※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年02月22日

つながりの作法 同じでもなく違うでもなく 綾屋紗月 熊谷晋一郎著



 図書館で借りて来ました。


 ものすごくいい本です。でも、わかる人にはスコンとわかる、わからない人には全然わからない、という本かもしれません。


 綾屋さんはアスペルガー症候群当事者。綾屋さんのブログ。


 熊谷さんは脳性マヒ当事者。熊谷さんの動画。


 綾屋さんは東京大学先端科学技術研究センター研究支援員であり、熊谷さんは小児科医。だから「また成功したごく少数例の話か」と思われたら、それは残念です。


第一章 つながらない身体のさみしさ(綾屋紗月)


「私は『アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)』という診断名を得ている。その定義は自閉症の『1.相互的社会関係能力の限界 2.コミュニケーション能力の限界 3.想像力の限界』という三つ組の特徴が見られることとされている。しかしこれはのちにも述べるが(第三章)、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。(中略)私の内側からの感覚でいえば、『どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ』という表現になる。」


「(kingstone的に言うと多くの情報を処理してうまくやっているのだけど)しばらくすると疲れて感覚の調整ができなくなり、それまで意味と共に理解できていたモノや空間は、遠近感や立体感を失って、ふたたび平面を眺めている感じになったり、ゆがんだ空間になったりしていく。文字は単なる模様に見え、色は強烈な鮮やかさをもって迫ってくるようになる。

(中略)

 情報は単なる痛い刺激としか感じられない。『聞こえているし見えているけれど、意味を失う』状態になっていくのである。」


 この感覚が押し寄せてくる感じ。多くの当事者の方が語られているし、私自身は自閉症スペクトラムの診断はおりないだろうけど、何か「わかるなあ」という気がします。あと、よくお邪魔するカリノ トウコさんのブログを読んでいて、どこのエントリと言われたら困るのだけど、文や写真から感じることにも似ています。(注・カリノさんご自身は、あまり「困った」みたいなことは書いておられないのだけど)


 ご両親から発声を訓練(?)され、「正しい発声」を9歳くらいで身につけた自覚があるそうです。しかし応用が効かない。その調整がむつかしいため


「いっそ声帯を焼き切って、このまままったく声が出なくなってしまえばいいとすら、何度も思ってきた。」


「不確実な世界に生き、すぐに自分がほどけてしまう苦しみを抱えた私が、それでも何とか自分を見失わずにこられた理由のひとつに、ワープロやパソコンといった、キーボード操作による文字言語の存在があるだろう。10歳前後でキーボード操作を覚えたことは大きな助けとなったように思う。私は『わたし』と対話したい時にワープロを親から借りて、ひたすら打ち続けた。

 音声言語で話そうとすると、自分の声であっても意味がとりにくい上にすぐ消えてしまうが、文字言語だと明確な意味が消えずに残る。また私にとって『文字を紙に書く』という運動も、発声運動と同様に、調整でかかりきりになってしまってスピードが遅く、しかもできあがった文字が不揃いで意味がとりにくいものになってしまう。だがワープロやパソコンならば、指先の運動が規則的かつ限定的な上に、ディスプレイには形の整った読みやすい文字が並び、スムーズに意味がとれる。

 このようなツールを用いて、文章を読み返しては組立て直すことを繰り返し、自分で読んでも意味が通る文章ができた時に、初めて『私ができた!』という快感と解放感と満足感が得られた。視覚的かつ限定的なフィードバックを返してくれるキーボード操作の運動調整は、私にとって無理がなかったため、動きはすぐに自動化された。ほどなくブラインド・タッチもできるようになり、私は頭のなかで話す言葉のテンポと同じ速さでキーボードを打つようになった。『わたし』を立ち上げるためには、キーボードとディスプレイが不可欠となり、『私の思考はキーボード操作をする指先とのみ直結している』と感じるまでになった。」


 こうなんやなあ。よく「昔は良かった」「(利用してはいても)パソコンなんてない自然な生活が一番なのだ」みたいな論をおっしゃる人がいて、その人の実感としてはそうなのだろうけれど、世の中にはこういう人もいる、ということには想像を働かせる必要があると思います。


第二章 つながりすぎる身体の苦しみ(熊谷晋一郎)


 熊谷さんは脳性まひ。小さい時から「訓練」をされてきたことが書かれています。


「私がリハビリを受け始めた1970年代後半は、脳性まひを早期に発見し、一所懸命訓練すれば脳性まひは治ると信じられていた時代だった。また、団塊世代の両親は地方で典型的な核家族を営んでいたのだが、父親が外で働き、母親が家の中で家事と育児に専念するという分業がなされていたことが、母親の育児エネルギーをすべてリハビリに注ぐことを可能にしていた。

 当時の私と母親は、あまりにも密接につながっているために、つながっていることにすら気づかなかった。(中略)

 母親は私の欲求が立ちあがるや否や、すぐに何らかのケアをしてくれていた。そのケアによって、欲求は素早く解消された。もちろんすぐにケアできない場合もあるので、逆に親のケアのタイミングに自分の欲求の発生のタイミングを合わせていたという面もある。(中略)いま感じている欲求や運動が、ほかならぬ自分のものなのか、それとも母親のものなのかについても曖昧であった。」


「そんな密室的な母と子の関係のなかで、二つの幻想が膨れ上がっていったと思う。ひとつは『健常者幻想』、もうひとつは『厳しい社会幻想』だ。」


「『健常者幻想』というのは、『脳性まひはいつかは治り、健常者になる』という目標を掲げれば掲げるほど、そこで目指されている健常者というイメージが、人々の平均値というよりはむしろ、パーフェクトな、一部の隙もない超人のイメージに高まっていく現象に対して私が名づけた言葉だ。」


「『厳しい社会幻想』は、母と子の密室の外側にある社会や世界というものに対して、『生き抜くのが厳しい場所である』と過剰に恐れる態度が膨れあがっていく現象に対する私の造語だ。その結果、母親が子供のことを囲い込むようになってしまい、『今はまだ早い、健常者になってから外に出なさい』という構えが定着することになる。」


 めっちゃ、ようわかるなあ。


「これら二つの幻想は、生きていく上でのもっとも基底的な二つの『信頼』を損なう。『健常者幻想』は、『いまだ至らない、不完全な私の身体』というイメージを突きつけ続けることで、自己身体についての信頼、つまり自信のようなものを奪い続けるし、『厳しい社会幻想』は、『無理解で無慈悲な恐ろしい世界』というイメージを突きつけ、『なんとかなるさ』という世界への信頼を損なっていく。」


「私は、主に母親から、日常生活の一挙手一投足を監視され続け、健常な運動のイメージから外れると厳しく修正された。また、座位や膝立ち、片膝立ち、立位などの健常な姿勢パターンをなぞらせる訓練を、一回一時間半、一日に三回程度行っていた。」


 うむむむ・・・それって動作法じゃないのか・・・とにかくお母さんを指導していた「専門家」がいたはずだよなあ・・・私が学んだのは1980年代後半からだったけど、勘違いしている専門家はたくさんいたような気はする。例えば




 もちろん、専門家のみなさん「熱心」で「愛情豊か」なことには間違いなかったのですけれどね。でもそれで免罪されるもんでも無い。


「私の体は緊張を強め、かえってイメージから外れた運動を繰り出してしまう。(中略)そして『自分を監視する自分、を監視する自分、を監視する・・・』というぐるぐるとした無限回路が、私のなかに重く沈殿し、膨れあがっていくのである。」


「そんなある日、いつもの厳しい訓練中に母が私をねじ伏せている現場を、偶然に通りかかった祖母が目撃した。母のすごい形相を見て、祖母は泣きながら母を諌めようとした。

『あんたの手はなあ・・・、堅すぎるんじゃ。竹細工でもなあ、乱暴にやりゃあぽきんと折れるじゃろう。ゆるりゆるりと、しなる竹をやさしゅうに曲げにゃあいかん』

 今は亡き祖母のこの言葉を思い出して口にするたびに、母はうっすら涙ぐむ。そう密室で膨れあがった健常者イメージにそわせるように、私の体に介入してくる母の手は、堅かった。切る感じ、押す感じ、はじく感じのする手だった。それは私の体から発せられる情報を拾ってくれる手ではなかった。健常な動き、というイメージから流れ出してくる情報やエネルギーのようなものは、母の手を伝って私の体に流れてくる。そこには、『目標イメージ→母の手→私の体』という一方通行の情報の流れがあって、下流にある私の体は今にも折れそうになっていた。」


 これは、単に「お母さんが下手くそだった」という話では無いと思います。


「しかし、これは最近になって母から聞いたことなのだが、『そんなに厳しくしなくてもいいじゃない』という周囲のセリフと、『あなたがこの子をなんとかしなさい』という周囲の暗黙のメッセージの間で、当時、母自身もくじけそうになっていたらしい。そして、くじけそうになるたびに、『自分が折れてしまったら、この子は誰からも見捨てられてしまう。どうか神様、私が折れないように見守っていてください』と、祈り続ける日々だったという。だからあの日の母は、諌める祖母の言葉に一瞬ひるみながらも、それを振り払って訓練を続けたのだ。

