴隷を連れてくる必要性がなかったからでしょう。
 米国の奴隷制度ですが、当時の感覚では奴隷の位置づけは「家畜」と同様だったわけです。この感覚は大英帝国でも、少なくとも20世紀前半まではごく普通に、実際には今でも一部残存しているでしょう。会田雄次さんの「アーロン収容所」に描写されている英国士官の振る舞いは日本兵を「同じ人間」として扱っていません。マハトマ・ガンジーはイギリス本国で弁護し資格を取りましたが、開業した南アフリカでは差別されています。当時の南アフリカは大英帝国領です。

 ちなみに「人道的見地」と「人権」はかぶる部分もありますが、異なるものですので、この映画と自閉症児への指導を結びつけるのは、突っ込まれると簡単にほころびますよ。
Posted by もずらいと at 2011年04月30日 07:06
もずらいとさん、どうもです。

|当時の感覚では奴隷の位置づけは「家畜」と同様だったわけです

確かに。映画冒頭のシーンもウィルバーフォースが家畜への手荒な扱いに心を痛めるシーンから始まります。

「アーロン収容所」ではお腹の空いた日本兵が川にいる蟹を食べ住血吸虫にやられ死んでいくのを英兵が何も思わず見ている、みたいなシーンが頭に残っています。

|「人道的見地」と「人権」はかぶる部分もありますが、異なるものですので

うん。何か、どこか違うのでしょうね。

|この映画と自閉症児への指導を結びつけるのは

もう、これはまったくそうだけど、頭の中で妄想が始まってしまったのだから仕方が無い・・・

Posted by kingstone at 2011年04月30日 07:18
>|「人道的見地」と「人権」はかぶる部分もありますが、異なるものですので
>
>うん。何か、どこか違うのでしょうね。

 たとえば刑務所の囚人の食事や待遇を「人道的見地」から改善すると言うことはありますが、そもそも刑務所は「人権が制限された(居住の自由、移動の自由その他が制限されていますよね)」空間です。イスラム圏での「石打ち」の死刑は「人道的見地」から「問題」とされていますが、死刑自体が本人にとっては「人権」と無縁な状況ですよね。死んじゃうんですから。死ぬと、たとえば「プライバシーの権利」なんてのはだいぶ消失します。たいていの場合、個人情報保護の対象じゃなくなりますし。

 「人道的見地」と「人権」は、おおざっぱに言えば「実効のための細則・慣習的なとりきめ」と「法律などの原則」という感じですかね。たとえば「交通ルール」と「道路交通法」みたいな関係。道路交通法では「信号が青になっても左右をよく見て手を挙げてから渡りましょう」なんて細かいことは書いていません。こちらは「交通ルール」です。交通ルールから法制化されたようなものもあります。オートバイの昼間点灯(平成10年4月以降に製造されたオートバイは、エンジンが動いているときは前照灯が点灯する構造になっていることが義務づけらています)とか自転車の歩道通行とか。

 「人道的見地」という場合「本人以外による配慮」の意味合いが強いでしょうね。「自分は罪を償うために刑務所に入ったのだから、こんなに優遇されては困る」という受刑者もいるでしょうし、「娑婆では喰っていけないから」と犯罪繰り返して刑務所が「常態」になっている人もいますし。「累犯障害者」という本はこのあたりを書いていますね。

 対して「人権」はある種の取り決めです。生活保護を受けるのは権利ですが、拒否する(申請しない)自由が本人にあります。美濃部都政の時代、老人無料パスというのが交付されましたが、近所のご老人は「乞食じゃあるめーし、いらねーよ、そんなもん」と嫌っていました。まぁ、老人パスは「人権」とまでは言えませんが、生活保護は憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を具現化したもので、まぎれもなく「人権」です。

 で、人権も人道的見地も時代によって変化します。死刑制度は「苦痛を伴わない」方向に「人道的見地」から変わっていきましたが、50年くらい前までは死刑制度そのものを人道的見地とか人権という視点から考えることはあまりなかったわけです。
 男女同権から夫婦別姓が人権問題として訴訟になったりしますが、「姓」が固定化して現在のようになったのは明治維新以降、戸籍制度ができてからの百数十年程度に過ぎない新しい話です。江戸時代まで、普通女性は姓を名乗りませんでしたし、男性も養子に入ったり主君から褒美に姓を賜ったり縁起物で姓を変えたり、つまり「姓は変わるもの」というのが当時の感覚だったのです。例を挙げれば新撰組組長は、宮川勝五郎→島崎勝太→島崎勇→近藤勇→大久保大和と出世魚のように姓どころか名前も変わっています。ですから、江戸時代の人に「男女同権」を説いたとして、その具体例として「夫婦別姓(これは生まれたときの名前のまま一生を過ごすと言うことですから)」をあげられても、そう言う感覚がありませんから「名前なんてなんかありゃ変わるしのー、そんなもんにこだわるかねー?」と思うことでしょう。
 
Posted by もずらいと at 2011年04月30日 09:07
もずらいとさん、どうもです。

またまた私の妄想が爆発するコメントを(笑)

うつのひどいネタキリの時期、私は刑務所に入れてもらいたくて仕方ありませんでした。しかし犯罪を犯す根性が無かった・・・

|人権も人道的見地も時代によって変化します。

これは強く思います。私だって地域的歴史的なものに縛られているはず。(自分では気付けないわけですが)

例えば子どもの頃は周囲の人がタバコを吸っているのは当たり前でした。今は吸う人の方が配慮し、吸えるところに行くかこちらに吸う許可を取るのが当たり前になっていますが。常識も人道的見地も人権意識もどんどん変化しますね。

Posted by kingstone at 2011年04月30日 10:33
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