この本は持っているはずなのですが、見つからないので図書館から借りて来ました。すごく読まれているようです。バラバラになっている部分もあるし、しみもついてるし、匂ってきそう。
治療文化論―精神医学的再構築の試み (同時代ライブラリー)/中井 久夫
¥1,155
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P193 追記というか注というか、小さな活字の部分です。イエスの治療を考察した部分。
「手かざしにしても−−−。てのひらのすぐ下の身体に何か防衛的な反応が起こってもふしぎではないだろう。私は、ある父兄から相談を受けたことがあった。ジル・ドゥ・ラ・トゥレット症候群といって、四捨五入すれば多発性全身性チックである。手かざしの治療はどうかと、申し込まれたというのであった。私は、
『自分がまず受けてみよう』と答えた。この病にはハロペリドールが特効薬であるとはいえ、発作をまったく抑えてしまうと苦しいので、少しチックを出させて下さいと患者は言っていた。それに、陸上ではまっすぐな歩行もむつかしいこの少年が三キロの遠泳をやってのけ、その途中いちども、もし発作が起こったら危ないとは、頭の隅にも浮かばなかったということを思い合わせた。大気圧とはちがうところに何か全身運動のつり合い点があるのだろう−−−。
結局、私は『やってみて下さい』と治療師に言った。結果はみごとなもので一年後ではあるがハロペリドールは不要になり、クロキサゾラムだけで十分ということになった。
その年の暮、私は治療師に二度目の年賀状を出した。御子息から返事が来て、父君は亡くなられたとのことであった。『東大の先生にも治せなかった病いを治した』と喜ばれたその六十何歳かの老治療師は、手かざしに代えて日本刀の刃をかざす治療を試みられて日もなく突然死を遂げられたとのことであった。この物語には、汲めども尽きせぬ教訓があるだろう。やはり、日本刀とは、どのような地上の人にとっても、あまりのことではあるまいか。イエスもそれはなさらなかった」
この「あまりのことではあるまいか」という感覚。すごく大事なのだろうと思います。
「教育」とか「指導」とか「療育」あるいは「治療」にしても。
教師、特に知的障害特別支援学校の教師の方、この感覚がずれて来てなければいいのですが。
ってね、自閉症の人に視覚支援を使ったり、代替コミュニケーション(名前は似てますが、代替療法とは全然違います)を使って表現してもらったりすることを「あまりのことではあるまいか」と感じる人がいて、話はややっこしくなりますが。
この「治療文化論」天理教の教祖、中山ミキさん(生まれた場所は中井さんの生まれ育った場所に近いらしい)についての考察の部分で有名ですが、他のどこをとっても「置くあたわず」状態になってしまいます。早く見つけ出したいなあ。