私の関わりのある法人
ksbutton.png omemebuttan.png sowerbuttan.png
※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年02月18日

満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年 神奈川新聞社編集局報道部編

満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年 神奈川新聞社編集局報道部編


 中国残留孤児支援家菅原幸助さんの生い立ちを追いながら、当時の日本と満州のことや、中国残留孤児(と言ってももうおじいさんおばあさんですが)のことを書いた本。

菅原幸助Wikipedia

(すがわら こうすけ、1925年(大正14年) - )は、日本の中国残留孤児支援家。(社)神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長。山形県鶴岡市出身。

 丁度、亡き父や叔父と同じ世代の方だ。

 尋常小学校高等科(12〜3歳頃)航空兵を志願するも、「小さい体では合格できない」と言われて断念。

 家族からは中学進学を期待されていたが、成績はかんばしくなかったらしい。

 お父さんは商売をしていたが、一度だけ菅原さんに「俺だって土地があれば農業をしたい」と愚痴ったそうでそれがすごく印象的だったとか。

 1938年尋常小学校の体操場(体育館)で映画と陸軍大尉の講話。
 満州の雄大な農場を耕す様子。匪賊の襲撃。立ち向かう男たち。「五族協和」「王道楽土」「理想国家の建設」といいうような文字。(と映像があったんだろうな)そして

「満州は広い。一望千里の大平原だ。田舎ではせいぜい、五反百姓しかできないだろう。君たちは満州で二十町歩、三十町歩の大地主になれ」

 で菅原さんは、すぐに担任に行きたい決意を述べるが、「両親の承諾が必要」と言われる。

 菅原さんは親に内緒で書類を作り印鑑を押す。

 13歳の少年が自分の進路を考え、満蒙開拓青少年義勇軍に申込むとは。今の、中2ですから・・・

 家では大反対され、父親が学校に取り消しに乗り込むが、県庁に電話したところ「いったん申し込んだものを取り消すと重営倉だ」と言われて断念。しかしこれは嘘であったらしい。前年(第1回募集)は応募が殺到したが、2回目のこの年は出足が鈍ったらしい。

 実態みたいなものが漏れ聞こえ始めていたのかな。

 1939年3月21日に、茨城県の「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」に入所。同期300人。みな14〜5歳。ここは敷地40ヘクタール。ここで3か月の基礎訓練を受ける。宿舎はモンゴルの包(パオ)を模した形。形状から「太陽すなわち天照大御神を象った尊いもの」と教えられていた。

 体格の良い200人はモンゴル隊に選抜。菅原さんは満州隊。

 農本主義者である加藤寛治が所長。

 午前6時不寝番(!)の掛け声で起床。「宮城遥拝」「日の丸掲揚」「君が代斉唱」「やまとばたらき」と呼ばれる体操。

 この頃を思い出し菅原さんは「内原時代の生活には感謝している」と言ってはります。

 1939年6月11日。新潟より渡満。

 6月15日、月山丸は緒線半島北部清津に着。そこから鉄道で寧安訓練所に向かうが、朝満国境を超えたあたりで銃撃される。

 青少年義勇軍は、現地の訓練所で3年の実践的な指導を受けることになっていた。ということは、「農学校」に入った、というような気分でもあったかな。

 現地での看板は「満州開拓青年義勇隊」「軍」でなく「隊」にしていた。授業は内原訓練所と同じようだと思うのだけど、午前が軍事教練で午後が農業について。菅原さんは何かの係になって軍事教練を免除されていたとか。

 菅原少年は「五族協和」の理想を信じており、現地の人を差別する意識はなかったが、休みの時に現地の人の村に行ってみたところ、子供たちに冷たい視線で見られ、さっと逃げられる。

 訓練所では「他民族を敬せよ」と叩き込まれたが。

 みんなで集合して写っている写真があるが、左端の人が一人小銃を構えている。

 哈達河(はたほ)開拓団の山崎さんという人のもとでホームステイをして農業を学ぶ。山崎さん自身も「中国をよく知りなさい」と言っていたし中国語をよく覚える。

 山崎さんの元で働いていた中国人、李さん。他の中国人労働者を束ねるような立場。しかしある機嫌の悪い時

「是的土地、我的土地!」と叫ぶ。しかし菅原さんには意味が全然わからなかった。

 菅原さんには山崎さんが理想的に思えた。山崎さんは敗戦時の麻山事件で死亡したと思われる。

 1942年。6月。五か樹義勇開拓団の一員となる。20ヘクタールの土地が与えられた。(正確には6人に120ヘクタール)しかも既耕地であったと考えられる。

 「満州国史・各論」では32年の記述で1人5円で円満に立退きと書かれている。しかし菅原さんの母が着物に100円を入れていてくれたエピソード。満州から山形まで帰郷するにはお釣りが来るほどの大金、との記述がある。当時の交通費は今の感覚より随分高かったとしても、例えば100万円と考えても5円だと5万円。それで土地を買われたら恨みは残るな。

 1934年3月には土龍山事件も起こっている。

 入植してから、その土地の実力者王さんと親しくなる。私兵もいる、城壁の中に住む人。王さんからは「娘を嫁にもらってくれないか」と言われる。それは実現しないまま入営することになるのだが王さんは「帰って来るまで待っているから」と言って見送ってくれる。

