この中で難聴は周囲に言いまくってます。例えば職場が変わった時、自己紹介の挨拶の時に必ず言います。たいていは相手の方は大きめの声でゆっくり話してくれるようになります。
また、大病院に行って検査を受ける時に看護師さんの話が聞き取りにくかったりすると、「私は難聴です」と言うと、看護師さんが周囲の検査チームの人に「難聴ですから大きな声で」と即伝言リレーで伝えて下さったりします。
こんなふうに「難聴です」と言うと、相手がすぐに対応してくれて、私に(もちろん相手にも、ですが)メリットが大きいからよく使うわけですね。
また、昔は「あんたは聞こえつんぼやな」と、まあ冗談の範囲でしょうが、馬鹿にする意味も少し込めて言う人がいたけど、今は無いなあ。「聞こえつんぼ」というのは確かにその通りで「自分に都合のいい(自分が得になる)ことはよく聞こえる」けれど「自分に都合の悪い(別に自分が得になるわけではない、時には損する)ことは聞こえにくい」というのは事実です。
難聴の人には筆談も含めて一定の配慮をする、というのは社会的なコンセンサスを得ている、と言っていいと思います。
ストレス性障害やうつについては問われれば答えることもあるけれど、こちらから言うことは無いです。だって、それを聞いても周囲の人、「じゃあどうやって対応したらいいんだ」というのがわからないだろうし。って、私自身にも目の前にAさんがいて、Aさんが「私ストレス性障害とかうつなんです」と言っても、私がどう関わり方を変えたらいいかわかりません。(ってか、他の人に対する時と同じだろうな、と思います)
つまり、私にメリットがあると思えないですから、言わないわけです。また社会がどんなふうに見ているか、というのは雅子さまに関する報道やネット上の言説でもよくわかりますし。なんか「さぼり」や「なまけ」と思われている。私は、わざわざ隠す気はありませんが、こちらから先に言っておこう、という気にはならない。
では自閉症はどうだろうか。
映画「レインマン」以降、かなり知識が広まり、アメリカでは例えば入国審査の時に係官にお子さんが怪しまれた時に「He is autism.」と言うと「あ、そうか。ではお通り下さい」ということを経験された、とか言う話は聞きましたが。(もちろんレインマンに出てきたダスティン・ホフマンみたいじゃない自閉症の方もたくさんいますが)
少なくとも私だったら、「このお子さんは自閉症です」と言われたら、まず「見てわかるものを用意しよう」という対応はすぐ浮かぶわけです。で、音声言語については慎重に、わかる範囲で徐々に増やしていく。
そういうことがわかっている人たちの間なら「自閉症」という診断名はおおいに価値がある。
先日Twitterである方が、「教師は中途半端に(自閉症とかアスペルガー症候群とかADHDとかだと思う)知識を持ってるんじゃないか。診断書が無いと対応できない、と言われたり」とつぶやいてはりました。
なるほどな、と思います。ある意味「診断書があれば対応します」なら、昔よりはましなのかもしれませんが。(昔は診断書があってもまともな対応は無かった)
ずれてる発言かもしれませんが、直感的に私はこう返しました。
「『排除するための知識』と『一緒に生きるための知識』じゃないでしょうか。」
「排除するための知識」というのは言い過ぎかもしれません。でもレッテルを貼り、異物だとして排除する・・・(異物だ、という認識はいいんです。そう異物です。同じじゃありません。で、じゃあ、どうするんだ、というところの考え方ですね)
違ったものが同じ時代を生きていく(必ずしも「一緒の部屋」とかでなくてもいい。時に「一緒の部屋」でもいいし)
また教師はもともと「診断書」なんか無いところで、どうやったら通常クラスが、特別支援学級が、特別支援学校の各クラスがうまく運営できるか、考えてきたもんです。で、「診断書」は無くても「知識」は役に立つ、そんなもんなんだけどな。
昨日の葬儀の話題に関して、後でハルヤンネさんがエントリを書いてはりますが。
仲間外れにしない
ほんまやな、と思います。いや、もちろん「本人が『嫌だ』『別のところで過ごす』を選ぶならそれもよしですけどね。
で、ものすごーーく話が飛びますが、下の写真。

感動!広場でお祈り中のイスラム教徒を手をつないでキリスト教徒が守る写真より(だけど、この写真はすごくたくさんのところに出まわっている)
本当のところはどうなのか、よくわかりませんが、先日のエジプトのデモの場面、お祈りをするイスラム教徒をキリスト教徒が手をつないで守っている場面だそうです。
こんなのも「一緒に生きる」だよなあ。