 そういう意味では、母が唯一の加害者というわけではない。『健常な動き』『子供のために尽くす母』という規範的なイメージこそが、最上流に位置する加害者なのだ」


「母親と私がつながりすぎていたということに気づいたのは、18歳のときに母親と離れて一人暮らしを始めた後だった。

 私の一人暮らしは当初から何らかのビジョンがあった上で始めたわけではまったくない。ぼんやりと、ひとりアパートの床に寝転がっている状態から、ゆるゆると始まったのである。そのように寝転がっていると、そのうち徐々に、自分の身体の中にいろいろな欲求が湧き起こってきた。たとえば、「ご飯を食べたい」とか、「トイレに行きたい」

とか、「布団の上で寝たい」とか、「シャワーを浴びたい」といった欲求である。

 私は一人暮らしをして初めて、自分のなかでひとりでに湧き起こる欲求というものと、まじまじと対峙したように思う。」


「1人暮らしを始めて、最も強く私を突き動かした欲求は、排泄欲求だった。排泄欲求に突き動かされながら、おもむろに、無策の状態でトイレまで這っていく。トイレまでたどり着いて下から便器を見あげる。そして、じっと見てみる。便器に手をかけることで、「けっこう便座は冷たいんだなあ」「けっこう便器ってぐらつくもんなんだなあ」といった情報が入ってくる。次に立ちあがろうとすると、床が滑りやすくて転ぶ。そういう試行錯誤のなかで、「この角度から見たトイレはこんな感じです」「便座のぐらつき具合はこれぐらいです」「床の摩擦はこんなもんです」という、トイレに関するいろんな情報が入ってくる。それと同時に自分の体の情報も入ってくる。いろいろと体の動かし方を試してみるうちに、「案外、この筋肉って動くんだ」「意外とこの筋肉は動かないんだ」といった情報もたくさん入ってくることになる。」


 自分で意識してやってみて初めてわかる、ってこと多いと思います。で熊谷さんは自立生活を始めて介助者を頼むようになるわけですが、


「もうひとつ、介助関係には特有の困難がある。よく介助者は「どのように介助したらいいか教えてください」と聞いてくる。自己流を押しつけずに、どのような介助をしたらよいかを被介助者に尋ねる態度は重要なので、このように聞くことは正しいことだ。ところが当然のことながら、私自身は被介助者にはなったことがあっても、介助者の立場になったことはない。だから私は介助行為を体験したことがないにもかかわらず、介助における運動を指示する立場に置かれることになる。

 他人に介助してもらう経験が浅かったころ、私はまだ指示をうまく出せずにいた。しかしその後、素人を含めた数多くの介助者との関係のなかで、介助者のさまざまな身体運動をよく見て、自らも介助行為を追体験してきた。それと同時に、介助される側として、快や不快を感じてもきた。そうした経験を重ねるうちに、「介助者の動き」とそれに伴う「快・不快」の両者を比較することで「この介助の仕方は○、でもこれは×」という対応づけを完成させることになった。

 これらは一人暮らし以前の母親との密室的な介助関係にはなかったことで、不特定多数の介助者へと開かれた一人暮らしにおける介助関係ならではの現象と言えるだろう。皮肉なことに、密室のリハビリで幻想的な健常者の運動イメージをなぞろうとしていた時よりも、一人暮らしで不特定多数の健常な介助者の身体とじかに交渉するようになってからのほうが、健常な動きのイメージがよくわかるようになった。

 このようにして、密室から一歩を踏み出した私は、世界とつながっていった。また、そのことと並行して、私は「あるべき姿」に沿うよう自分自身を監視するような態度から、周囲を信頼して身をゆだねていく態度へと変わっていったように思う。これまで述べてきたように、痙直型脳性まひというのは、身体の各部位が過剰につながりやすい体である。そしてその過剰な身体内のつながりによって、逆に外界とのつながりは損なわれる。しかし、私のなかに生まれたこの、監視からゆだねへの態度の変化は、私の身体にある過剰な緊張をゆるめ、世界としなやかにつながる「あそび」を私の体に与えたのである。」


 ものすごく重要な指摘だと思います。


「しかし、そもそもこの緊張、言いかえると身体内の『つながり』というのは、まったく不必要なものというわけではもちろんない。あくまでも程度問題である。」


 ここんとこは、すっと読みそうですけど、よく考えるとわかりません。「緊張」が大切なのはわかります。まったく無いというのは「死んだ」状態ですから。体を支えるというのには「緊張」が必要です。「枠組み」と言ってもいい。また「骨と筋肉(もちろん神経やその他その他)」の「つながり」と言うならわかります。しかし綾屋さんの提起された「つながり」とは、私の頭の中では一致しないなあ。


 ここから熊谷さんはあれこれ考察されておられますが、熊谷さんのこれまで述べられた「体験したこと」「感じたこと」はものすごくよくわかるのに「そこから考えたこと」というのは、私にはよくわからなくなってきます。


 まあ、まだ「生」で「枯れてない」感じかな?


 この感じは例えばドナ・ウィリアムスさんやテンプル・グランディンさんの体験してきたことの話はもうめちゃめちゃよくわかり興味深いけれども、ドナさんで言えば「だからドナさんの飲んでるサプリを飲めばいいよ」というのとはまた別の話だなあ、みたいなところと近いかな。


第三章 仲間とのつながりとしがらみ(綾屋紗月)


「私は人と世界を共有できないことや、人とタイミングのズレが生じることを繰り返すことで、「自分の感じていることは本当にあるのか」「自分の運動の仕方は他の人と違うのだろうか」という不安をいつも抱えていた。言葉にならないもやもやしたわからなさを訴えると、教師の多くは「そんなのあなたのせいでしょ」とあきれたように笑いながら私をしりぞけた。はじき出される経験が続くことで、「そうか、私が全部悪いのか」と思ってのみこむしかなくなっていく。自分の身体について、世界との関係について、人との関係について、わからないことは毎日たくさん起こるのだが、そのわからない不確実性を意味づけするために持ち合わせているパターンは「自分のせい」しかない状態となっていった。」


 「自分が悪い」と思い続けること、ごっついおつらかったやろな、と思います。ここで綾屋さんはマイノリティの考え方の変化を第一世代、第二世代、第三世代に分けて考えます。


「第一世代ー過剰適応する時期

 このように「実は自分がマイノリティである」ということを知らないまま、社会のなかで端っこに追いやられている時期を「第一世代」と呼ぼう。端にいる人々は、社会の「常識のど真ん中」にいられるような人々を眺めては、「どうも私は、中心にいるあの人とは違うなあ」と思いながら生きている。そのお手本のような理想的人物は、「大変なのはみんな同じだから、つらいのはあなただけじゃないよ! 一緒に頑張ろう!」と、さも対等であるかのような言い方をしがちだ。しかしそれを言われた端っこの人は適応しようと頑張り続け、すでに壊れかけているのである。」


「たとえば私の場合は、多くの人が注目するよりも細かくたくさんのものに注目していたために、注意を向ける対象を共有しいくかったと考えられる。また、車いすユーザーにとっては高さ三センチの段差は無視できないものだが、多くの歩ける人にとっては意識にものぼらないだろう。」


「個々の違いを「大したことないもの」として過小評価し、ただ一方的に多数派の感じ方や行動の仕方を押しつけてくることは「同化的圧力」と呼ばれているが、第一世代にいるマイノリティは、この同化的圧力を正当なものだと信じ、「責められるべきは自分である」という考えのまま、自らにムチ打ち、同化的に過剰適応しようとしてしまうのである。」


「臨床心理学の教科書を読みあさってみても、体を壊した後の症状であればどれもこれも当てはまるが、小さい頃からの違和感に間しては当てはまる項目がない。まだ精神科の敷居が高い時代だったが、いつまでも治らないおかしさを診断してもらうためにいよいよ覚悟を決め、大学生の時には思い切って親戚のつてを頼り、東京から二時間かけて栃木の精神病院に行って受診した。待合室でさらに二時間待たされた挙句、たった五分の問診で「あなたは大丈夫ですよ!・ 頑張って!・」と握手で返され、釈然としない思いを抱えたまま東京へ帰る。」


 ためいき・・・こういう時代はありましたね。この後、綾屋さんは日本の当事者の書いた本を読み「発見」した、っと嬉しくなります。


「早く私にその名をください!………私は久しぶりに再会した学生時代の知り合いである熊谷を頼って、診断を受けることになった。」



「数ヵ月後、無事に診断名をもらい、私にはとうとう「アスペルガー症候群」という名前がついた。

 待ち望んだものが手に入った時、自分はどんなふうに変わるのだろうとわくわくしていたのだが、意外にも「わ〜い! うれし〜♪」と飛び跳ねるような興奮した感情は起こらず、「やっとスタートラインに立てた」という静かでおごそかな気持ちがおとずれた。

 また、帰りの電車の中では、私から離れていた2歳、4歳……16歳、23歳、の私が、一体ずつ私のところへスーッと集まってきて私の体の中に吸い込まれていくような感覚になった。「自分の存在」や「周りで起きていること」に意味づけができず、その時その時で断片化した記憶となってしまっていた「過去の私」が、一つの時間軸の上に並ぶようにして「現在の私」に続合されていく感じだ。電車を降りてからは「そのひとつひとつの過去の私をすべて許していいんだ」と感じた。そしたら感動して少し泣きそうになった。」


