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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2010年12月07日

法然の衝撃 阿満利麿著 1

 図書館で借りて来ました。

法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫)/阿満 利麿

¥1,050
Amazon.co.jp

 図書館から借りるのは書評などを見てネット予約というのを基本にしていますが、本を借りに行ったり返しに行ったりする時に、「今日返された本」(手続きが終わってから本を置いておく)コーナーを見てみて面白そうなものがあっった時に一緒に借りて来ます。そうやって借りた本。私の借りたのは1989年に出た版で1990年の第二刷。20年前のですね。

「専修念仏の出現は、それまでの日本人の精神生活のさまざまな局面において、混乱や問題を生じた。たとえば、阿弥陀仏一仏のみをたよりとするところから、他の仏たち、とくに神を拝む必要がなくなるという問題。道徳の無視。祖先供養の軽視、等々。」

「思えば、柳田国男は、日本に定着した仏教には、2種類があることを強調していた。一つは、死者の鎮魂慰霊に役立つ仏教であり、他は、生きている自己自身の安心のための仏教である。後者は『自家用の念仏』とよばれ、具体的には、法然に始まる専修念仏をさしていた。」

「ただここで強調しておきたいことは、鎮魂慰霊の仏教、つまり葬式仏教は、日本の仏教史では主流であったが(今もそして今後も主流であろう)、それではどうしても救われない『個人の問題』が残るという事実なのである。」

「日本への仏教公伝は、538年とも552年ともいわれているが、その内容からいえば、一軀の仏像が、ほとんど単独にちかいかたちで伝来したと考えられる。多数の僧侶がやって来たわけではなく、膨大な経巻が届けられたわけでもなかった。」

「この仏像について『日本書紀』は、『相貌端厳』、『かほきらきらしい』と記している。もっとも、この部分の記述は、仏教伝来より150年ほど後に、道慈という人物によって創作されたと言われているので、仏教伝来当時の人々が仏像について抱いた感情とただちにうけとるわけにはいかないが、埴輪はあっても偶像をもつことがなかった日本人には、きわめて異質な造形と映ったことは、まちがいないであろう。」

 なるほど。埴輪から一気に仏像だとびっくりするなあ。

 蘇我稲目が仏像を祭って

「しばらくすると、『神の心(いかり)』がしばしば発生することになり、その原因について、排仏派は『他国の神を礼(ゐやま)ふ罪』とし、蘇我大臣は『他国の神を礼はざるの罪』としたが、欽明天皇はこれを機会に蘇我稲目の仏像祭祀を禁止する。だが、蘇我大臣は『他国の神』に対する信仰を捨てず、三十余年後死に臨んで、二人の孫を呼び(後に推古天皇と用明天皇になる)、心を一つにして仏法擁護に励むように遺言した。」
 
 当時のことだから災害にしても病疫にしても多かっただろうし、いっぱいこじつけることができただろうな。

 569年、蘇我稲目死去。(「日本書紀」では570年)

「用明天皇が即位し、天皇の仏教帰依を群臣にはかるが、物部、中臣の反対があり、守屋と馬子の戦いが始まる。」

 で「日出処の天子」(山岸凉子)の話につながっていくわけだな。厩戸王子と蘇我毛人(馬子の子)が・・・

 宮古島へ調査に行ってはります。もともと仏教が入ってなくて薩摩の琉球支配に伴って仏教が入ってきたとのこと。

「宮古島の仏教事情を紹介した際、人々は荘重な仏教儀礼に安心しながらも、死者と我が身との関係になると、ユタをたずねて死者の声をきき、死者が納得する処置をしないと落ち着かないという、いわば安心の二重構造があることを指摘した。」

「出雲神社の本殿の後ろには、素鵞社という小さな社がある。(中略)出雲神社の信者で、神に特別の願い事があるものは、本殿に参詣せず直接素鵞社の、しかも床下に参籠するという。(中略)
 高取によると、寺院の堂や社殿の背後にある『後戸』とよばれる部分やその縁の下は、特別の霊験のあるところと信じられてきたからだ。」

「もともと人間の住居は、神と人とが共存する場所であり、とりわけ家の内奥は、その家とその住人を守護する神のいる場所であった。その神は、カマドの神とか井戸の神、厩の神とよばれるだけで、特別の名前を持たない『精霊的』なカミだが、『味方にすれば心づよく、敵にすれば恐ろしい障礙神』となる。このような、神人同居の意識が社寺建築にも反映し、それが『後戸』となり、社殿の背後を神聖視することにもなった、と高取は考える。」