 王さんは戦後、対日協力者として人民裁判で殺される。

 1994年、9月1日。関東軍入隊。

 初年兵時代はものすごい暴力を受ける。

 銃撃練習の時は200m先の人形をねらう。しかし一度、数人を銃撃の的として殺した。上官は「死刑囚だから」と言っていたそう。

 燃料輸送の途中で苦力に粥を恵んでもらう。その時

苦力「日本は負けるよ」
菅原「そんなわけはない」
苦力「中国に負けるんじゃない。ソ連に負けるんだ」

 1945年2月。「北京官話二等通訳試験」に合格すると「なら歩兵はもったいない。憲兵学校に推薦するから諜報活動の勉強をするように」と言われる。

 3月1日。「関東軍憲兵教習隊」へ。他の者は一等兵になるところを菅原さんは上等兵に2階級進んだ。ここでは暴力は無かった。途中に何度もある試験に不合格だと原隊復帰となる。菅原さんの原隊の兵士はほとんどが沖縄戦で死んだ。

 8月9日未明。非常呼集。

「ソ連軍が攻めて来た。お前たちは今すぐ任官だ。座金(バッジ。候補生を表す)を外せ!」

 任地を言われる。上等兵から兵長に階級が上がる。しかし中国語ができることがわかると

「避難列車を仕立てることになった」2000人が乗り込む。この列車を警護し、乗客を無事に日本に送り届けることが諸君の任務だ。これは絶対命令である」で「撃ち合いよりも、金で解決しろ」と100円札のぎっしり入ったトランクを渡される。階級も伍長に。(兵長になって数時間後)

 ここまで読んで、情報がある軍関係者は真っ先に逃げたのじゃないか、と思っていたのが、違ったのかと思ったが、後ろを読むと「高位高官」「その家族」のための列車であったらしいです。当初は「民ー官ー軍」の順の予定だったものが逆になったとのこと。

 途中、崖を爆破され線路が土砂に埋まったり、運転手が逃げたりしたが、すべて金で解決。しかし連れてきた運転手の頭には銃口を向けていた。

 草原で水汲みのために停車し、多くの人が水汲みに出たところで襲われる。菅原さんも拳銃で応戦。そして列車は出発。取り残された人が何人か出た。

 1945年。8月15日。平壌。玉音放送。

「感慨にふける余裕なんか全然なかったんだよ。忙しくて」

 翌16日。将校の妻たちが白装束で首や手首を切って死んでいた。

「日本人女学校の生徒を、平壌神社そばの講堂に避難させる。ソ連兵に強姦される前に、若いお前たちが大和民族の血を継がせるのだ」

 実際に準備はしたのだが、その夜、神社が焼き討ちされ、実行には移されなかった。

 9月上旬。山口県の小串上陸。

 任務を終え、一緒に帰国した同僚が寝そべりながら言う。
同僚「なあ、自決するか」
菅原「そうするしかねえよな」
しかし
「軍部中枢が帝国ホテルに集まっているらしい。とりあえず東京に向かおう」

 1945年9月半ば、憲兵隊に出頭すると、そのままGHQの指揮下に組み込まれた。

 宮城前では青年将校たちが毎日のように自決し、死体の山を築いた。与えられた任務は、まず死体処理だった。

 ここまで読んで、自決した人、本当にたくさんいるんだな、と思いました。

 石原莞爾の講演内容が伝わった。
「俺は諌めたのだ。なのに東條の奴が言う事を聞かんから、こんなことになったんだ」

 漏れ聞いた菅原さんを含む十数人の青年将校が帝国ホテルの石原莞爾を取り囲んだ。

「国が滅びそうな時に、あまりにも無責任な発言ではないですか!あなたを殺す。そして自分らも死にます!」

 石原は、日本の将来を朗々と語り、最後に

「わしの首はやるが、君たちは死んではいかん。君たちのような若者が死んだら、この国を誰が再建するんだ」

 10月下旬、除隊。その夜ある上官。

「よいか。再び戦う時は必ず来る。地下に潜って秘密結社をつくる。来る時にそなえて指令を待て」

 菅原さんは「暗殺指令」を受け、実際に訓練もさされた。1人殺せば報酬は2000円。実際に「集合せよ」という連絡が来たが、
「行かなかったよ。しかし当時2000円といえば大金だ。そんな資金を捻出する組織がどこかにあったのかねえ」

 菅原さんは故郷に帰り「いかに生くべきか」に悶々とする。そして石原莞爾が開いた「西山農場」へ。しかし西山農場は5反ばかり。菅原さんの大農場経営の知識も役に立たなかった。

 最終的には25歳で就職。これが庄内日報。その後朝日新聞に移る。

 1978年、中国人留学生と会った。その時「満州」という言葉を出すと「そういう国は無い。もともと中国人の土地を奪ったものだ」と言われたことから、中国残留孤児の話に関わるようになる。

 何て言うのかな、本当に農業に夢を見、食えるようになろう、理想に生きよう、と考えていただけなのに、帝国主義的侵略に加担するようになってしまった感じ、よくわかります。

 内原訓練所の生活も、きっといいものだったのだろうな、と思います。私もそういうところに行きたいなあ、と思ったこともあります。たしかかつてのベストセラー「次郎物語」の主人公、次郎もそんなところに行ったんじゃなかったかな。

 ほんま気をつけないといけないなあ。私だって時代の考え方みたいなものに縛られているところがあるだろうし。で、こういうことがあったことは忘れてはいけないよなあ、と思いました。

 まあ中で、イラク派兵と重ねて語ってはるところは、それはずいぶん違うんじゃないか、と思いましたけど。




posted by kingstone at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック