高機能自閉症児を育てる (小学館101新書)/高橋 和子
¥777
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帯にでっかく赤字で「京都大学大学院前期課程在学中」という言葉があるのですが、「うちとは関係ないわ」と決めつけたりするのはめちゃもったいない本です。アスペルガー症候群のお子さんはもちろん、たぶん重度(?)な自閉症のお子さんや、他の発達障害のお子さんの保護者にも役に立つかも。
またこれを読んだからといって子供を「京大に入れるように育てられる」と思うのも間違い。その点は著者も触れられています。
簡にして要を得たブックレビューはこちらをご覧下さい。そらパパさんのブログです。
高機能自閉症児を育てる(クイックレビュー)
私はいつものダラダラ感想文。
はじめにから。
「Tが自閉症と分かり、私はいろいろな療育方法を学び、Tの支援をしてきました。しかし、何かひとつの方法で、魔法のようにTを救える方法はありませんでした。また、Tをひとつの療育法にのめり込んで支援することもしませんでした。何故ならば、子どもは一人ひとりが違っており、成長の仕方も異なるからです」
これは注釈がいるかもしれません。「ええとこどりすりゃええねん」と言われる方は、実は何も学んでないことが多いような気がします。
本文を読めば、幼稚園の生活の背景にはTEACCHが、幼稚園の遊びの中には感覚統合が、また高橋さんがはんぱでなくインリアルを学び実践されていたことがわかりますから。確かに高橋さんは「ええとこどり」をされているが、その一つ一つははんぱではないわけです。もちろん応用行動分析も常識として背景にあると推測できます。(あっ、推測じゃなく、後ろにABC分析も出てきてた)
もちろん、保護者にそれを要求するのは酷な話で、教師や支援者の方が学んで欲しいと思います。
「Tは、小学校時代、まるで他の男の子が、楽しんでロボットでも作るかのように、化学式を見ながら、分子モデルを作ることに夢中になった時期がありました。私は化学が大変苦手でしたかが、参考書を見たりTに教えてもらいながら、Tのわくわくする世界を私も楽しめるようになりました。子どもの楽しめることなら、どんなことでもよいのです。子どもと楽しむ子育てをお勧めします。」
化学ってのはなかなかですが、子どもが鉄道好きだから親も鉄道好きになった、とか、子どもがお笑い好きだから親もお笑い好きになった、とかいうのありますもんね。ほんま何でもいいと思うのです。(反社会的で無ければ)
第1章 自閉症と診断されるまで
小さい頃のことをよく覚えておられるけど、母子手帳とか日記に書いてはったのかな。出産翌日のこととか、生後1か月の「パンがゆ騒動」とか。
パンがゆ騒動というのは、4〜5か月の頃、母乳以外にいちご果汁とかはあげていたのだけど、ある日、母乳の後にパンがゆをあげたところ、激怒した、というもの。しかし、これが「嫌い」というのじゃなく何か違うように感じて、満足するまで果汁をあげてからパンがゆをあげたら食べることができた、というもの。つまり順序の問題かな?と思ったと。
その後、T君とうまく遊べなかったので、10か月頃に砂場で実験をされたと。この実験とは他の同じくらいのお子さんと遊んでみるというの。ひとり目の子どもに「ジャー」と言いながらバケツに砂を入れてみたところ、周囲の子どもたちがわっと集まって来たと。これはT君にないことだから「何かおかしいところがあるのではないか」と思われたと。
で市民病院の小児科に行きます。若い優しいお医者様が上手に関わって下さり、まず言ったことが、
「自閉症ではないと思いますが」
って、つまり「疑わしい」ことがあれこれあったということでしょうね。20年以上前。まだ自閉症という言葉を言ってはいけないというような常識があった頃ですから。
また主治医は替わり、自信満々の年配のお医者様になりますが、対応に失敗し、もう市民病院にかかれなくなります。高橋さんのいとこに医師が3人(耳鼻咽喉科・整形外科・内科)いたので診てもらう必要があるかどうか聞いてみたそう。回答は
「1歳3か月くらいで、今の状態なら医師に診てもらうような心配はないんじゃないか。もし自閉症だったとしても、3歳になるくらいまで何もすることはないよ」
20年以上前。確かに妥当なところでしょうね。
「ようやく、1歳半検診で、Tは将来発達に問題をもつ可能性がある子どもとしてキャッチされました」
明石市に住んでいた高橋さんは「にこにこ教室」という親子教室に3回通うことになります。しかし他の子はことばはなくてもやりとりでき、高橋さんは「自分たちだけが宇宙人であるかのような気分に陥りました」
また親子教室はこれで終わり、後は保健師さんの年2回の巡回になっていたとか。で、「にこにこ教室」に言語聴覚士(ST)さんが来てたのかな。そのSTさんに個人的に相談するのは初めてだったとか。(たぶん全体指導に来ておられたのか)
このSTさんは気をつかいつつも「自閉症」について説明します。高橋さんはこのSTさんに療育をお願いします。しかしもともと他都市のために「1〜2か月に1回くらいになり、療育というほどのことはできません。(中略)それでよければ、おいで下さい」とおっしゃいましたが、高橋さんは即座にお願いします。
このSTさん、あの人かこの人だなあ、と思います。2人のうちのどっちかだな・・・
「Tと私を担当してくださることになった言語聴覚士がとった方法は、後で私が学ぶことになるインリアルというアプローチでした」
ここも解説がいるかも。後ろを見るとインリアルでコミュニケーションしつつ「この子の喜ぶものを探しましょう」というところから始めた、ということのようです。
「すると、徐々に喜ぶ遊びができてき始めました。タオルブランコ(大判のタオルに子どもをのせ、ふたりの大人が両端を片方ずつ持ち上げ、ブランコのように左右に揺らす遊び)では、Tはとても喜びました。夫も施設へ同伴してくれたときなど、夫と私でTをタオルにのせ、ブランコをし、終わりに床にそってタオルにのせた息子を置いてやったときに、満面の笑みで私たちの顔を見たときのことは、今でも忘れられません」
一緒に遊べた!という実感。嬉しかったやろな、と思います。
そして高橋さんは神戸のジュンク堂で障害児教育・精神医学・心理学のコーナーで自閉症の概説本を探します。これには巻末の引用文献を見て、よく引用されている本ほど、信頼度が高くなるという探し方をしたそう。確かに書籍も(特に当時は!!)玉石混交(石が多い)でしたから、なかなかいい概説書にあたる、ということは難しかっただろうと思います。ただこの時点で
「一般の医学書では、自閉症の療育開始は3歳まで待つということになっていたようなのですが、当時、本で得られる限りの早い情報によると、早期発見、早期療育だと書いてありました。まだ3歳にはならないTに何かしてやれることはないのか。不安が募り、概説書をどんどん読み進めていきました。」
早期発見、早期療育とは言われていたけれど、じゃあどうしたらいいのか、を具体的に書いてある書物は少なかったはず。またあっても「訓練して普通に(?)しましょう」系が多かったのじゃないかと思います。今は??
「Tの2歳から3歳はさらに大変な時期でした。こだわりも強く、感覚過敏も顕著になってきて、音や視覚でも恐れるものが多かったのです。」
「Tが小児自閉症と確定診断を受けたのは2歳8か月のときです。
担当の保健師さんが、医療機関で診療拒否にあい続けているTのために、今も息子の主治医を努めてくださっている児童精神科医の白瀧貞昭先生(当時神戸大学助教授)を保健所へ呼んで、Tを診てもらえるようにはからってくれました。白瀧先生は、まだ日本語に翻訳されていなかった自閉症の評定尺度CARS(カーズ・小児自閉症評定尺度)の英語の文献を見ながら点数をつけていました。
(中略)
総合結果は、合計35点でした。評価が終わり、白瀧先生はカルテの上に美しい文字でAutism(自閉症)と書きました。私の位置からカルテの文字は逆さに見えましたが、それでも充分読めました。
(中略)
私が診断結果について分かっていることを白瀧先生は察知されたようで『そうですね、自閉症です。しかし知的な発達はそんなに遅れていないようです。希望が持てますよ』と説明されました。
(中略)
私はTが小児自閉症との確定診断を受け、正直なところ、やはりそうだったのかというショックも受けました。しかし、どちらかというと、診断がはっきりするまでの間の中途半端な1年余りの時間のほうが、ずっと苦しい思いをしました。Tの問題が自閉症だと正確に分かったことで、これから何をすべきか考えられると思うと、どこかすっきりした気分にもなりました。」
CARSはTEACCHで開発された自閉症診断(評価ではありません)のためのツールです。観察してチェックしていきます。
テストについて
自閉症「いい意味」「悪い意味」
さて自閉症とわかって
「市町村が違うと、支援状況が違います。私たちの住んでいた明石市では、当時知的障害児の就学前の支援はほとんどありませんでした。近隣の神戸市に住んでいたら、当時でも1歳半検診で発見された場合、公的療育はあったと思います。しかし、そういう情報すら、行政区分が違うと保健師さんでもあまり情報をもっていません」
地域による格差はあるでしょうね。しかし当時制度があったとしても?なことはいろいろありました。
この時点よりもっと後ですが、ある地域のある就学前施設では
就学前施設で
という状態でしたから。制度が整っていることとよい療育(?)が受けられることは別に考えないといけないですね。
「情報は上手に仕入れることです。近ごろはインターネットで情報を収集する機会も多いと思いますが、ネットには本当に正確な情報から危険な情報まで混在しています。わらにもすがりたい人は、危険な情報にすがってしまう可能性もあります。
また、ひとりで行動するだけではなく、仲間を見つけることも大切です。
私は「同じような子どもをもつ方と友だちになりたいので紹介してもらえませんか」と保健所に聞いてみたことがあるのですが、プライバシーにかかわるので教えられませんと言われてしまいました、今ならすでに活動している親の会などの団体を教えてもらえることもあると思います。」
ずっと後年、小学校6年生の自閉症のお子さんを持つ保護者にお会いした時に「日本自閉症協会」というものがあるのをご存知無かったことがありました。まあ自閉症協会も地域によって活動や考え方に差はありますが、「ある」ということを知るのは一応の基本だとは思うのですが。
第2章 幼稚園時代
ちょっと前後しますが
「当時京都の大学で非常勤講師をしていた夫は、明石の自宅からJR東海道線で通勤していました。ある日、帰宅途中に、乗車していた車両の網棚を見上げたら、そこに誰かが置いていった新聞があり、夫の目に『自閉症』という文字が入ったそうです。それで夫は新聞を手に取って見ると、例の日米自閉症シンポジウムの案内が載っていたとのことです。新聞が大阪版だったので、この情報が載っていたのでしょう。夫がその新聞を見ることがなければ、兵庫県に住んでいた私たちは、木島幼稚園のことを知ることもなかったでしょう」
「『日米自閉症シンポジウム』という公開シンポジウムが開かれたので、聴講しに出かけました。
このシンポジウムでは、アメリカのノースカロライナ大学で研究開発された自閉症児・者のためのTEACCHプログラムという支援システムについて紹介されていました。TEACCHプログラムは、まだ日本に紹介され始めたところで、このプログラムを関西地域に広めることにかかわった当時和歌山大学の田川元康先生が、木島幼稚園の障害児教育アドバイザーでした。田川先生の尽力で、TEACCHプログラムのスタッフが直接呼ばれ、通訳つきでシンポジウムが行われました」
田川先生は私はいろいろな文献の翻訳者として出会いました。
自閉症児と家族/著者不明
¥12,600
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E・ショプラー G・B・メジボブ 編著 田川元康 監訳
もうとんでもなく古い本ですが。
古本屋さんで、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買いました。値段をよく見て下さい。1桁違いますから。
田川先生とは、いろんな人を介してはお世話になったと思います。直接顔を合わせたのは一回。特殊教育学会で。
TEACCHと人間関係
この時、後で私を見つけた先生は、私に頭を下げ「ありがとう」とおっしゃって下さいました。何のことかよくわかりませんね。まっ、そういうことです(^-^)
その後、当時住んでおられた明石から通える幼稚園を探しはりますが、可能性のある幼稚園はほぼ全部回り、しかし適当な所がなく、万策尽きたと思いはります。
その時に木島幼稚園のことを思い出します。そのパンフレットに「入園などに関係なく、どのお子さんの発達相談にも応じることができます、要予約」と書いてありました。
「木島幼稚園は自宅から通える距離ではありませんでしたが、Tが3歳になる直前の3月15日に予約を取って、発達相談に行くことにしました」
「園には自閉症の子どもも数名おり、先生も慣れているので『かわいい子が来たねぇ』『よう来たねぇ』と歓迎され園長室に迎えられました。」
「いろいろな教室を見て回っても、どの子が障害のある子どもか分からなかったので、案内してもらった先生に『失礼ですが、障害のある子どもは、どなたも軽度なんですか?』と聞いてみたのです。案内してくれた先生が、『そうとは限らないですよ、重度の子もいますが、幼稚園を出るころにはこのくらいに成長します。3月ということで落ち着いていますし、この状態があたり前です』と言われたのには驚きました。
教室は、子どもにとって非常に分かりやすい物の提示方法、設置の仕方になっており、自閉症シンポジウムで聞いたようなアイデアが既に取り入れてありました」
あと、感覚統合というか感覚遊びの遊具があることも書かれています。
この時点ではT君には音声言語の発話はありません。しかし観察により「言語理解」は2歳過ぎくらいと判断されてます。
園長から入園を勧められますが高橋さんはおむつが取れていないことにこだわります。しかし
「園長先生が笑いながら『おむつくらいで問題になりません』と言われました。(中略)主任の先生が『何をおっしゃてるんですか。そんなものは保育士の給料の中に入っているんです。おむつはささいな問題で、とってしまえばどうにでもなるんです』と、将来がかかっているのにおむつなんかでと笑われてしまいました」
結局、高橋さんの実家が高石市だったので、そこからお試しに通うことにされます。
「入園から1か月半くらい経ったころに幼稚園でのTの様子を見せていただく日になりました。
幼稚園では、登園してくる園児がそろうまでは、園庭で自由遊びをしていました。園児が全員そろうと、まずは園庭でリズム体操や、音楽に合わせてランニングをするなど、かなり体をよく動かしてからそれぞれのクラスの部屋に入ります。それからは年齢に応じた『読み書きそろばん』など認知の課題に45分ほど取り組みます。
どのプログラムもひとつの課題が3〜5分程度の内容になっていました。先生が、使いやすく整理された教材の入ったワゴンを持ってきて、その中から次々と手際よく課題を出します。(中略)この教材は、認知のレベルに合わせ、ことばの意味が理解しづらかったり、話せなくても答えられる段階から、ことばで意味内容を考え並べなければならない段階まで、幅広いレベルに対応できる物でした」
教材の中で「ことばの意味が理解しづらかったり、話せなくても答えられる段階」というのは、私が書いている自立課題学習の教材にあたるだろうな、と思います。
「驚いたのは、3歳の子どもたちが、45分間、全員椅子に座って集中していたことです。課題が集中できるように工夫されていて、先生は短い間隔で新しい課題を次々と出していました。今何をしているのかや先生が出す指示が子どもたちには分かりやすく、『手はおひざ』と言われたらみんなが一瞬にしてその体勢になります。授業を受けるルールもはっきりと教えてあったのだと思います」
T君もちょっと席を離れる場面とかも出てきますが、おおむねみんなと同じように(そしてたぶん一人一人の課題(教材)は違う)できていたそう。
これで高橋さんは貝塚に引っ越すことにします。
木島幼稚園は今もあり、心身に障害のある方の受入の項目に田川元康先生が(園を)指導と書かれてますね。
T君は3歳8か月の時にレジに文字表示された「きのこ」を「きのこ」と言ったのが初めての音声言語の発語だったそうです。
「Tが3歳9か月、年少組の3学期に入ると、帰宅後幼稚園バッグの中からときどき公文のプリントが見つかるようになってきました。Tが教室から飛び出したときなどに、職員室でプリントを使いながら先生が面倒を見て下さっているのかなと思っていたのです。(中略)
不思議だなと思い、園の先生に公文のプリントの件を尋ねてみました。すると『3か月前くらいから、公文の算数教室へ来て、座って参加しています』と言われるではありませんか。Tは、親に無断で、といってもまだ説明もできなかったと思いますが、幼稚園の公文教室に入り込み、算数を習っていたのです。
この幼稚園では、放課後に希望者に有料でバレエ教室や公文教室など、子どもの好きなおけいこ事が習えるようになっていました。
『えー、Tが算数だって!算数よりもっと生活のことなど取り組まなければならないことがいっぱいあるだろう』と私たち夫婦は思いました。
(中略)
『いいも悪いもないよね、Tはもう習ってしまっているのだから、授業料をお支払いして習わせてもらうしかない』ということで、年中から正式に習い始めました」
この本を読んでいてすてきだなあ、と思うのは高橋さんが「これをさせたい」でやらせるのではなく、T君が興味関心を持ったものを後追いでさせてあげてる感じが強いこと。これ大事だと思います。
また公文のプリントはなかなかいいです。市販のドリルだけでもたいへんお世話になりました。そして市販でなく教室のドリルだと、もう本当にスモールステップで痒いところに手が届くように作ってあると思います。で、公文式が合う自閉症の人もよくおられるみたいです。
ただし、「だから自閉症の人には公文式。公文式は自閉症向け」と思わないで下さいね。あくまでも人それぞれ。また公文教室だとその公文教室の先生の雰囲気といったものも関係してくるでしょうから。
街の中を上手に歩く練習。
「Tは、2歳代から5歳ころまで道へのこだわりが激しく、手をつないで街の中をうまく歩くことができませんでした。(中略)道の曲がり角で、自分の行きたい方向へ行けなくなると、嘔吐し、道に這いつくばって大騒ぎのパニックです。(中略)いつしか、外出する際には、Tを背負って歩くようになっていました。それを長く続けていたら、Tは、普通に親子で手をつないで街なかの道を歩くことがうまくできなくなってしまいました。
ですから、Tの行きたい場所が分かれば、『行きたい所へ連れて行ってあげるから、これだけ歩きましょう』と地図を見せて、Tとも話し合いをしてから出かけることを5歳ころから少しずつ続けましていました」
6歳の時。
「Tは、多くの子どもと同様に1番であることに大変こだわりました。その年は、大江健三郎がノーベル賞をとり、Tはそれをとてもいいことだと思ったようです。Tは算数が好きだったので『算数でノーベル賞をとるにはどこに行ったらとれるの?』と聞くので、『算数はノーベル賞じゃなくて、フィールズ賞という賞になるけど、京都大学を出た先生でもらっている人はいるわね』という会話になりました。
Tが『じゃあ、京都大学の数学科を見に行く』というので、夫と私は、(それきた。京都大学の数学科で興味をひいて、京都大学の周辺を一緒に歩こう)と歩く口実を作ったのです」
西原理恵子だと「そらきた」と書くところですね(ニコ)
で、「哲学の道は京都大学のえらい先生たちが歩いてものを考えたところ」と言って、哲学の道を歩き、「丸太町通りをがんばって歩いたら、途中でフレッシュジュース」とかで、8kmを3時間くらいかけて歩いたそうな。
卒園の頃
「年少のときTは『かごめかごめ』を鍵盤ハーモニカで吹くことになっていましたが、最初はなかなかうまくできませんでした。
ところが『T君はみんなと一緒のときには吹いていなかったのに、みんなが静まったときに、実は「かごめかごめ」のメロディーを吹いたんです』と担任の先生が教えてくれました」
鍵盤ハーモニカとは、ピアニカとかメロディアンですね。
これはひょっとしたら「聞く」ことと「演奏する」ことが同時にできないということかもしれません。自閉症の人が歌っているのに合わせてこちらが歌ったら、聞いて歌うのをやめてしまい、こちらが歌うのを止めると歌い出す、っていう人もいましたから。
「障害を受け入れる」とは
「私は、障害名というのは、子どもを理解するために役に立てるもの、と思っています。障害名が何であろうとも実際の子どもは存在していて、その特徴は変わらないわけです。つまり子どもの特徴をよく理解することが大切だと思います」
「子どもの行動やものの認識の仕方は親が悪いのではないこと、わが子がとても変なことをすると思っていても、子どもにもそういうふうにせざるを得ない事情があるということが分かってきます。」
社会の中で生きていく力を育てるために
「しかし、私は、短い時間で子どもを変えてしまう魔法のような治療や療育があったとしたら、そのほうが恐ろしいと思います。
『焦らないで』というのは、本当に大変なことなのですが、焦らないで堅実に取り組むことこそ、最も大切だと考えます。最近は自閉症スペクトラム障害に関する研究が進み、さまざまな療育方法が紹介されるようになりましたが、何か特定の療育にのめり込んで、一日中訓練のようにわが子にかかわることがいいのかどうかはよく考えるべきだと思います。
(中略)
一日中、家でずっと援助をする必要がある支援法があるとするならば、それは子どもにとってどこか無理があるように思われます。小さい時から日常生活を大切にすることが、子どもにとってはとても大切なのではないかと感じます」
同意です。
幸せな大人になることと、学力は関係がない
ここは見出しだけ。ほんままったくその通りです。
「振り返ってみると、ことばの獲得が遅れたことは幸いしたと思います。Tにはことばの遅れがあり、知的にもある程度遅れていると思われたので、幼稚園の年中前半ころまでは養護学校(現特別支援学校)へ行くつもりでいました。養護学校を見学してみると、一人ひとりがとても大切にされている教育で、こんなにぜいたくな教育があるのだと感動しました。ところが、Tは、5歳で知的障害のない高機能自閉症へと発達してきたことが分かり、養護学校にはTに合った教育メニューがないと分かりました。私たち夫婦は、Tの発達スピードが遅かったので、Tの能力を過大に評価せずにすみ、Tに小さい頃から高のぞみはせず、難し過ぎるハードルを課さずにすんだと思います。
例えば、ことばが話せないなら、書いた文字を見てやりとりできたらいい、それも無理だったら、ジェスチャーでやりとりできたらいいと思って育ててきました」
で、少しあとでインリアルのトランスクリプト(ビデオでやりとりを録画し、それを文字化して通じたか外したかなどを記録していくもの)が出てきます。
「インリアルの勉強をしていなくてもビデオに自分たちのやりとりしているところを撮ってみるだけでも新しい発見はあると思います」
ほんま教師や支援者の方、そうですよ。特に「う〜ん、わかんないなあ・・・」と思っている時は。
数字表を書き続けた3か月
ここ、笑うところじゃないかもしれませんが笑いました。
「幼稚園に入って少ししたころに、Tは、数字を1〜100まで、10行10列できれいにマスを区切って書いてくれと要求したこともありました。
まだことばが話せなかったので、私の手にペンを持たせ、『かくかく』動かすのです。何かマスを書いてくれと言っているのは分かりました。最初は失敗です。四角を書くばかりで、Tも自分の意図が伝わらないので怒っていました。(中略)
幼稚園の壁に、10行10列で1から100まで書いた表が貼ってありました。それを見て、あれを書けと言っていたのだと気がつきました。(中略)
Tの意図したこととマッチしていたので、同じ物をどんどん書けと伝えてきました。
ところが、こだわりがエスカレートし、(中略)
私は、Tの指示で、ひたすら数字表を書き続けなくてはならなくなりました。自由帳が1日1冊なくなるくらい毎日数字表を書いていました。(中略)夏休み前ころには、最新の美しい表2枚をポケットに入れないと外出できないというこだわりが、さらに重なって加わりました」
「生活にあまりにも支障が出てきた段階で、私は『あなたが書いて欲しいのが数字だということは認めよう、でもあなたが書いて欲しいスタイルとは限りません』というように、Tの意図どおりに従うのではなく、私の対応を変えようと思いました」
で、漢数字で書いたり、2飛びとか5飛びとか、表をはずして1,10,100などいろいろ試みはります。
「自分のこだわっている世界だけに、命がけですがらなくてもよいこと、数字にも種類や並び方がこんなにもいろいろあることを知り、数字の世界が広がったことで、これまでこだわっていた狭い世界にこだわらなくてもよいと分かったようでした」
なーるほどなあ、です。
ふ〜、ここまでで一度アップします。
小学校編以降はまた後ほど。
高機能自閉症児を育てる 第3〜5章 高橋和子著
私の敬愛する先輩教員は「いいとこ取り(関東の人間なので)は、たいてい悪いとこ取りになる」と言ってました。また、私は国語の教員でもあるのですが、比較言語学などでは「他の国の言語の良いところだけを持ってくることは不可能である。それを強引に行うと、結局自国の既存文化を破壊するだけで終わる」という意味のことが定説<br />になっています。</p>
>もずらいとさん<br /><br />|他の国の言語の良いところだけを持ってくることは不可能である。それを強引に行うと、結局自国の既存文化を破壊するだけで終わる<br /><br />へえ。これは面白いですね。<br /><br />「日本語は論理的でない」という言説がありますが、あんまりよくわかりません。<br /><br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/
>「日本語は論理的でない」という言説がありますが、あんまりよくわかりません。<br /><br /> 分からないのも道理です。それは嘘だからです。日本語は人称名詞を省略しがちですが、著述的な論文ではそれを書けば済む話です。<br /> 論理的でないのは「論理的に記述する」トレーニングをしてないからです。日本的に演繹表現を多様したら哲学は難解になります。日本の哲学関係者がドイツに行って「ドイツでは子どもも哲学用語をしゃべっている」と驚いたという話がありますが、「哲学=ありがたい」と日本語の表現がやたら難解になっただけです。国語学でも重鎮にはこの手の人がいます。<br /> 一文をせいぜい30字いないに納め、入れ子構造を極力避ければ、日本語で論理的な文章は作れます。</p>
>もずらいとさん<br /><br />|「ドイツでは子どもも哲学用語をしゃべっている」と驚いたという話がありますが、「哲学=ありがたい」と日本語の表現がやたら難解になっただけです。<br /><br />はは〜、なるほど。<br /><br /></p>
http://ameblo.jp/kingstone/