※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2010年10月27日

宮澤賢治と幻の恋人---澤田キヌを追って 澤村修治著

 図書館で借りて来ました。

 今日が返却期限で、読めてなかったので、図書館に行って、カウンター前で閉館時刻までねばって何とか目を通しました。

宮澤賢治と幻の恋人---澤田キヌを追って/澤村 修治

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 宮澤賢治も坂本龍馬も不思議な人気があります。どちらも「えらいさん」になったわけではなく、結構「困った人」だったような気もするし、夭折してもいるし。でも夭折したから人気があるのかな。二人とも、1日ごとの行動が逐一調べられ上げているらしい。

 単なるミーハーと言うか、ゴシップ好きというか、そういう興味で読みました。宮澤賢治の女性関係って全然知りませんでしたから。

 賢治が関わった(らしいも含めて)女性が調べてあります。

1.1914 高橋ミネ(賢治17歳。岩手病院入院時に看護実習生としていた。賢治の片思い。自分の親に「結婚させてくれ」と言った。無理だった。)

2.1921 澤田キヌ(賢治24歳。看護婦養成所生徒。教え子澤田利衛の姉。賢治が恋文を送ったが澤田家を激怒させる)

3.1922 大畠ヤス子(賢治25歳。友達の妹。)

4.1927頃〜1930頃 高瀬露(賢治30歳頃。小学校教師。羅須地人協会をやっていた賢治に恋心を抱き「押しかけて」来ていたが賢治はうとましく思っていたよう)

5.1928 伊藤チヱ(賢治31歳。伊豆大島の人。賢治の所に見合いのような形で来、賢治も伊豆大島まで合いに行っている。結婚も意識したが、賢治が病気になったために、賢治の方で諦めたよう)

6.1931頃? 木村杲子(こうこ)(賢治32歳頃?13歳下。上野音楽学校卒業後音楽教師。夭折)

 あれ?7人載ってたような気がしたが・・・

 賢治は1896年に生まれて1933年に亡くなっています。

 賢治が澤田キヌに恋文を書き積極的に近寄ろうとした時、賢治は「とんでもないやつ」と思われたみたいだし、賢治に押しかけて来ようとした高瀬露はやはり「とんでもない女」と思われたみたいですし、当時、地方では恋愛感情を持って積極的に近づくなんて「いけない」ことだったんでしょうね。お見合いが唯一の結婚の手段だ、みたいな。


 エピソードいくつか。

 澤田利衛氏の妻、アイは小学校に勤務していた。その頃、よく賢治がリュック姿でピッケルを持ち変な歌を歌って歩いていた。当時の小学校の校長から
「ついて行かないように、子どもたちに注意があった」

 不審者という言葉が無かった時代に、不審者だったわけですね。

 1931年に語った言葉。

「禁欲はけっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです」
「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきり無駄でした」


 「雨ニモマケズ」は占領下の国語教科書にも載った。しかし「一日ニ玄米四合ト」の部分が「三合ト」に書き換えられていた。それは当時の米の配給が一日二合五勺だったため。


 なお、澤田キヌさんは三度応召しており、1943年4月15日に看護婦長として漢口に赴く。敗戦後も現地に留まって仕事をしていたが、1946年2月、発疹チフスで亡くなる。

 あと賢治もですが、周囲の人がバタバタと結核で死んでいきます。

 JIN−仁− の中でもうすぐ亡くなる緒方洪庵先生が仁に
「未来は労咳の治る時代になっておりますか」というシーンが思い出されます。


posted by kingstone at 21:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
1 ■宮澤賢治は...
 家の裏の森でクラシックのレコードをかけてフンドシ一つで踊って詩の着想を得ようとしていたといいますから現代の基準でも「アブナい人」です。家が資産家だったため、宮澤賢治の買うレコードだけでレコードやさんが商売成り立ったというくらい買ったそうです。<br /><br />&gt;、当時、地方では恋愛感情を持って積極的に近づくなんて「いけない」<br /><br /> それは現代人の感覚です。「家」というのが今より意味があった時代、宮澤賢治は名家の息子としてそれなりの格式を持った嫁をもらうことが必要だし、小学校教師の女性なら校長あたりから勧められた見合いで結婚した方が実質的に「幸せ度」が高かったのです。この時代だって貧乏人は自由恋愛ですよ。格式関係ないから。でそういうのは「犬コロと同じ」と、多くの人が思っていたわけです。<br /> つまり「いけない」んじゃなく「ありえない」。<br /><br />&gt;一日ニ玄米四合ト<br /><br /> これは「せめてこれくらい食べることができれば満足です」という内容なので、昭和初期の日本人は一日に四合以上食べるのは当たり前だったようです。もちろん、おかずは漬け物数片とみそ汁程度だったでしょうが。今の普通の日本人で一日四合は無理でしょう。大食漢の部類に入ります。<br /><br />&gt;周囲の人がバタバタと結核で死んでいきます<br /><br /> 同盟国だったナチスドイツは当時すでに結核を過去の病気にしつつありました。日本では結核は今でも先進国では高い割合の国です。</p>
Posted by もずらいと at 2010年10月28日 20:19
2 ■Re:宮澤賢治は...
>もずらいとさん<br /><br />|現代の基準でも「アブナい人」です。<br /><br />そうみたいですねえ。<br /><br />|この時代だって貧乏人は自由恋愛ですよ。<br /><br />あっ、そうかあ。<br /><br />|ナチスドイツは当時すでに結核を過去の病気にしつつありました。<br /><br />もずらいとさんのコメントで興味を持ってちょっとだけググってみましたが、治療の歴史年代がわかるページに行き当たりませんでした。残念。<br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/
Posted by kingstone at 2010年10月28日 23:34
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