「座敷の神を世話するのは、一家の主人であるのに対して、荒神さんなど名前をもたない神々につかえるのは主婦である。普段は、両者の分業でなにごともなくすんでいくが、一家が危機に面した時は、主婦の祈願が威力を発揮する。(中略)とくにせっぱつまった祈願ほど、身近な神が頼りとされるのであり、座敷の神は、格は高くてもよそよそしいのである。
 一家の中の神の構造だけではない。すでにみたように、神社や寺院においてさえ、普遍的な祭神や本尊のほかに『後戸の神』が必要なのである。ここにも二重構造がある。」

「論じるべきは、特殊と普遍からなる、我々の宗教意識なのである。結論だけをのべておけば、この二重構造を破り、普遍に直結することを教えたのは、法然の専修念仏にほかならなかった。」

 ほお。

「この法蔵の誓いのひとつに、つぎのようなものがある。もし衆生が、自分の国へ生まれたいと願って、自分の名を呼ぶことがあれば、その衆生がいかなる人間であっても、自分の国へと迎えとって仏とする、と。本願念仏とは、この誓いに基づく念仏のことなのである。
 不思議なことだが、この物語を記す『無量寿経』には、我が名を呼ぶものは云々、と明確には記されていない。それを明確にし、『無量寿経』の誓いの言葉を書きかえたのは、中国の善導であった。法然は、この善導に傾倒することで専修念仏の教えを開く。」

 善導という名前は歎異抄にも出てきて覚えたいましたが、どういう人かは知らなかった。

「日本人は、法然の本願念仏によってはじめて、道徳、倫理など世俗の一切の価値から超越した、『宗教』というものを手にすることになったのである。」

 ふ〜ん。

 兼好法師は法然上人と同時代の人なんですね。

 法然 1133−1212
 吉田兼好 1283頃−1352年以降 あれ、違うじゃん。 

 「徒然草」第三十九段。

「ある人、法然上人に、『念仏の時、睡りにおかされて行を怠り侍る事、いかがしてこの障りを止め侍らん』と申しければ、『目の醒めたらんほど、念仏し給え』と答えられたりける、いと尊かりけり。また、『往生は、一定と思えば一定、不定と思えば不定なり』と言われけり。これも尊し。」

「前者のエピソードは、法然の念仏が、昔からの苦行主義と全く異なる世界のものであることをはっきり示しているし、後者は、法然浄土教において、〈信〉がいかに重要な意味を持っているかを示してあまりあるからである。」

 著者は(日本に限らないが)古代以来、神を祭るには、苦行や「もの忌み」、精進潔斎によって神を迎えるのに相応しい心身の状態になることが必要とされてきたと言う。なるほど私にだってその感覚はあるかもしれない。修行するのがえらいんだみたいな。

 熊谷次郎直実(一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取った)は、(自分は多くの人を殺しているので)死後極楽浄土へ生まれるためには切腹を厭わない、という意気込みで法然上人に会い、必死で「後生」を問いただす。

「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」(井川定慶集「法然上人伝全集」)

 そうか。もちろんこれはよく誤解されるように「だからいくらでも殺人していいのだ」という話ではないわけで。

「大胡太郎実秀にあてた手紙も、そのような疑問(道徳上の徳分を積み、写経や布施、供養、『法華経』を読む等は往生とどう関わるのか)に法然が答えた一つである。主旨を意訳しながら、法然の考えをうかがってみよう。

『本願念仏では、罪を作ったひとでさえ、念仏するならば救われるらしい。それならば「法華経」を読み、さらに念仏するならば、これは往生疑いないことになるではないか。どうして「法華経」を読むことが、不都合なことといえるであろうか』。このようにいう人々は、私のいる都でもすくなくありません。一見もっともなことに思われますが、中国の善導大師も、阿弥陀仏の誓いに相応する行だけが、往生の正しい道であり、そのほかはいかに尊くみえる行であっても、阿弥陀仏がきらわれる道だとのべておられます。大体、阿弥陀仏がおすすめになっている念仏の道でさえ、われらには辛いこともあるのに、どうして阿弥陀仏がおすすめにもなっていない行を付加えることができましょうか。
 それにしても、罪をつくった人でも往生できるという以上、まして『法華経』を読むということは善いことなのだから、それがいけないはずはないというのは、まったく見苦しいことです。往生の助けになってはじめて素晴らしい行と言えるのに、妨げにならないというだけで往生の行に加えようというのは、最上と言えるでしょうか。」

