小学校担任だった頃。
はっきり言って、小学校担任としての私の授業技術は低かったです。それなりに一生懸命、研修や研究授業にも取り組んではいましたが。
尊敬する先輩はよく私に「授業はね、いい授業を見て、それから自分の授業を見て貰って、でいっぱい教えてもらうことだよ」と言ってました。ほんまその通りです。自分で実践し、その上で周りからご意見を頂く。
まあ、私も研究授業以外では見て頂く機会は作らなかったと思いますが。できれば進んでそういう機会を持つべきだったなあ、と思います。
たぶん当時の小学校の通常学級での授業のイメージはこんな感じ。(今はどうかわかりませんが)
国語の場合かな。
教師が前に立つ。みんなで本を読む。教師が板書。子ども視写。教師発問。子ども考える。いろんな意見が出る。教師は整理・まとめて板書。発問から板書までを3回ほど繰り返す。子どもその時間のまとめをする。
もちろん、漢字小テストやプリントなども入ることもあります。
様々な視聴覚教材も使います。
だいたい研究授業なんかだったらこんな感じかな。まあ直接にしろ間接にしろ子どもたちと関わり続けているか。
でもいろんな授業があります。
ある先輩。この先生もすごい先生です。子どもたちにわかりやすい授業をされてました。表情はたいてい口をへの字にして、ちょっと怖そうな雰囲気を出してはりましたが、まあ演技です。
ある時、こんなことを言われました。
「さっきの理科の時間(2時間続き)、子どもたちに実験させてずっと事務しとった(○つけしとった、だったかな)」
ああ、その授業見たかったな、と思いました。
その先生のおっしゃり方だと外部の人は怒り出すかもしれません。
しかし実のところその先生は理科の時間の前に準備してはります。機材の準備は時間に入ってから、音声言語の指示で子どもたちにやらせているかもしれません。それは子どもたちにどこに何があるかわかるからできること。そして板書かプリント・教科書などで実験のやり方を伝え、結果を予測させ、その後、グループ(たぶん6人グループぐらい)で「勝手に」実験させています。終わったら結果を書き、わかったこと考えたことを書くプリントも渡しているはず。
だからこそ、途中で事務仕事とか○つけとかやっても大丈夫なんですね。わからないこと、困ったことがあれば子どもたちは聞きに来るはず。
ほんとその授業、見たかったです。
これも大切な授業技術です。
で、もしサポートの必要なお子さんがいたとしたら、その間にサポートに入ることも可能です。って言ってもずっとついてなきゃなんないわけじゃないでしょう。できるだけ子どもだけでできるようにサポートすればいいのですから。まあ、そうなると事務仕事や○つけはできなくなるかもしれませんが。
これって、特別支援学校や特別支援学級の自立課題学習なんかも同じかもしれません。
先日ハルヤンネさんが面白いことを書いてはりました。
メルマガの感想(10月24日分)
この中で「ひとりでするやりやすいシステム」という名前に変えたら、と書かれてます。
なるほど「ひとりでできる」とか通常学級だったら「子どもたちでできる」ですね。
確かに「自立課題学習」は教師側の名付けですね。でもまあ、大昔、自立課題学習という名前を周囲の先生方は誰も知らず、仲間たちのホームページにリンクを貼りあって、何とか情報交換しようと思っていた時代がありました。今「自立課題」とか「自立課題学習」とかで検索したら、すごくたくさんのホームページがヒットするのに隔世の感があります。折角ここまで名前が広がったのだから、という思いもあります。
でも名前のつけかたが大事、ってのもあるなあ。
昔特別支援学校の学習の大事なカテゴリーが「養護・訓練」であったのが「自立活動」に変わって、新しく学ぶ教師の意識がだいぶ変わりました。(古い教師の意識は変わらなかったりする)
肢体不自由特別支援学校の「訓練」の時間が「動作の学習」などに変わって、これまただいぶ新しく学ぶ教師の意識が変わりました。(これまた・・・)
今で言えば「療育」これは「治療教育」という言葉が縮まったものだから、本来意味がおかしいのだ、という気もします。何かいい言葉があったらいいですのにね。まあ「教育」とか「特別支援教育」でいいのかもしれない。
で、そんな「ひとりでできる」や「子どもたちでできる」が広がったら、人手って、それほどやいのやいの言うほど必要でないかもしれません。ってか、できないことを無理にやらせようとしているから人手がかかるんでないか??
ちょうどそこらへんの話を、こないだハルヤンネさんも書いてはりました。
「な〜んだ?」
だから私はこんな意見を書くわけです。
特別支援教育とお金