知的障害特別支援学校にいた頃。
○○さん、どうもです。
kingstoneです。
>こんばんは、○○です。kingstone先生に研究会のプリントコピーのお礼を
お手元に渡って良かったです。(ニコ)
なお、あれは印刷です。だからコピーより随分安く、かつ早くできてます。
○○さんの個人のことは置いといて、一般論で。
>でも、本当にADHDだったら・・・、障害者が、障害児を育てるという、世にも珍しい
>事態になりますね。うーん、どうなるんだろう・・・?
全然、珍しくもなんともないです。
非常によくあることだと思います。
もちろん、ADHDやLDに関しては、今までは「診断」を受けて来なかった方がほとんどだろうし、本人も周囲も障害(?あるいは診断名がつく?)とは思っていなかったけど、でもあえて診断してみりゃ、障害のある方が障害のあるお子さんを育てるってのはいっぱいあると思います。
(身体障害の方だったらもっとわかりやすいですね)
しかし「障害」っつう言葉もなんかなあ、とは思いますね。
ADHDにしろLDにしろ、昔だったら「ちょっと変わったやつ」くらいでそのまま大きくなり、育つに連れてそれなりに社会に適応していくから、またある部分で才能を発揮したりするから、社会的に受け入れられて来たと思うのね。
それが、だんだん「問題」になってくるってのは、何でなんでしょうね。
うーん、やっぱり本人さんたちの苦しみがあり、わかって楽になる部分があり、ということもあるだろうし、また子どもの世界は、結構一面的で暮らしにくくなってる、みたいなところもあるんだろうか。
>主人にも「何も言わんとこれ見て」と、ビデオを見せました。
>主人曰く、「お前そのものやん」。そのあと、2人で話をしたんですが、
>話せば話すほど、私もADHDなんじゃないかという疑問がわいてきました。
まあ、正しく診断できる人がどれだけいるか、その人たちを探して診断して頂くのと、自分で「そうだろうな」と思って、□□さんが書かれているように「対策」をしていくのと、どっちが楽かなあ、というコストパフォーマンス(費用対効果)の問題かな。
診断をしてもらわなきゃ、対策を講じられない、というもんでもないし。
で、これらって実は「自閉症」と言うか、言わないか、という問題とも関連して来ますね。
別に「自閉症」と誰かを言うのは、相手を「障害者」としてのけ者にするためじゃないですね。どんな「支援」をしたらいいか考えるためです。そしてそのために「自閉症」という診断名は大切なのでした。
それによって「彼らはさぼりやなまけじゃない。わからないからできないだけなんだ。どう支援したらいいか考えよう」というわけですね。
もしADHDの方がいらしたら「今まで、周囲から「だらしない」とか「なまけてかたづけない」とか言われていたけど、実は障害ゆえだったんだ。どう支援してもらったらいいか考えよう。対策を考えよう」と思えば、結構気楽になりません??
でもねえ・・・片づけってさ、ADHDかどうかだけじゃなく、動いている物や情報の量と、自分で処理できる量の問題もあるんじゃないかなあ。
まあ、私も「のびた型」あるいは「トットちゃん型」のADHDなのかもしれないけれど、私の部屋が片づかないのは、入ってくる物や情報の量が多すぎるからだと思うのね。私の能力でも入ってくる量が少なければ何とかなると思うのだけど・・・(ドナさんがサングラスをして町に出るのと同じですよね)
昔に比べて人生の選択肢が減ったからでしょう。中卒で職人とか農業がはるかに多く,毎年同じような琴の繰り返しだったりと,人生が多岐にわたっていた時代なら発達障害はどこかに住み処があってなんとかなったのでしょう。<br /> 誰もが「せめて大学は」「汗まみれに働くんじゃなくて」と志向するようになったから顕在化したのだと思います。</p>
>もずらいとさん<br /><br />|昔に比べて人生の選択肢が減ったからでしょう。<br /><br />やっぱりそうなのかなあ。<br /><br />だとすると突破口はどこになるのかなあ。<br /><br /></p>
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