「『法華経』読誦を、悪をつくることと比較して、専修念仏では悪をつくることが問題にならないのだから、『法華経』読誦が往生の障りになるはずはないと主張することはまったく不都合なことです。阿弥陀仏の深い教えも、自分に都合よく解釈する人にあっては、かえってものたりないものに聞こえるのは、本当に嘆かわしいことです。」

 なるほど。まあ、これでは「『法華経』を読むことを勧める人」たちからは攻撃される言葉ではあります。でも「善いことだからと行って、勧めるというもんでもない」という考え方は好きな考え方だなあ。でもってこの手紙は「『法華経』を読むことを勧める人」宛てのものではなく「念仏を通じて極楽往生したい人」宛てというのがポイントやろな。

「『善人』は、世間のさまざまな善の実践には自信がある。おのずと何ごとにつけても、自らの力を判断の基準とする。本願念仏についても、そこにこめられている阿弥陀仏の慈悲を理解せず、自分のできる善行の一つとみなしてしまっているのだ。」

 ここらへんは親鸞上人も「教行信証」の中でどこかで三千回の念仏をしようと思ったけど、そう考えることが結局自力の考えだと気づいてやめた、とかいうのがあったな。

「(法然は法敵といえどもその人格の高潔さを敬う)その法然が、生涯を凡夫の自覚のうちにすごしたのである。」

「凡夫と申す二の文字をば、狂酔のごとしと弘法大師釈したまへり。げに凡夫の心は、物ぐるひ、酒に酔ひたるがごとくして、善悪につけて、思ひさだめたることなし。一時に煩悩百たびまじはりて、善悪みだれやすければ、いづれの行なりとも、わがちからにては行じがたし。」(「日本思想大系10・法然 一遍」)

 ここらあたりも親鸞上人が唯円の書いた「歎異抄」第二条の中で

「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存 知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、 かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。」

 あたりを思い出すなあ。kingstone訳をすれば「世の中に、いい考え方を知ってるえらい人はいっぱいおる。そういう人に聞いてね。私はこれしかできませんねん」

 他のいいことも「認めて」るけど、私はこれしかできませんねん、という感じね。

 法然上人が大胡太郎実秀にあてた手紙の続き。

「われら凡夫は、悪をつくろうと思って悪いことをするのではありません。凡夫の習いで、その時々の迷いに引かれて悪をつくってしまうのです。それは、われらの力の及ばぬことなのです。同じように、どうしても『法華経』を読みたい、阿弥陀仏がすすめておられない行をも加えたいというのであれば、それはもうわれらの力の及ぶところではありません。ただし、『法華経』を読むことと、悪をつくることを、同じようにあつかうのは、まったくあさましいかぎりです。」

 「力の及ぶところではありません」ってのいいな。強く反対するようなもんじゃない、ということだから。しかしその後ろ・・・「あさまし」が今と違う意味かと大辞林で古語のところを見てみたけど

@意外だ。あきれる。驚くべきさまだ。
「取りがたき物をかく―・しくもて来る事をねたく思ひ」〈竹取〉
A興ざめである。がっかりして、あきれかえる。
「物うちこぼしたる心地いと―・し」〈枕・九七〉
Bあまりにもひどい。程度がはなはだしい。
「―・しく貧しき山国にて」〈読・春雨・海賊〉

ってことで、あまりいい意味じゃないか。これは「『法華経』を読む人」に喧嘩を売ってる感じになるのかなあ。

「日本の精神風土に適した宗教のわけかたとして、私は、自然宗教と創唱宗教をいつも採用する。自然宗教とは、特定の教祖や教義、教団はないが、ムラのなかで、長い年月をかけていつのまにかできあがった、カミ崇拝、カミ祭りであり、後者には、仏教やキリスト教、イスラム教のように、教祖がいて、教義があり信者がいて、教団組織がある。日本には数多くの創唱宗教もあるが、自然宗教の影響が著しい。神道は、自然宗教そのものではなく、特定のイデオロギーにたってそれを再構築したものだ。」

 最後の神道の説明は、国家神道のことを主として言ってはるのかな。

 法然上人の神祇不拝(呪術の否定)

「されば念仏を信じて往生を願ふ人、ことさらに悪魔を払わんために、よろづの仏、神に祈りをもし、つつしみをもすることは、なじかはあるべき。」(「浄土宗略抄」、「定本・法然上人全集」第七巻)