「診断名がついたあとの私がまず欲したのは、同じカテゴリーの当事者に会うことだった。」


 生身の当事者の人たちから「苦労の共有」「役立つ情報」を聞けることでおおいにこころ強く思われます。


「第二世代ー仲間と出会い連帯する時期

 こうして、「社会の端っこに追いやられて居場所がないなあ」と感じていた潜在的なマイノリティが、同質の仲間で作られた小さなコミュニティを発見する時期のことを「第二世代」としよう。これは、仲間から「あなたの苦しみはわかるよ」と承認されることで、「私だけじゃなかったんだ」「この苦しみには名前があったんだ」とこれまでの孤独から解放され、自分がマイノリティであることを自覚できる時期でもある。」


 ところが


「たとえば、「お前は私たちと同じ、本物のマイノリティなのか」とコミュニティにいる資格を問われるようなまなざしを向けられる息苦しさ。コミュニティによって共有され、テンプレート化(定型化)された「本物らしさ」、つまり、いかにもそれらしい特徴を持った人物として同化的に振る舞うことをしなければ、コミュニティから排除されかねないという圧力を感じることがある。また「無理解な社会に対して戦うぞ!」という姿勢を求められる息苦しさ。せっかく多数派による同化的圧力から隔離されたのに、今度はコミュニティ内における同化的圧力を受けるはめになってしまう。逆に、コミュ子アィメンバーを結びつけているはずの同質性をしりぞけ、それぞれの持つ差異をつかまえて、「とはいえ、あなたは○○だからいいよね」と言い合う排除的圧力の息苦しさもある。収入の多少、学歴の高低、職業的ステイタスの上下、結婚経験や子どもの有無……ありとあらゆる多様性を口実に、次々に分断線を引き続けることも生じやすい01である。

 こういった、コミュニティ内で生じる同化的・排除的圧力の息苦しさによって、やがてコミュニティ自体が包み込む力を失い、細かい内部分裂の結果、ふたたび「誰ともつながらない個」になってしまうという状況が生じる傾向がある。これを「コミュニティを卒業し、個人として自立したのだ」と言えば聞こえがいいが、それは同時に、ふたたび多数派による権力に絡みとられ、いいように操作されやすい「分断された個」を生むということでもある。それは望ましいこととは言えないのではないだろうか。」


 これ、よくわかるなあ。例えばカナータイプの人と高機能自閉症(アスペルガー症候群)の人の保護者に起きる分断。自閉症の人と他の知的障害の人の保護者に起きる分断。あと本書内でも言及されているけど、フェミニストの人の間の分断。って、私も無自覚に何かの分断の中にいるか・・・


「そもそも「アスペルガー症候群」の名づけの定義である自閉症の三つ組の特徴、す

なわち「1.相互的社会関係能力の限界 2.コミュニケーション能力の限界 3.想像力の限界」という専門家の言説はいかがなものか。なぜこの障害の定義は、外から見た判断を基準としているのか。「相互的社会関係能力」や「コミュニケーション」は二者の間に生じるものなのに、なぜその限界を一方のせいにできるのか。いったい「誰が」困って、これを障害と定義したのか。

 外側からはコミュニケーション障害に見えても、こちらにはこちらの理由があり、内側から見た世界というものがある。外から貼られたレッテルと、内部の自分が感じていることとのズレに対する不満も湧きあがり始め、私は何らかのかたちで異議申し立てのようなことがしたいと思うようになった。

 私は当事者のグループに、このような問題意識を投げかけた。しかし「そこまでする気はない」「今の生活を維持したい」と、仲間の反応ははかばかしくなかった。

 今思えば、きっとこの時の私は、日常を壊し、戦いにかりだすような提案をする厄介な人物に見えたであろう。」


「ようやく見つけた居場所だと思ったのに、なんだかやっぱりここは居場所じやないのかもしれない。もう最後にしたいと思っていたのに、私はまた新しいカテゴリー探しに出かけなければいけないのか。それはとても不毛なことに思われた。おそらく次に新しいカテゴリーによる仲間を見つけたと思っても、同じことが繰り返されるだろう。」


「第三世代ー多様性を認めながら連帯する時期

 以上のような話は珍しいことではない。よくあるマイノリティの一連の体験を、私もまた同じようになぞって経験したのである。マイノリティの多くが抱える「同質な仲問による密室的な息苦しさからも解放されたいし、分断された誰ともつながらない個にも戻りたくない」という行き詰まり。ここで私たちは、同じでもなく連うでもなく、お互いの多様性を認めた上で、仲間としてつながり続ける道を模索することになる。この時期を「第三世代」と名づけよう。」


第四章 当事者研究の可能性(綾屋紗月・熊谷晋一郎)


「では、この絶えざる差異化の実践を、常態的にコミュニティ内部に導入するための方法論とはどのようなものだろうか。本書では、その具体的な実践として、絶えず語りが更新される「当事者研究」という方法が有効なのではないか、という提案をしたいと思っている。」



「当事者研究は「浦河べてるの家」で生まれた。それ以前から、障害学、患者学、向老学、女性学が同様な実践を展開してきたが、当事者研究という用語を自覚的に使ったのは、ここが最初である。「浦河べてるの家」とは、北海道浦河町にある精神障害をかかえた当事者の地域活動拠点(1984年設立)で、多機能型の就労・生活サポートセンター、共同住居とグループホームを運営する社会福祉法人「浦河べてるの家」と、有限会社「福祉ショップベてる」などの活動の総体である。そのさまざまな実践は哲学、社会学など幅広い領域の研究者の注目を集めている。

 そのべてるの家で生まれた「当事者研究」は、自分の身の処し方を専門家や家族に預けるのではなく、仲間の力を借りながら、自分のことを自分白身がよりよく知るための研究をしていこうという実践であり、現在ではいろいろな問題や障害を抱える当事者団体、自助グループ、社会運動団体などにも広まっている。」




「そんな綾屋がこぼす愚痴話を、嫌がるどころかたいそう興味を持ち、よい聞き手となったのが、学生時代の知り合いで七年ぶりに再会した熊谷だった。

 ファミレスや喫茶店でノートを広げながら、綾屋が自分の内側の世界を説明すると、熊谷は「それは面白いね」「そこのところをもっと詳しく聞きたい」「その表現だとわかりにくいんだけど、別の言葉で言うとどうなる?」と、前のめりになって質問をした。その姿に、かつて学生時代の熊谷が、自身の持つ脳性まひという「見えやすい障害」とは対照的な「見えにくい障害」について興味を持ち、熱心に聴覚障害について調べていた様子が重なる。

 綾屋にとって、自分の感覚を否定せずに聞いてもらえるという初めての体験は、わくわくしてとても気分のいいものだった。小さな語りや分析を毎回ノートに記録していき、ある程度たまった頃に見直してみると、「この体験とこの体験は実は同じ原因から始まっているのではないか」「これら五つの体験は、実は連続した変化なのではないか」という整理がつくようになってくる。こうして綾屋は、自分のなかにある闇雲でバラバラな経験の記憶に意味や見通しがつくようになった。

 自分のなかで「こんなことは自分だけに起きているんだろうか」「これは変なんじゃないだろうか」と、存在しているのかどうかすら判断できなかった事象が、「それが他の人にも起きるかどうかはともかく、あなたのなかには確かにあるものだ」とその存在を認められて、他者と共有される言葉となる。問われることで語りが生まれ、語ることでこれまで存在しなかった自分の輪郭が決まってくる。その結果、綾里には少しずつ「自分が確かにいる」という感覚や、「自分は自分にとって大事だと思える存在だ」という感覚が自分のなかに育ってくるように思われた。」


 この「あなたのなかには確かにあるものだ」という感覚・態度、めちゃ大事やと思います。


「半年たった頃、熊谷の恩師に偶然再会したふたりは、いま取り組んでいる作業について話した。すると「『べてるの家の「当事者研究」』という本をご存知ですか。先行研究として読んだらいい」と薦められた。」


 ほお、「先行研究」なるほど、こう呼んでもいいのか。「研究」というと何か違うような気がしますが、まさに「先行」してある、う〜〜ん「事例」というのも変か。とにかく「先にあった参考にすべきもの」やなあ。


「『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院、二〇〇五年)を読んで初めに綾屋が感じたのは「仲間がいるんだ」というものだった。人に理解されない病気の苦労を長年抱えてきた仲間。専門家による描写や言説をいったん脇に置き、他者にわかるように自分の体験を内側から語る作業を続けている仲間。」


「「構成的体制」と「個人の日常実践」の相互循環」


 「構成的体制」というのは、文化人類学者の大村敬一の言葉。「所属するコミュニティの言語、社会制度、信念や価値観」とのこと。まあ、今、そして過去の常識みたいなもんか。で、それから外れりゃいいってもんでもない。身体や外界に適度な秩序がある。また体験を語る言葉や物語を構成的体制が与えてくれることが条件ではないかと、述べてはります。確かにあんまりぶっ飛びすぎたら周囲に理解されなくなるもんな。


「わたしが立ちあがる条件」(条件と言うより状態やな)として3つ上げてはります。


「すいすいモード」歯を磨きながらも別のことを考える、といったようなこと。うまくいっている状態。


「あたふたモード」外界からの様々な感覚が処理しきれず運動がばらばらになり、うまくいかなくなる状態。


「ぐるぐるモード」外界から遮断され、思考も堂々巡りしているような状態。


「「痛み」や「欲求」のような自己身体の状態というものも、それを表現する言葉を周囲に拾われて初めて自己認識でき、身体に秩序が与えられる。しかし、それまでの人生で、身体のどこかを「痛い」と感じて周りの大人に話しても、相手にされなかったり、逆に落ち度を責められたりした彼らの多くは、痛みがあっても感じないようにしてきた。ずっと我慢してきたので、どのくらいの痛みなら「痛い」と言っていいのかさえわからない。外界が無秩序であった結果、身体も二次的に秩序を失ってしまうのだ。

