※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年04月29日

「きちんと褒める」とはどういうことか について

 カテゴリを「犬とのよい生活」にしようか「特別支援教育」にしようか迷いましたが、一応「犬とのよい生活」の方にしておきます。話はあっちゃいき、こっちゃいきしますが。


 私の注目のドッグトレーナーにして応用行動分析家 hit1678さんのエントリ





を読んで頭に浮かんだこと。


 えーっと、私は常々「応用行動分析は人と犬とを差別しない」と書いてますし、「山川草木悉有仏性」とは思ってます。でもって「じゃあお前は人と犬とを区別しないのか」と言われれば、韓国でポシタンを食べたいとは思ってるけど、人肉食のある部族の所に言っても人肉は食べたくない、という区別はしています。


 で、私が肢体不自由特別支援学校にいた時、学部会(会議)で「犬にだってできるのにうちの学校の子にはできない」とおっしゃった先生がいたので、すぐに私は直感で、笑いながら「そら肢体不自由の犬と比べなあきませんで」と言いました。で、私も自閉症のお子さんへの関わり方と犬への関わり方の共通点について言うことがあるけど、でも本当は「自閉症の犬」との関連についても語らないといけないんだろうなあ、とか思っています。


 で、褒める、ということについては、「効果ある褒め方」というのは犬であろうと人であろうともうhit1678さんが言われている「ある行動を増やす」ものである、と考えます。(でも、「心の底から」みたいなことは私も言いたい。自分の心に嘘をついて「褒める」必要は無いと思っています。そのためにはこちらの心が素直に反応できる状態とか価値観を持っておきたいと思っていますが)


 しかし効果があるとか無いとかじゃなく「思わず褒めちゃう」こともあるし、それでもいいとは思っています。


 で、なるほどクリッカー(カッチと音の出る道具)も「褒める」ことになるのだ、というのは新鮮でした。


 私自身は「笑顔」「視線」「やったあ」という声。「軽くパンパン叩く」などを使うかな。


 そしてまたhitさんの言われる「やってみて はじめてわかる 褒めるかな」というのにももうメチャクチャ納得しまくりです。


 でね、これは犬だとどうなるかわからないのですが、自閉症の人との関わりで「別に褒めなくたっていい」ことも多いな、みたいなことを思うことは多くなりました。どういうことかっていうと「やって欲しい課題」とかがあった時に、その人が「ひとりでやってできた」となった時、こっちが褒めなくたってその人自身が「やった」と思えて、その行動が増える、みたいなね。


 で、そんな場面も多くみましたけど、でもこれは私の「視線」は関係あったのかもしれません。またそれまでに「褒めた」ことが良かったのかもしれません。そこらへんはよくわかりません。


 昔「褒めない子育て」っていう本があって、まあ「褒めましょう」というののアンチテーゼを出そうとしてはる感じだけど、中身が薄くてあんまり感心しませんでした。しかしそのタイトルは確かに良かったなあ、と思います。


 hitさんが次に書かれている「リーダー論」にも期待です。

posted by kingstone at 20:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Twitterのhayato_labloveです。

ラブラドールを子犬から飼っています。
躾けには「暴力」も使いました。

しかし、その「暴力」が通じるのは「暴力」以前にたくさんかわいがる、
というベースがある場合だけです。

「暴力」によって、「自分より格上」ということを理解させるにも、
きちんとした信頼関係ができてからでないと駄目なわけで、
信頼関係がないと、ただ単に「恐怖」を植え付けるだけ。

そういうところは、犬も人も同じだなぁと思っています。
Posted by いしだはやと at 2011年04月29日 23:44
いしだはやとさん、どうもです。

|たくさんかわいがる、というベースがある場合だけです。

ここんとこ、よくわかります。

また暴力というか、時に「叩いて」もうまくいっている例も知っています。

ま、しかし「教科書」とか「人に教える、特に教師に教える」場合は容認してはいかんだろうなあ、と思っています。
ひょっとしたらベースがあるから「叩いたにも関わらず」うまくいったのかもしれないなあ、と思っています。
よくわかんないすけどね。

Posted by kingstone at 2011年04月30日 00:02
ちょっとおそレスですが、

教育現場で「暴力」を使った場合に、ある問題行動を抑制できる時もありますが、
大概は、「その先生」の前でしか問題行動が抑制されないような気がします。

荒れ気味の普通中にいたこともありますが、同様な傾向がありました。

で、その中学校をやめるときに、その体育科の先生に
「時にはそういった方法をとった方がいいのか?」という質問をしたところ、
「石田さんには石田さんにあった生徒に相対する方法があるので
 真似をする必要は無いよ」と言われ
なるほど。と。

あ、その中学校ではそれぞれの先生がそれぞれの方法で
生徒に真摯に相対したので、その後「荒れ」は沈静化していきました。
Posted by いしだはやと at 2011年05月05日 10:01
いしださん、どうもです。

その体育の先生のおっしゃるとおりだと思います。

しかし、その先生が特別支援学校で私の目の前で暴力(と言うか叩くとか大声で威嚇するとかですね)を使おうとするなら、今なら即止めさせます。それは石田さんも書かれている通り「その先生の前でしか」ということになりますし、長期的に見てたいへんまずいことになりますので。

私は「真摯」にあまり価値を置いてません。っていうかそれは「愛情」と一緒で誰もが持っているもの。それを発現できないシステムとか教師教育に問題があると思っています。

関連発言。

ある不良 (?)少女がサポートペーパーを読んでくれた時のエピソード
http://omemedo.tanba-sasayama.com/new/kurasi/support/supportyomu.htm

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 岩崎夏海著
http://kingstone3.seesaa.net/article/196760699.html

指示待ちの問題
http://togetter.com/li/131398

私は少なくとも特別支援教育に関わる教師には基本的な知識を持って欲しいと願っています。
Posted by kingstone at 2011年05月05日 10:24
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