「『悪魔を払う』とは、この世において種々の災難を生じせしめる原因と考えられていた『悪鬼・悪神』を払うこと。『つつしみをする』ということは、精進潔斎をして戒慎、忌み籠もりすることであろう。」

 それと「人間は宿業に縛られた存在である」

 この業というのは「親の因果が子に報い」とか「祖先が悪いことをしたのでその業が」とかいうのとは違うみたい。

「そもそも、業の結果は、その業の原因をつくった本人以外に引き受ける者はだれもいない。ある人間が作った業の結果は、その人間が引き受けるのである。それは、インド以来の業思想がもつ冷厳な主張である。神仏といえども、その業を肩代わりすることはできない。人々は、おのれの業を尽くして生きていくしかない。阿弥陀仏は、このような人間に慈悲を注いでいるのである。」

 ここまできっぱりすると清々しいというか。

「宿業については、誤解のないようにしておかなければならない。というのも、しばしば、それは運命論とかあきらめと同じ意味で使われるからである。」

「そして、一度本願にであうと、宿業は断ち切られて、精神は自由に満ちあふれる。これが専修念仏の信心にほかならない。
 『歎異抄』の言葉でいえば、『念仏者は無礙の一道なり』である。念仏者の行く道をさえぎり妨害するものはなにもない。いまさら諸仏、諸神になにを祈る必要があるというのであろうか。
 さきの章でみたように、古代から今日にいたるまで、日本人の多くは、身近な神を否定することなく、むしろそれを通路として、あるいは仲立ちとして、より普遍的な、あるいはより大きな神と近づく回路を大切にしてきたといえる。それは、キリスト教に代表される一神教からみれば、雑多な信仰心のようにみえるが、特殊と普遍を組み合わせた、それなりの秩序意識に支えられており、決して雑多ではない。しかしながら、このような日本人の宗教意識のなかにあって、法然の教えは、阿弥陀仏のみを信じるという点で、きわめて異質なのである。」

「法然の専修念仏が、日本人の間に伝えられてきた宗教的常識に与えた衝撃は、すでに見てきたように大変強くまた深いものがあった。(中略)そこからは二つの重要な結果が生み出されたように思われる。
 一つは、道徳的抑圧からの解放であり、二つは、呪術からの解放である。」

 宗教と道徳って一体のものと思えるけれど、それがついつい行きすぎて強迫観念や抑圧になることがあるもんな。でも何やってもいいってんじゃなくて

「ただ詮ずるところは、まめやかに(忠実に)仏の御心にかなはんことを思ひて、内に誠をおこして、外相(そとづら)をば機嫌(その時、その場の状況)にしたがふべきなり。機嫌にしたがふがよきことなればとて、やがて(そのまま)内心の誠も破るるまでふるまはば、また至誠心欠けたる心になりぬべし。」(「浄土宗略抄」)

 「内に誠を起こして」ではあるけれど「機嫌にしたがふ」と言ってはる。「機嫌にしたがふ」は、何て言うか「現実(ありよう)を否定しない」というか「他人を否定しない」というか、これは言い過ぎになるかもだけど「長いものに巻かれて」も場合によってはいい(内に誠がある範囲でだけど)くらいの感じではないのかな。

 まあしかし法然上人没後五十年にして日蓮上人は批判します。

 日蓮上人としては当然のことながら「『法華経』を大事にしない」という点で。当時の天変地異、大飢饉、疫病の流行はそのせいであるとして「立正安国論」を書きます。そして浄土はあの世にあるのではなく、この世が浄土であるとして。

「本地久成の円仏(永遠の仏である釈迦如来)はこの世界にましませり。この土を捨てていずれの土を願うべきや。故に法華・涅槃を修行する者の処は浄土と想うべし。何ぞ煩はしく他処を求めんや。」(「守護国家論」、「日本思想大系」14)

 このような浄土感を「娑婆即寂光土」という。

 ふむ。法然上人もすごく現世肯定な感じがするのだけど、確かに死後西方浄土で往生する、ということで、日蓮上人の場合は、もう生きながら往生する、と言うことか。まあ、理想的な世の中になっていないので変革していく、ということらしいけど。

 本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558−1637))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家で法華信仰の人。この「娑婆即寂光土」の実践が鷹ヶ峯の共同生活の実践。