 こうして不確実性の高い身体や世界を持ったマイノリティは、身体や世界に秩序を与える構成的体制を築けぬまま、「すいすいモード」を飛び越えて、「あたふたモードと

「ぐるぐるモード」をシーソーのように行ったり来たりすることになる。」


 この部分は自閉症の人に「痛み」や「気持ち悪さ」を訴えて欲しいのに、なかなか表現することが難しい、ということを想起させます。まあ、本当のところはどうなのかよくわかんないですが、でも直感としてはそう思うなあ。


「向谷地が整理した当事者研究の具体的な手順は、おおよそ以下のようになる。

1.〈問題〉と人との切り離し作業を行うことで、「〈問題を抱える自分〉を離れた場所から眺める自分」という二重性を確保する。

2.仲間と共に、自分の苦労の特徴を語り合うなかで、医学的な病名ではなく、自分の苦労の内実を反映した自己病名をつけていく。

3.苦労の規則性や反復の構造を明らかにし、起きている〈問題〉の「可能性」や「意昧」を共有する。

4.自分の助け方や守り方の具体的な方法を考え、場面を作って練習する。

5.結果の検証と研究成果のデータベース化


 日常実践のなかで問題を抱えた個人が、そんな自分の苦労を客観視しながら仲間に語り(1)、仲間と共にその苦労が発生する規則性についての仮説を考え( 2.3)、対処法を実験的に探りながら検証していく(4)。そして、その研究結果は、コミュニティが共有するデータベースに登録される(5)。当事者研究のプロセスを要約すれば、このようになるだろう。」


「そしてこの「構成的体制と日常実践の相互循環」の重要性を前提とした時、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミユニテイのなかに持ち込むことの意義が見えてくる。」


 う〜ん「研究」という言葉にはほんま違和感がありますが一人一人を大切にして「わかるよう語る」「知恵を集める」みたいな感じかなあ。


「一次データの収集。

「研究の論理」を持ち込むことの一つ目の意義は多様性の承認である。」


「あらゆる研究がそうであるように、当事研究においてもいちばん初めに行われることは、「一次データ」の収集である。「当事者研究」というからには、個々の当事者が日常実践のなかで得た身体感覚や苦労のエピソードなど、多種多様な一次データが必要となる。ゆえに「研究の論理」では、そういった多様なデータの積み重ねこそが、結果的に「知の信頼性」を保障するものとなるため、多様性は排除されるどころか、むしろ望ましいものとみなされ、興味深く、慎重に、取り扱われることになるのである。」


「「研究の論理」を持ち込むことの二つ目の意義は、仲間と共に構成的体制を立ち上げ、共有することである。」


「当事者研究は、「自分のことを自分はよく知らない」という前提から始まる。とはいえ、「自分の体験世界」にもっともよくアクセスできるのはほかならぬ自分であるから、当事者体験の一次データについては、当事者がいちばんよく知っていると言える。では、ここで「知らない」と言い切ったのは何についてなのか。それは、研究の手順として「一次データの収集」の次にやってくる「解釈」についてである。

 障害者運動などの「運動の論理」において立てられたスローガンは、「私のことは、私がいちばんよく知っている」「私のことは私が決める(自己決定)」というものだ。ここでいう「知」は、自分の「一次データ」も、それがどういう意味を持つかという「解釈」も、さらにその上でどんな「ニーズ(助けてほしいこと・要求)」があるかということまでも、自分がいちばんよくわかっている、とするものである。

 しかし自分や世界について語る言葉をいまだ持たない人々は、自分の体験に反復する構造や規則性、意味を見出せず、不確実性のなかで立ちすくむところに置かれており、それを何とかしたいというところを出発点としている。よって体験の一次データを列挙した後に、それに対して何らかの解釈や意味づけを与えられることも必要となってくる。

 解釈とは、体験する事象を「原因ー結果」という機械論的因果系列や、「目的ー手段」という目的論的系列に当てはめて並べるという作業だと言える。一般的にこのような解釈を可能にするのが、コミュニティが共有する構成的体制だが、当事者研究は、この構成的体制が不在の状態から手さぐりで解釈をするところから始まる。」


 う〜〜ん、よくわからず、知ったかぶりで書くのですが、現象学ってのはどうなるんだろう。別に「因果関係」や「目的・手段」に関わらず、ただ記述していく、というようなもんだと思っていたのですが。


「このように、「研究の論理」のもとでは、体験の一次データについては本人がいちばんよく知っていても、その解釈については本人がいちばんよく知っているとは限らないとみなされる。そこで共に解釈作業に取り組んでくれる仲間の存在が必要になる。この仲間との解釈作業を繰り返すうちに徐々に構成的体制が立ちあがってくるのである。」


「もちろん、誰と一緒に当事者研究を行うかによって、グループ内で反復される体験パターンや、それへの名づけの仕方や解釈は異なるため、絶対的∴意的な解釈があるというわけではない。グループごとに、受け継がれてきた構成的体制は異なるので、解釈に正解はないのだ。ただ、近しい身体的条件や境遇に置かれた人たちからなる第二世代の仲間と共に当事者研究を行うほうが、専門家と一緒に行うよりも、普遍的なパターンの発見につながりやすいということも多い。さらに言うと、専門家と当事者研究に取り組む場合は、「一次データを提供する当事者」と「構成的体制を占有し、解釈を下す専門家」という、「一次データの提供」と「その解釈」という非対称な交換行為が成立しやすい。しかし、当事者同士が取り組む当事者研究では、一次データを仲問に贈与するのも、構成的体制を共有し解釈を与えるのも、どちらも当事者となる。


 ただし、当事者同士で行えばうまくいくというわけではない。当事者内部でも、解釈や状況定義を独占するメンバーーと、一方的に解釈されるだけのメンバーという、「専門家門ー当事者関係」を写し取ったような権力関係が生まれ得ることは、容易に想像がつく。そうなってくると、一次データの語りが既存の構成的体制に合うように捻じ曲げられたり、無視されたりという「データのねつ造」が行われることになり、第二世代の問題点を克服できなくなってしまう。

 こういったことが起きないように、当事者研究には一定の作法が必要になるだろう。それは、


1.抑圧されずに一次データを語れる場の制度的確保

2.特定のメンバーが占有できない存在として構成的体制を位置づける工夫


の二つである。これらは当事者研究に限らず、およそあらゆる研究領域に求められる倫理的態度とも言えるだろう。次章では、それらを具体化する方法と、それがいかにして「つながりの作法」になり得るかについて考察する。」


第五章 つながりの作法(綾屋紗月・熊谷晋一郎)


「本章前半では、この二点を実現するための具体的な方法について、当事者研究の先駆けである「べてるの家」や、「ダルク女性ハウス」での実践をもとに考えていく。そして後半では、このようにして行われる当事者研究の実践が、どのように「違いを認めた上でのつながりをもたらす作法」になり得るかについて述べる。

 綾屋も熊谷も、「べてるの家」や「ダルク女性ハウス」の実践の全体像を把握しているわけではない。それぞれ、ほんの少しのあいだ見学、参加をしただけである。だから、本書での「べてるの家」や「ダルク女性ハウス」の実践の記述は、そこでの実践のほんの一部を断片的に垣間見たものに過ぎない。

 このことは、私たちが自説にとって都合のいい部分だけをかいつまんで紹介してしまうという、領有・収奪の危うさを伴っている。実際、「ダルク女性ハウス」代表の上岡陽江は常々、ダルクの実践のうち理解しやすい一部のみを取り上げて紹介、分析する専門家たちに対し、「ひとつの施設、ひとつの療法が優れているということはない。回復のときに大切なのは、その人を取り巻くさまざまな支援のネットワークや組み合わせが、全体としてうまくいっているかどうかである」と訴えている。だから、この章で記述される内容は、「べてるの家」や「ダルク女性ハウス」の姿をありのままに写し取ったものでは決してなく、その姿の一部に触発されて、綾屋や熊谷の心のなかに湧き起こった、主観的な印象や思考にすぎないということを、あらかじめ述べておきたい。」


 そらそうや。でもって、それを「あかん」と言われたら、誰も何も言えなくなってしまう(笑)特に私なんか。


「ダルク女性ハウス」についての参加者の態度として


「言いぱっなし、聞きっぱなし」


 これは「アルコホリック・アノニマス」(アルコール依存症の方の当事者会)なんかでも同じですね。カウンセリングのエンカウンターグループだと、応答の仕方を学んだりするけど、なかなか難しいので、もう「言いぱっなし、聞きっぱなし」というルールにした方がより実用的、ということがあると思う。


 綾屋さんは、2回集会に参加し、1度目は「うまくいった」と思え、2回目は「うまくいかなかった」と思えたそう。


「「自分の心身の感覚」という一次データを言葉に翻訳しようと集中する時に邪魔になるのが、「間いている人はいったい私の発言についてどう思うだろう」という気持ちである。私たちはふだんのコミュニケーションの作法として、相手の立場になって考えることをルールとして求められ、あいづちや笑顔など、相手の話を聞いているというサインを作ることを求められている。それが双方向性という意味での文字どおりの「コミュニケーション」であり、それが場の空気を作りだし、空間を支配している。

