特別支援学級にいた頃。
○○さん、どうもです。
kingstoneです。
> 私は昨日あるおかんに「○○さんはまちがってる」と言われました。
別に間違ったってええと思うねんね。
メジボフさんの
「我々に失敗は無い。ただ学ぶだけだ」
という言葉も大好きです。
ただね「○○ができた」と言われているお子さんについて私は
「このお子さん、○○はできませんねん。いや、怖がってるみたいです」
とおそるおそる言う。
結構「間違ってんのかなあ」というプレッシャーの中でやってるわけです。
で実は以前は「威嚇」という指導をやってはった、というのが後でわかったりするわけです。どーゆーのだろー・・・・そう別に間違ったってええんやけど、間違いから学ぶかどうか、の問題やね。特に教師はお金貰とうねんもんなあ。
それこそ私も相棒も毎日毎日、間違ってると思うよ。
このエントリは「教師だって間違っていい」「親を含めた周囲の人が間違ってもいい」という主旨ですが、コメント欄は「子どもだって間違っていい」という話になっています。それもほんま。
でみやびさんの紹介して下さった詩へのリンクと、中の一節を紹介しておきます。
教室はまちがうところだ
教室はまちがうところだ
まきた しんじ
教室はまちがうところだ
みんなどしどし手を上げて
まちがった意見を 言おうじゃないか
まちがった答えを 言おうじゃないか
まちがうことを おそれちゃいけない
まちがったものを ワラっちゃいけない
まちがった意見を まちがった答えを
ああじゃあないか こうじゃあないかと
みんなで出しあい 言い合うなかで
ほんとのものを 見つけていくのだ
そうしてみんなで 伸びていくのだ
以下略
−−−−−−−−−−−−−−−
追記
「威嚇」で一見うまくいくようになったと見えるところが問題やなあ。
もちろん「威嚇」しているつもりの教師の行動が自閉症の人に威嚇とは別の条件で「わかりやすい」ものであった可能性もあるのだけど、教師の方は「威嚇が効果あった」と勘違いしてしまうからなあ。
いつもうまくいったわけじゃない
「学校は間違いを許すところ」<br />「学校は間違いが間違いだと気づくように育てるところ」<br />「学校は、社会に出て間違いに気づき間違わないように生きていく術を学ぶところ」<br /><br /> この方、基本的には病虚弱や肢体不自由の準ずる課程の教員なのですが、これは最重度の子にも通じます。<br /> 生活中心主義教育やTEACCH風教育では「子どもが間違うような経験はさせてはいけない」と思ってらっしゃるようです。試行錯誤はするけれど一月以内に気づいて自分から修正するだろうという見立ての下に補助具を作った授業研で「あの子が間違って、それに気づかなくて指示されてかわいそう」「子どもが主体的にできる補助具にしなくては」と散々言われたので腹が立ってその子だったら余裕のよっちゃんでクオリティの高い製品がいとも簡単にできる補助具を作りました。そうしたら「主体的ですばらしい」「ほらあれだけできることが自信につながっているんだよ」と大絶賛でした。で、その子は就労できるかもという教員の予想に反し、作業所でも「何もできない子」という烙印を押され、他の教員は「あれだけできる子なのに」「作業所は厳しく評価しすぎだよ」などと言ってましたが、私は当然だろうと思っていました。知的好奇心も喚起しなければ知的な不可も与えないような生活を過ごさせていたのですから、それで育つようなら奇蹟です。<br /></p>
>もずらいとさん<br /><br />|学校は間違いが間違いだと気づくように育てるところ<br /><br />これにはおおいに賛成しますね。<br /><br />|TEACCH風教育では「子どもが間違うような経験はさせてはいけない」と思ってらっしゃる<br /><br />う〜ん、間違えることを「子どもが悪い」ですませ平気な人たちが周囲に多ければ、そのような主張をする場合もあるかも。でも「本人の自己責任で気づいていく」というのが一番いいんですけど。(「自己責任だからほったらかし」というのではなく)<br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/
kingstoneさんのような話ではなく、「本人が楽にできる範囲内」でしか課題を設定しない傾向があります。その結果が「いつまでも絵カード」に現れています。</p>
>もずらいとさん<br /><br />|「本人が楽にできる範囲内」でしか課題を設定しない傾向があります。<br /><br />なるほど。<br /><br />まあ「本人にできないしんどいこと」を課することも昔は多かったのだけど、そこんとことの兼ね合いですね。<br /><br />|その結果が「いつまでも絵カード」<br /><br />これは人によりありだと思うけど。<br /><br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/
>これは人によりありだと思うけど。<br /><br /> 当然そうです。私が想定しているのは「導入は絵カードでも、漢字や他の高次な提示手段に移れる人にそれをしない」という例です。たくさんいますよ。サインとかシンボルって「見栄えが教師受け」しますからね。普通に言葉でコミュニケれーション取るよりシンボル使った方がすごくみえるみたいな。<br /> 親御さんにもその手の人はいまして漢字の弁別も使用もできるのに「絵カードを使わせるようにしてください」だって(^^;)。</p>
>もずらいとさん<br /><br />|導入は絵カードでも、漢字や他の高次な提示手段に移れる人<br /><br />これはあれこれやって、より低コストで済み周囲にもわかりやすい手だてをさがさないと、ですね。<br /><br />枠に囲い込むのが目的じゃないんだから。<br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/
おひさしぶり♪<br />(^^) 国語教員にはご存じでしょうが、もずらいと先生の巻頭に思わず思い出しました。<br />http://www.geocities.jp/sennseinotamagotati/kyousitu.html</p>
>みやびさん<br /><br />なかなかいい詩ですね。<br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/