 法然上人に話を戻して

1204年、1205年 延暦寺・興福寺からの訴えをきっかけとして迫害
1207年(承元元)法然・親鸞ら流罪

 法然上人は、自分たちを迫害、非難する人に対して、かれらと争うことはくれぐれもないように、といろいろな人に手紙を送っている。また親鸞上人は

「この念仏する人をにくみ、そしる人をも、にくみそしることあるべからず、あはれみをなし、かなしむこころをもつべしとこそ、聖人(法然のこと)はおほせごとありしか。」(「御消息集」、「日本古典文学大系」82)

「『法然上人行状絵図』は、現存する絵巻物のなかでは最長(584m)」どへーっ。

 一遍上人 1239-1289

 熊野に参詣する途中に一遍上人がある僧に札を差し出したところ、「信心が起こらないから受け取れない」と言われた。

「一遍が配った念仏札は、良忍(1073-1132)によってはじめられた『融通念仏』の『名帳』の変形といわれる。『融通念仏』とは、特定の教派をさすのではなく、念仏の合唱によってその功徳を相互に融通しあう『うたごえ運動』であり、『名帳』とは、その際参加者がその名前を記したノートなのである。名前を記すことによって、それぞれの念仏が時間と空間をこえた有効性を発揮すると考えられた。一遍が、札を配ったのも、数多くの念仏を集めてお互いの往生を確実なものにしようとする『融通念仏』の方法に学んだことといえる。」

 ?単に私の学生時代とかだったら「ディスコ」であったり今だったら「クラブ」であったり、そして札は「お札」と考えればいいのじゃないのかな・・・いわゆる「お札」とはちょっと違うか。「お札」は霊験を求めて信者が買い求めるけど一遍上人の場合は無料でどちらかというと上人自身の法悦のため、という感じがある。

 熊野権現が一遍上人にのべた神託。

「融通念仏をすすめている聖よ、あなたの念仏の勧め方はよくありません。あなたの勧めによって、人が往生するのではありません。一切衆生の往生は、はるかな昔に、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と称えるものを救いとると約束されたことによって決まっているのです。ですから、相手の信・不信にかかわらず、また、浄・不浄を問題とせずに、その札を配るのがよいのです。」

 本地垂迹説の流布によってでしょうが、神様が僧に神託を出すわけですね。

 神祇不拝について

「もとより、法然は、『神祇不拝』を第一義に主張したのではない。『神祇不拝』は、あくまでも『専修』の結果なのであった。法然自身は、さきにもふれたように、諸仏・諸神を積極的に無視せよとは教えていない。のちのことだが親鸞は、専修念仏の弾圧のなかで、諸神を侮ることがないようにと、同朋をしばしば諫めてもいる。だが、『神祇不拝』は、専修念仏の旗印ともなっていたのであり、日本人の精神史に重大な衝撃を与えることになった。つまり、日本人は、法然の出現によってはじめて、伝来の神、およびそれと習合した仏教のあり方を、原理的に否定することになったのである。
 だが、法然の生きていた時代は、すでに神仏習合とか本地垂迹とよばれる神仏一体論が、牢固とした体制をつくりだしており、『神祇不拝』を必然的にともなう専修念仏は、強い反発を受けることになった。」

「しかし、皮肉なことに、専修念仏がひろがり、『神祇不拝』がもりあがってくると、それを否定する本地垂迹説も強化され、またあらたに神道論が勃興してくることになった。そして、『神祇不拝』論は、一層はげしく封じられるようになり、専修念仏も、おりしも教団を形成してくる段階にあって、自ら神祇との妥協をはかるようになってくる。」

 一遍上人は専修念仏の系譜で語られることが多いが

「だが、一遍の浄土教は、専修念仏の影響を深く受けているが、専修念仏の範疇にいれることはできない。なぜなら、一遍は自ら語っているように、平安時代中期に生きた空也(903-972)や、また融通念仏を主宰した良忍の系譜に連なる人物であったからである。」

「『空也誄』によると、諸国を遊歴していた青年の頃は、荒野に放置されていた死骸があれば、油を注いで焼き、阿弥陀仏の名をさずけて弔うことを常としていたといわれる。」

「空也は、このような(怨霊退散、疫病などの悪霊を都の外へ送り出す)要求にこたえ、怨霊の鎮魂、鎮送の手段として、『踊り念仏』を積極的に実行した。人々は念仏をとなえながら乱舞したのである。その際の念仏は、いうまでもなく、法然の本願念仏とはまったく異なる鎮魂慰霊の呪文であり、激しい乱舞は、『悪霊を攘却するもっとも原始的な呪術』(五来重『踊り念仏』)にほかならなかった。」