 しかし、周りの人の顔色をうかがったり、場にふさわしいだろうかなどと、空気を読もうと探索することばかりに心的エネルギーをつぎ込んでしまうあまり、自分に偽りのない言葉を自分が話しているかどうかのモニターが、おろそかになってしまうこともしばしばだ。自分の言葉のアウトプットよりも、聞き手の情報をインプットすることに意識が向いてしまっているのである。その結果、自分の言おうとしていることから言葉がどんどん離れていってしまい、いつのまにやら、私は何を話していたんだろうというと

ころに持っていかれてしまう。外界にある他者からのフィードバックに意識が向きすぎると、発声の調整をしているときの綾屋のように、自由な思考をする「わたし」がほどけてしまうのだ。」


「一方、理想的な「言いっぱなし聞きっぱなし」空間が成立した際、語り手は自分の語りに対する他者の反応に気を払わずに済み、自分の語りが正確に自分の体験(一次データ)を表現しているかに集中できている。語り手は外界に意識を向けず、自分のなかにある体験の記憶だけに注目している。このときの綾屋は自分を外から眺めているとは感じず、自分の内側にいながら、内側の自分の記憶や感覚を探っていると感じていた。よって、自己と外界の境界線である「『私』の輪郭」は視界に見えていない。つまり客体としての「私」はその場におらず、「思い出し、感じ、語り、聞く」主体としての「わたし」のみになっている。この「わたしが話すのを聞く」とでもいうべき閉じた《知覚・運動ループ》は、ほとんど個に閉じこもった密室に近いが、声はその場の空気を振動させて他者へと届くため、公共性も併せ持っている。このようにして、安全な密室の中で「わたし」を立ちあげつつ、外界とも情報交換できる条件が整うのである。」


 この感覚はよくわかります。


「一次データがいちばん偉い

 上岡陽江の講演での発言によると、ダルクの中で共有されているルーールに、「新しい仲間がいちばん偉い」というものがあるという。」


「ミーティングのときに、参加して間もない仲間が、自分の感じている胸の奥の愧悴だとか、自分はダメな人間だみたいなことを言いたい。そのときに、どう表していいのかもわからなくて、言葉にならないのだけれども、すごく努力をして嘘なく言おうとしている。そのせめぎあいが五分ぐらいの話のなかに感じられるんです。それがみんなに伝わると、間いている側も話している側も身体があったかくなる。

                      (上岡陽江『その後の不自由』)」


「「個を超えた構成的体制の位置づけ

 次に、「 特定のメンバーが占有できない存在として構成的体制を位置づける工夫」について考えることにしよう。

 先に述べたように、構成的体制とは、コミュニティが共有する「言語、社会制度、信念や価値観の総体」である。それはメンバーの誰か一人がその全体を把握し、私有するものではなく、誰でもその一部を使ってよい「公共財」だと言えるだろう。ではまず、メンバーのひとりひとりが各々の当事者研究を進めていくなかで、この公共財を利用しつつ更新していく様子について整理しておこう。


「部分引用」と「データベース」を介したゆるいつながり

 ひとりで自分の語りを作ろうとする時に陥りがちな問題は、独りよがりで他者に通じない言葉になってしまうということだ。その結果、誰に話してみても理解されず、ついには「どうせ私のことなんか誰もわかってくれない」モードに陥る可能性もある。しかしそのような時には、他の誰でもない自分自身が、自分を語る言葉を持っていないという事態がしばしばある。言葉の意味は誰かと共有されて初めて生まれるものである以上、言葉を生み出す時に他者の存在は欠かせない。

 理想的な「言いっぱなし間きっぱなし」空間で、ひとりひとりの仲間のそれぞれが自分の感覚や経験を持ち寄って、誰にも抑圧されずに語る際、同時にその場にいる聞き手はそれぞれの語りをデータとして自らのなかに蓄積することになる。もっとも、いくら仲間だといっても、人の話を間いている時に、話していることが全部自分に当てはまる、ということは当然ながら滅多になく、その一部だけが当てはまるにすぎない。だから、語りのなかでも特に「我がことのように追体験された部分」が強烈に記憶に焼きつき、次に自分が語る時に、「よりよく私の体験を言い当てることができる言葉」として部分引用されることになる。この部分引用こそが、構成的体制が新しい仲間へと受け渡される瞬間である。それを繰り返すうちに、多くの仲間に賛同・引用された言葉が多用、共有されて「仲間全体の言葉」として残っていく。

 このように、ひとつの「個人の語り」がいったん部分へと断片化され、断片のうち引用回数の多いものが「仲間の語り」として、メンバーひとりひとりの記憶のなかに登録される。ダルク女性ハウスのあるメンバーが、「人の言葉が感染してくる」という表現をし、べてるの家でも「べてるがうつる」という言い方で指し示そうとしているのが、ここでいう部分引用という現象だと思われる。この部分引用を繰り返すうちに、だんだん「自分の言葉」ができあがっていくのである。上岡も、女性依存症者の回復の目安として「1.自分の言葉でしやべれるようになること」「2.自分の都合も優先できるようになること」「3.変化する自分の身体とつきあえるようになること」の三点を挙げた上で(『その後の不自由』)、自分の世界体験や身体体験に見通しと共有を与える「自分の言葉」が、回復にとって重要だと語っている。

 コミュニテイ内におけるこのようなやりとりにおいては、個々人が特定の誰かと深くつながっているというわけではない。あくまで、共通の語りのデータベースを媒介にして、部分的に、ゆるくつながっているだけだ。こうして、自分の語りを持つ主体でありながら、どこか語りのデータベースを媒介にして仲間とつながっているというかたちで、自由な「わたし」と、個を超えたつながりの両方を実現する場となることが理想的なのだと言えるだろう。」


 この「部分引用」のところ、TwitterのRT文化との類似性はどんなもんかなあ、と思いました。


 支配が起きないためにーアルコホリック・アノニマスの12の伝統




1. 優先されなければならないのは、全体の福利である;個人の回復はAAの一体性にかかっている。

2. 私たちのグループの目的のための最高の権威はただ一つ、グループの良心のなかに自分を表される、愛の神である。私たちのリーダーは奉仕を任されたしもべであって、支配はしない。

3. AAのメンバーになるために必要なことはただ一つ、飲酒を止めたいという願いだけである。

4. 各グループの主体性は、他のグループまたはAA全体に影響を及ぼす事柄を除いて、尊重されるべきである。

5. 各グループの本来の目的はただ一つ、いま苦しんでいるアルコホリックにメッセージを運ぶことである。

6. AAグループはどのような関連施設や外部の事業にも、その活動を支持したり、資金を提供したり、AAの名前を貸したりすべきではない。金銭や財産、名声によって、私たちがACAの本来の目的から外れてしまわないようにするためである。

7. すべてのAAグループは、外部からの寄付を辞退して、完全に自立すべきである。

8. アルコホリックス・アノニマスは、あくまでも職業化されずアマチュアでなければならない。ただ、サービスセンターのようなところでは、専従の職員を雇うことができる。

9. AAそのものは決して組織化されるべきではない。だがグループやメンバーに対して直接責任を担うサービス機関や委員会を設けることはできる。

10. アルコホリックス・アノニマスは、外部の問題に意見を持たない。したがって、AAの名前は決して公の論争では引き合いに出されない。

11. 私たちの広報活動は、宣伝よりもひきつける魅力に基づくものであり、活字、電波、映像の分野では、私たちはつねに個人名を伏せる必要がある。

12. 無名であることは、私たちの伝統全体の霊的な基礎である。それは各個人よりも原理を優先すべきことを、つねに私たちに思い起こさせるものである。


 う〜〜ん、なかなか厳しい伝統ですね。お金のこととか。いろいろあってこうなったんやろな。また「愛の神」「霊」とかの言葉について


「これまでも述べたように、構成的体制の「構成的」という言葉には、「個人の実践によって更新され得るという意味で、常に暫定的なもの」というニュアンスが含まれている。つまり、現時点でのわれわれの世界の解釈の仕方は、常に覆されるかもしれないという意味だ。一方で「信仰」という言葉は、文字どおり何かを「信じて疑わない」という意味で解釈すれば、変化を許さないものであるように感じられる。そうなると「構成的」という言葉と「信仰」という言葉は相反するもののように思われる。しかしそれは本当だろうか。

 すでに述べたとおり、体制を構成的に更新し続けるのは、体制に象られながらもそこから逸脱し続ける個人の日常実践であった。この日常実践において密室に閉じこもらず、外界に向けて自らを投げ出すように(知覚・運動ループ)を回すために、必要なものがある。それは「世界はおおよそこのようになっているだろう」という見通しを与えてくれる構成的体制への「根拠なき信仰」である。もし、世界に秩序を与えている構成的体制への信仰を失えば、たちどころに世界は無秩序なものへと変貌するため、人は恐れて立ちすくみ、外界に向けて身を投げ出すことなどできなくなるだろう。つまり、構成的体制の更新を可能にする「日常実践における絶え間ない外界への投げ出し」を陰で支えるものこそ、「構成的体制への信仰」であるとも言える。「信仰」と「更新」は、矛盾するものというよりは、相互に支え合うものなのだ。」


 まあ、難しいことはようわからんけど、要するに「神様が見守ってくれてるで」みたいなこっちゃろな。


「当事者研究によって打ち立てられた構成的体制は、個人の日常実践をとおして検証される。向谷地生良が「当事者の日常とはじつに数多くの『問い』に満ちた実験場」(『べてるの家の「当事者研究」』)であると述べるように、当事者研究における日常生活は、正解がすでにあって、間違えたり失敗したりすると裁かれる「試験の場」ではなく、仮説に従って動いてみて結果を解釈する「実験の場」になるのだ。試験ではないのだから、原理的に失敗などはなく、仮説と違う結果になったとしてもすべては研究に貢献する有益なデーータとなる。

 失敗がないのであれば、失敗を恐れて動けなくなるということは少なくなり、無策のまま仮説を立てて動きやすくなる。この実験的構えは、失敗を恐れて身動きがとれなくなっていた人が、密室から脱出するためにも必要なものだ。」


 これはゲーリー・メジボフさんの「我々に失敗は無い。ただ学ぶだけだ」という言葉を思い出します。




 でそういった実験のひとつとして綾屋さんの「発声方法」について書かれています。アスペルガー症候群の診断を受けてから、人前での発声のためにやっていた努力をひとつひとつ外していった。そして小さな抑揚の無い声で手話をつける、という方法に至ったのだけど、それに固執せず、一度他の方法もやってみようと思えるようになった。で、マイクを使ってみたり、ヘッドホン(イヤーマフ?)を使ってみたり、あれこれ試した。で結果としては「人前で話さない」というところに落ち着いたと。


 外から見た事象としてはあまり変わらなくても「実験」をした結果だと随分「自信」と言うか、「これでいいんだ」という感じが違うと思います。


「それなりに変化していくことを受け入れてみんな生きていますよね。でも依存症の私たちって、変化したくないんです。不安だから今日のままでいたい。幸せであるほど、この一瞬や人間関係が永遠に続いてほしい。今日の友達のままで、今日の夫との関係のままで、親友ともこのままでいたいと何十年も真剣に思っている人たちです。薬物を使うと時が止まったかのようになるのですが、まさにそれを求めて薬物を使うわけです。

 でも、本当は変化することがいちばん安定しているんですよね。だって、まわりは変化していってしまうわけだから。自分だけが変化しなかったら安定しないですよね。このことを受け入れられたのは、私自身にとって大きなことだったなあと思います。

                (上岡陽江『その後の不自由』)」


 回復とは変わり続けること。


「等身大の自分」について。


「「等身大の自分」という安定した像は、ゆるぎなく固定化されたものではない。

 等身大の自分というものが実践によって変化し得る揺らいだ存在だとすると、私たちはある根源的な悩みにぶつかることになる。依存症の自助グループで語り継がれている「平安の祈り」という文章は、この悩みを端的に表現したものと言えるだろう。


神様 私にお与え下さい

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものは変えていく勇気を

そして二つのものを見わける賢さを


 世界も自分も、常に変化し得る構成的な存在だということを受け入れた時、どこまでが「変えられない部分」で、どこからが「変えられる部分」なのかという問いが、重くのしかかってくる。」


 これは「ニーバーの祈り」ですね。




「変えられる部分を過大評価するリハビリ

 変えられない部分と変えられる部分は境界線が曖昧なために、しばしば変えられる部分が過大評価されたり、逆に、過小評価されたりすることがある。そのような等身大の自分を見失わせるような他者の評価に対して警戒している熊谷は、べてるの家で「認知行動療法」というような、専門家が好むような用語が使われることについて、初めは漠然とした違和感を持っていた。

 認知行動療法とは、症状や問題行動を改善し、セルフケアを促進するために、非適応的な行動パターン、思考パターンを系統的に変容していく行動科学的治療法のことだ。それに対して熊谷が常々抱えてきたのは、「思考や行動は書き換え可能なソフトウェアのようなものではなく、個々の身体条件によってある程度規定されたものなのではないか」という疑問である。

 脳性まひの熊谷は、過酷なリハビリを経験してきた。当時、「脳性まひの子は、脳以外の身体は正常である。彼らが自らの動作をうまく操れないのは、身体に問題があるのではなく、その身体を操縦する心理過程に問題があるからである」という言説が流布し始めていた。このようなパラダイムは、「身体の問題だったら諦めるしかないが、心理に問題があるのだったら『努力・工夫や気の持ちようで』いかようにも動作の習慣を変えることができるのではないか」という加減を知らない期待を、周りにいる家族に抱かせた。」


 で、熊谷さんが受けた訓練の様子というのが・・・


「結果、思うような成果がみられない時には、「努力・工夫の仕方が間違っているからだ」と、本人や家族の取り組み方に原因を帰せられることになった。指で体の一部をつつかれながら「ここをピンとするの!・そう、そう。違う!・もっとこっち!」など、ひとつひとつの筋肉の使い方まで指南を受ける。熊谷にとってはそのように言われても、脳と筋肉がうまく繋がっていないような不快感を覚えるばかりで、取り組み方さえわからずにいた。」


 わお。熊谷さんが受けていたのが動作法かどうかはわかりませんが、この風景は動作法の現場でよく目にしたものです。私は・・・「ピンとするの!」とか「違う!」とかはやらなかったと思うけど・・・


 それから認知行動療法については、私はうつでダウンしていたこともあり、少しは本やネットで調べたりしたけど、全然イメージがつかめませんでした。なんか説明がしっくりこないというか・・・説明がわかんない、というか・・・


「熊谷はべてるの家の認知行動療法に参加した。


 11時少し前。朝の掃除を終えてわらわらと戻ってきた二十数名ほどのべてるの家のメンバーたちは、ホワイトボードを取り囲むようにして部屋のいすを車座に並べ始めた。訪問者である熊谷がべてるの家のやり方になれるために、ウオーミングアップセッションのようなものが行われた後、一人のメンバーがホワイトボードの前に行き、現在抱えている苦労について語り始めた。

 退院したばかりのその人は、べてるの家に着地点(落ち着ける居場所)を見いだせなくて、ふわふわしてしまうという苦労を語った。そのようなふわふわした状態にいて、幻聴さんが「ここは居場所なんかじゃないんだよ」と、マイナスなことを言ってくるのだそうだ。この苦労語りを受けて、聴衆が少し前のめりになった雰囲気を熊谷は感じた。そして「なにか意見がある人はいますか」という司会の合図で、何人かが手を上げた。


「幻聴さんを連れて仲間のところに行って、ありのままを話すといい」

「幻聴さんは消えはしないが、仲間と共有することで何とかなる」


 それらの意見を踏まえて、実際に幻聴さんを連れて仲問のもとへ行く練習が行われる。この練習の成果がいかはどのものか、メンバーの行動パターン自体がこの練習によって変化するのかどうかはわからない。ただ、確実にひとつ言えることは、このメンバーが目下、べてるの家からはぐれかけていて苦しんでいるという事態を、多くの仲間が共有したということだ。本人の認知行動が変化したかどうかはさておき、聴衆たる仲間が、当のメンバーに注ぐまなざしは変化したと言えるだろう。本人に変化を強要して集団に適応しなくても、本人を取り巻く仲間たちが認識を共有することで、つながりは保てるのである。はぐれかけてふわふわと苦しむこのメンバーにとっては、そんなつながりこそが手当てになるだろう。


 ストレス発生現場から離れた診察室で行われる認知行動療法やリハビリと違い、ストレス発生現場の中で行われる認知行動療法は、当人だけでなく、それを取り巻く仲間の認知行動をも同時に変える。本人の変えられない部分があったとしても、それを取り囲む仲間たちの変えられる部分が少しだけ変わることによって、適応は起き得る。

 べてるの家のメンバーたちは、「三度の飯よりミーティング」の精神で、普段から頻繁に情報のやりとりをしているようだ。その結果、互いに相手の歴史を熟知しており、その歴史のなかから立ちあがってくる当人の変えられない部分が、その人固有のキャラクターとして仲間内で共有されることになる。」


 あああ、これだったら「わかる」


「ここではもうひとつ、部分引用以外の方法で信念対立を乗り越える方法について、べてるの家での実践をとおして見ておくことにする。その方法とは、自分のなかにある信念を一段高いところから客観視することで、他者との「対立していない、共有する部分」を見つけるという方法だ。」


 例に出てくるのが桂文珍のインタビュー。


「「縦の笑い」は、優越感から生じる「嘲笑(ちょうしょう)」や権力の弱い者が強い者を皮肉る「風刺」。これに対して、「横の笑い」は「あんたもやっぱりそうか」という仲間同士の共感です。成熟した社会では「横の笑い」が増える。人間共通の弱さ、悪、ずるさを認めた上で「自らを笑う」。自分の姿を、もうひとりの自分が、離れた所から眺める。客観視する。

                  (2008年1月5日読売新聞東京本社朝刊)」


「ミーティングなどでべてるの家のメンバーたちからこぽれだす語りは、本当に面白い。」


「ミーティングに初めて参加した時、熊谷は、周囲の聴衆と一緒になって笑っていいものかどうか、ためらっていた。苦しんでいる相手を笑ったら失礼に当たるのではないだろうか、と感じていたのである。いや、もしも自分が同じような幻覚妄想の経験者だったら、当事者同士として笑う資格があるかもしれないが、自分は幻覚妄想で苦しんだことがない。それなのに笑っていいものだろうかと躊躇していたのである。」