「(一遍の)その信仰内容は、修験道や、『法華経』、浄土教、密教など多岐にわたっているが、苦行を第一とする生き方は共通しており、その生活形態も、多くは隠遁、あるいは漂泊、遊行、時に妻帯することにおいて軌を一にしていた。」

 隠遁や漂泊、遊行なんかも苦行に入るのか。

「とくに融通念仏は、寄付を募る手段として有効であったので、多くの神社は、融通念仏のヒジリに造営や改修を依頼することになった。」

 寄付を募る手段としてダンスパーティーをするってことですね。あとお札配りも。

「このようなヒジリを尊重する風潮は、きわめて強固であり、法然を開祖とする初期浄土教団自体においても、法然の高弟で浄土宗第二祖となった弁阿の時代に早くもその兆しが生じている。つまり、弁阿は、念仏を正しく伝えていこうとするあまり、信者たちに証明の手印を発行することになるが、それは、証明者である僧侶の権威をいやがうえにも高めることになり、結果的には、専修念仏の僧侶は、浄土とこの世を仲介するヒジリの再来となってしまったのである。」

 資格商法というか、家元制というか、お札?免罪符?

 一遍上人と法然上人の違い。

「第一は、一遍にあっては、本願を信じることよりも、『南無阿弥陀仏』という名号を称える方が重要とされている。」

「第二は、一遍が、一切を捨てることを往生の条件だと考えている点である。法然は、果たして一切を捨てて執着心を断じなければ浄土往生できないと教えたであろうか。否、である。法然は、本願念仏は、煩悩を断じることのできない凡夫のためであることを主張したのであった。」

 神仏一体論の新展開

「『沙石集』(1283成立)の巻第一に、神の本質が仏と同じ慈悲にあることを述べた一連の説話がある。(中略)常観坊という僧が、吉野に参詣する途中、母親を亡くして途方にくれている子どもを哀れにおもい、死穢をもいとわず、葬式をしてやった。物詣でには、厳重な精進潔斎が必要であり、死穢がついた以上は参詣を止めようとしたが、家のある方向に進もうとしても、身がすくんで歩けず、かえって吉野の方角に向かうと歩けるので、そのまま進んだ。近くまできた時、遠慮がちに神に経を手向けていると、神懸かりした巫女があらわれて、『遅かったぞ。待っていたのだ。私は物を忌むことはしない。慈悲を一番大切に考えているのだ』といって、衣の袖をひいて拝殿につれていった、というのである。」

 本覚思想。平安時代の院政期以来発達してくる、天台思想。

「あえて簡単にいってしまえば、人間はもともと仏であったという考え方である。それは、いろいろ修行を積み重ねて始めて悟りに達することができるという、『始覚』とよばれる考え方と対をなしている。極端にいえば、本覚思想では、一切の修行は不要ということになる。なぜなら、人はもともと仏なのであるから。ただそのことに気付いていないだけなのである。したがって、もし自分の中の仏性に気がつけば、自己のいかなるあり方も、仏のあり方として肯定されることになる。そこでは、悪もまた真理の一つのあり方として肯定されるにいたる。
 しかも、仏性の存在は、人間に限らない。『草木・瓦礫・山河・大地・大海・虚空』もまた仏なのである。(『真如観』、『日本思想大系』9)」

「本覚思想においては、生と死、悟りと煩悩、仏と人間、この世とあの世、といった、日常の論理では同一化できないカテゴリーを、いともたやすく融合してしまう傾向が強い。むつかしくいえば、本覚思想とは、相即の論理なのである。相即とは、相対立する二つの概念が、矛盾しつつ融合し、一つの真理の裏表となってしまうことである。さきに、日蓮の浄土論に関して『娑婆即寂光土』という考え方を紹介したが、そこにみられる『即』こそ、その好例であろう。
 法然の浄土教には、しかしながら、このような相即の論理は皆無である。」

「ついでに触れておけば、親鸞には『生死即涅槃』、『不断煩悩得涅槃』、『円融』など、相即の論理が目につく。」

「(最澄と、法相宗学者の徳一との論戦で)徳一の論戦を正面から受けて出発した日本天台は、はじめから『悉有仏性』の立場に立っていたのである。その具体的展開が本覚思想だと言えよう。」

 ノートがえらく長くなってきたから一度アップするか。


posted by kingstone at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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