 この感じもよくわかります。NHK教育の番組「きらっと生きる」の中にも幻覚・妄想カルタとか出てきますが、一瞬笑っていいものかどうか迷うことがありますから。


「当時べてるの家に留学中だった宮西勝子さんが学会のワークショップで「当事者研究に向いている人は?」と問われた時、「笑われた時に怒るのではなく、『よし! やった!』と思える人です」と答えたのが印象的だった。渦中に片足をつっこみ、しかし半ば俯瞰された自分語りが、聴衆の笑いを誘う。その笑いのなかに込められた「違うのに同じ」という感覚が、つながりの実感をもたらすのだろう。

 こうしてみると、「自分は幻覚妄想で苦しんだことがないのに、笑う資格があるのだろうか」と大真面目に悩んでいた熊谷のイタさがよくわかるだろう。「誰にとっても自分の信じる現実とは、相対化され得る主観的な幻覚妄想状態かもしれない」という俯瞰した視点もなく、熊谷はそこに没入していた。「没入と俯瞰」という二重性がないから、引きつって笑えなかったのである。そういう人間に限って、人に自らの信念を笑われると余裕なく怒ったりするものだ。」


 この笑われたら「よし!やった!」というのはいわゆる関西人一般のメンタリティであるような気がします。ただしそれはそれで同調圧力になったら苦しいこともあるのですが。


「どんなルールを掲げるにせよ、そこから脱線した場合のことをどう捉えるかという点は重要だ。身体や世界の不確実性に怯え続けている人は、不確実性を減らそうとして過剰に規範的になる場合も多い。自分で自分にルールを諜し、他者にもそれを求めることで、少しでも見通しをよくしようとするためだ。そういう人にとって、「ルールから外れる」ということは、ふたたび不確実性の奈落の底に落ちるような、「あってはならないこと」として捉えられやすいだろう。実際、「ルールを踏み外すかもしれない」という緊張とストレスに耐えかね、爆発的に逸脱行動をしては、そのあとふたたび、「またやってしまった」「今度こそルールを踏み外してはならない」という悪循環を形成してしまうことも多いのである。

 そういう人々にとって、ルールを掲げながら、「でも、外れても大丈夫」という暗黙のルールも同時に持つことは、ルールというものに対しての新しい向き合い方を与えるだろう。そして逆説的ではあるが、そういう構えを持つほうが悪循環に陥らず、結果的にルールを踏み外さなくなるという場合もあるのだ。」


 これはその通りと思うのだけど、自閉症スペクトラムの人には難しい面もあるかなあ・・・


「「外れても大丈夫」という構えは、べてるの家を訪問した際にも感じられた。」


「綾屋はそわそわし始めた。(中略)このような場面ではひどく怯える。「私、無理。外へいきます」と熊谷に告げて、綾屋は部屋の外に出た。

 とはいえ、人々の様子は知りたいし、感じたい。輪の中には入れないけれど、輪のちょっと外からなら見ていられる。外に出ると言いながら建物の外には出られず、綾屋は部屋の入り口付近でうろうろして、中の様子をうかがっていた。

 全員の出欠が終わる。べてるの家にきたゲストをもてなす"迎能プロダクション"による歓迎の歌が聞こえる。「はあ、私はまた集団の中にいられない」「べてるの家ですらはぐれる私」という自己像がやってきて綾屋は落ち込み、とぼとぼと階段を下りて建物の外に出た後、日傘をくるくる回しながら所在なく歩いた。幼稚園の時からずっと、こうやって集団からはぐれては一人で暇をつぶしていたが、今日もまたここに戻るとは。

 そこに若い男性メンバーが自転車でやってきて、綾屋を見つけて「あ」と言った。そのあと綾屋は自分がふらふら歩く様子をじっと目で追われているように感じ、「あれ?」と思った。

 しばらくして綾屋は一階入り口の端っこに腰掛けた。喫煙所のすぐ脇なので話し声が聞こえてくる。「○○ちゃん、退院だってさ」「あれえ、よかったねえ」。顔をなでさわやかな風。海面のきらきらとした反射。意外と熱い陽射し。青い空。ああ、また、モノとの対話の世界に感覚が開かれていく。人の世界から落ちこぼれ、モノの世界に移行する時、いつも猛烈に胸が締めつけられる。さみしいな。そう思って視線を落とす。足元にオレンジ色の花が咲いている。そっとなでてみる。柔らかい触感、ビロードのような艶と張り、花のつき具合、つぼみの不思議な輪郭、ありったけ取れるだけの情報を次々に摂取する。「晴れてて嬉しい」といういきいきとした花の息づかいはこんなにもよくわかるのに、人とはつながれない。

 5、60歳代の体格のよい男性メンバーがのっさのっさと現れて、座り込んでいる綾屋を見て「お1・」と言って立ち止まった。綾屋はぼんやりと顔を上げた。メンバーはぬうと背中を屈め、右手をゆっくり差し出した。綾屋も促されるように右手を差し出した。彼はふわっと包み込むように握手をした。お互いの手の平がそっと触れた。そして彼は、またのそりのそりと歩いていった。綾屋はまた「あれ?」と思った。

 20歳代の女性メンバーが遅れてやってきた。息を切らして急いでいたにもかかわらず、綾屋を見ると立ち止まった。「おはようございます」。そう言った優しくて快活な声には、手話がついていた。綾屋はハツとして手話で「おはようございます」と返事をした。彼女はまた急ぎ足でいなくなった。

 べてるの家のメンバーの反応は、これまで綾屋が受けてきたどの反応とも違った。

「何だろう。私はこれまでのように消えておらず、見えているらしい」と綾屋は不思議に思った。しかも見えたからと言って、憐れみの微笑や同情の世話焼きをするでもなく、腫れ物に触るようでもなく、珍しいものを見るようでもなく、馬鹿にしてからかうでもない。べてるの家のメンバーの反応は「無理強いもせず無視もせず」であった。上げることも下げることもなく、はぐれている自分がそのままの存在として扱われたのは、綾屋にとって初めての経験だった。

 べてるの家では、はぐれている人など珍しくないのかもしれない。誰もがいつはぐれるかわからない状況を、今も現在進行形で各々が抱え続けているのかもしれない。はぐれているあの人は、いつだって、私かもしれないのだ。「はぐれないための方法を学ぶ」なんてことはせず、「はぐれることも込み」で、べてるの家という場はあるのかもしれない……。」


 なんて言ったらいいんだろう。美しい、と言ってもいいような光景が浮かびます。そしてこの感じを求めているのはカナータイプの自閉症の人でも、他の人々でもいるだろうと思います。


第六章 弱さは終わらない(綾屋紗月)


「止められない「過去へのタイムスリップ」

 不確実性のなかで長い間生きていると、「もう二度と戻りたくない」過去の記憶を持ってしまうことがある。その数がひとつやふたつの人もいれば数えきれない人もいるだろう。それらの記憶は、ちょっとした外界の刺激で連想的に再生される。しかも通常の記憶のように現在と切り離しながら過去のできごととして思い出すのではなく、まるで現在のできごとのようにありありと現前してしまうのだ。

 ささいな日常生活の至るところに、私たちを過去に引き戻す原因となるスイッチはあふれている。電車のつり革広告、何げない人々の会話、家事をしている時。思いもせぬ何かが、ふうっと一瞬にして私をあの時代に引きずり込む。この現象を「あちこちに地雷が埋め込まれていて、うっかり踏んでしまうのが恐ろしくて身動きがとれなくなる」(『その後の不自由』)と表現している人もいる。

 依存症の世界でも、こういった痛む記憶から逃れ続けるために酒や薬に手を出し、自分を麻揮させているケースが珍しくないらしい。」


 タイムスリップ現象はアスペルガー症候群の人だけでなくカナータイプの人でも起きる人がいるようです。


「無我序で不確実な世界に住むことで生じるこのような特殊な記憶を「心的外傷」と呼ぶこともあるようだ。」


 これが半年過ぎても起これば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)ですね。私自身は覚醒した状態では、腕の痺れとかではあっても圧倒的なイメージとしては無かったですが、悪夢ではよくありました。今は悪夢を見ないなあ。




「今の私の場合、以前と比べるといきなりボーンと過去に飛ぶことは減り、現実にとどまろうとする力がしばらくのあいだ働くようになったため、初めのうちは何とか自分ひとりでこの事態に対処しようとする。

(中略)

 しかし抵抗むなしく、やはり私は落ちていく私を止めることができない。その後には、落ちた先にいる過去の「ダメだった自分」や、現在の「今回もこんなふうに落ちてしまっている自分」に対する怒りや嘆きで、自分の体の内側からボンッと自爆しようとする力がやってくるため、はち切れそうで苦しくなる。

 しばらくすると「あ、忘れてた。いいんだよ、怒りを感じても。大丈夫」と自分を許すことを思い出し、自分を責める回路をリセットしてラクになるのだが、そんな作業をひとりで繰り返していると、そのサイクルがどんどん短くなっていき、体がギュッと警戒で縮んだり、ふわっと解放でゆるんだりすることにだんだん消耗し、へとへとに疲れて体がバラバラになっていく。その身体感覚は「私は世界とも誰ともつながっていない」という確信と直結し、疎外感でさみしくてつぶれてしまいそうになるのである。

 このような状況にあると、「ひとりで抱え込まず、ささいなことでも人に語る」ことの重要性は高まってくる。ところが皮肉なことに不確実性の世界に長く生きてきた人ほど、それが難しいという現実もある。」


 ここんとこですね。その不確実さを少しでも無くすために、カレンダー、スケジュール、様々な表現手段、選択を認められること等が大切になってくるような気がします。


「ささいな感情の抑圧

 30歳代も半ばを過ぎた私が最近「死にかけた」例を話そう。何てことはない。会社員で喩えるならば「同僚の栄転」、中高生で喩えるならば「同級生のトップ校合格」、恋人や夫婦で喩えるなら「パートナーーの大躍進」。つまり「コミュニティ内でだいたい同じくらいだろうと思っていたメンバーのイチヌケ」というよくある話だ。でも「よくある話だ。そんなことにとらわれるとは、何て馬鹿げているんだ」とわかっていても、人はそれで追い詰められ、この先に自ら死ぬかもしれないという予期を覚える。そういう回路がある。それが「自分のせい」という、私たちに植えつけられた自責回路だ。

 「どうやらアイツがうまくいったらしい」という噂が流れ妬めた時から、血の気が引き、胸がざわつく。数日のうちに噂が本当になったら、私は周りがあきれるほど「チクショー! うらやまし〜! なんでアイツが!」と嫉妬で狂ったり酔って暴れたりして、周囲に迷惑をかけたりしないだろうか。私の心身は耐えられるのだろうか。

 「どうかそんなみっともないことにはならないように。私の無自覚な行動でこれまで築いてきたなけなしの大切な人たちを失うことのないように、どうか見張っていて下さい。この山場を冷静にくぐり抜ける自信がないのです。どうか自ら壊してしまわぬよう助けて下さい。私は無力です」と神にもすがる思いで、満月に祈る。

「私がそんなふうに嫉妬で取り乱したら、誰よりもアイツが一番怯えることになる。嫉妬には攻撃性があることを自覚して、節度を持って振る舞わなければ、これまでの関係を壊してしまう。これからますます大変になるのは私ではなくアイツなのだから、むしろ私はアイツの味方になって応援するべき立場なのだ。だってこれまで一緒に苦楽を共にしてきた同志なのだから」と自分に正論をかまし、説得する。

 そんなふうに、日中はなんとか前向きでいい人ぶった結論を出せるけれど、夕方を過ぎるとふたたび「嫉妬で狂うのではないか」という恐怖が湧いて湧いてとまらなくなる。

 「こんなことはこれから何度だってやってくるよ。ここは気を確かにして持ちこたえねば。きっとこれは人生の肝だ。自分をコントローールするスマートな対処方法を見けて、すみやかに流せるようにしろ」

「せまいスパンで考えてはいけない。もっと長期的に考えるんだ」

「アイツの裏にはコネだってあったかもしれない。利害関係がないわけないじゃないか。冷静に考えろよ。客観的な事実を踏まえずに無知なまま、『仲間のよかったことに嫉妬する私』に耽溺するのは、かなりイタイよ」

 と、今度はやや説教気味に自制しようとするが、「とはいえ、やっぱり無理」と沈むばかりで効果がない。やがて「自分の心が醜いから、こんなみじめな嫉妬が生まれるのだ」と「自分のせい」にする回路がまわり始める。と同時に「人と比べない人になりたい」「欲がない人になりたい」「人をうらやまない人になりたい」「智恵のある賢く冷静な人になりたい」と、「規範どおりのイイヒト」になりたい私のオンパレードになっていく。しかしそれは結局、逆照射される「そうでない私」を自らに突きつけることになり、「規範どおりにできない、どうしようもなくダメな私」を、私自身が見下していくことになる。


「本当の実力」幻想も悪循環のひとつ

 いざ、アイツの「よかったこと」が噂から本当になった時、意外にも素直に喜べる自分がいた。「おめでとう! よかったねI・」と偽りのない声をかけられた。なんだ、杞憂だった。心配していた私の「ご乱心」は今のところ起こっていない。案外私は、私が思うほど醜いヤツではないのかもしれない。こんな私でもちゃんと齢を重ねて、それなりに成長しているのかな……とちょっとホッとする。そうだよ。もしアイツの悪口を言うやつがいたら、私が守ってやるんだ。だってアイツが陰でどれだけ頑張っていたかを知っているのは他の誰でもない、そばにいた私なんだから。「アイツは本当にスゴイヤツなんだよ! 本当に力のあるヤツなんだ! お前らなんかに何がわかる!」って言ってやる。

 そんなふうに頭のなかで、これから向かってくるであろう仮想敵に対して、勝手に勇んで言い返していると、急に頭がぐにゃりとなる。本当の力……ってなんだよ。「アイツには本当に力がある」ってどういうことだよ。それって裏を返せば「日陰モノの自分には、本当に力がない」と言っているのと同義だ。「本当の実力がないのだから、私には日が当たらなくても仕方がない」。私は自分にそう納得させようとするのか。その先には「どうせ自分は世の中に存在していても価値がない」という僻があって、「誰ともつながってない私」「生きていても意味がない」「死のう」っていうお決まりのルートが待っているじゃないか。それって「嫉妬で狂うかも」という当初の予測よりもタチが悪い。」


 この感じもわかる気はします。誤解かもしれませんが。




 で、「安全に」話を聞いてくれる人がいればいいわけですが。この時の綾屋さんは、メールである人に苦しみを伝え、その方がうまく「読みっぱなし」にして下さったようです。


「幸い、メールを送った相手は押しつけるような答えを返すことはなく、相手との距離が変化することもなかった。今回はたまたまいいほうに向かい、なんとか助かったが、この話をダルク女性ハウスのメンバーの一人にしたところ、「そういう時って、私たちはミーティングに出ればいいけれど、話す場所がない人もたくさんいるよね。でも必要だよね。こういう場を持っていない入って、つらくて大変な時、どうしてるんだろう」と言われ、そのとおりだと思った。私にも、理想の「言いっぱなし聞きっぱなし」空間のように、「ここならいつでも話して大丈夫」という安全に語れる場がほしい。」


 そして


「私には、私の話を聞く相手に対して、「話を間く負担」も「何か答える負担」もかけたくない時がある。また、やっとの思いで話すので、批判されたり、説教されたり、同情されたり、煽られたりしたくない時もある。この思いが守られることが、安全な語れる場だと思う。「私はどうしても他者に話さなければなりません。だから話をさせてください。でも負担だったら聞き流してね。答えなくていいです」ということが了解された上で、できればささやかな共感の反応をもらいたい。そういう時がどうしてもあるのだ。」


 よくわかります。


「一度話したらもう同じ話をしちゃいけないと思っている人が多いですね。「この話、このあいだしましたよね」と言うから、私は「いいのよぉー。○○ちゃんはこの話がオハコー 同じ話ができるようじゃないとよくならないわよね」と言って話をうながします。痛みが静かな悲しみに変わるには、数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらわないといけないですね。

                        (上岡陽江『その後の不自由』)」


 特に高齢の方なんかだとそうですね。それからひとつ考えておかないといけないのは、脅迫的な反復質問になっていないか、という時もあるなあ。相手の方も「聞いてもらえた。理解してもらえた」と思えていない場合もあるかもしれない。そんな時、「見てわかる」形で「あなたの言ってることはこういうことですね」と返してあげるといい場合もあるかもしれない。


あとがきにかえて


「綾屋と熊谷は、自閉症診断の急増の原因として、1970年代以降の社会の在り方の変化が大きいのではないかとみている。」


 「診断」が増えたのは、確かに「社会のタメが無くなってきた」((C)湯浅誠))っていう点もあると思います。しかし、もともと「無いことにされていた」のがそうでなくなった、という面も大きいかな。


 だって、昔の就学前施設には「自閉症」の子はいなかったし、私の勤務した知的障害特別支援学校にだってほとんどいなかったのですから。(もちろん居たのだけど、誰も知らなかった。あるいは言ってはいけない、と思われていた)





「だとすれば、社会の流動化が進行するにつれて、自閉症傾向の強い人から順についていけなくなり、そのついていけない理由を社会の変化ではなく個人の問題として処理するために、診断へのニーズが増えたとしても不思議ではない。つまり現代は、綾里が定式化したような自閉的傾向を多かれ少なかれ誰もが持つようになり、身動きがとれず立ちすくむ時代だと言えるのではないか。」


 診断のニーズが増えたことは確かだろうけど、この書き方では「過去には自閉傾向を持っていなかったけど、現代になって持つようになった」と受け取れる。それは間違いだと思う。過去も現代も「ある」。スペクトラムなのだから。それが社会的変化によって「あぶり出される」ように診断が出てきているのだろうけどね。まあ、証明する統計は無いわけだけど。


「こうしてみると現代社会自体が、マイノリティの日常のように不確実な世界で長期的な見通しのない状況に陥っているとも言えるのではないだろうか。そして誰もが、変化し続けることや空気を読み続けることに追われてせわしなく立ち回る「あたふたモード」と、排他的・密室的なカテゴリーに引きこもって被害的な妄想を膨らます「ぐるぐるモード」の両極端の間を振れているとみなすことができるだろう。だとするならば、本書で詳しく述べてきた「つながりの作法」は、決してマイノリティだけに有効なものではなく、現代を生きる私たち全員にとって一つの目指すべき方向性を示している。」


 ここは賛成します。


 いやはや面白かったです。


 綾屋さんの「前略、離婚を決めました」と熊谷さんの「リハビリの夜」をさっそく図書館で予約しました。






posted by kingstone at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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