「学習院コンフィデンシャル! 日常になった「雅子さま一人父母参観」! イジメっ子対策で「給食に向精神薬を混ぜては」と提案した「東宮」」
週刊新潮は買わないので立ち読みです。記事の文の引用はできません。
まず学習院側(担任だったか)が「乱暴な言動をする」A君の保護者に「ADHDではないか。受診して欲しい」と提案して断られた、というエピソードが出てきます。これはどこまで本当のことかはわからない。
週刊新潮の過去号だったか、他の週刊誌だったかでもこのエピソードは読みました。
しかしもしその提案があったとしたら、それはうまくいなかいでしょう。学校でうまくいかないことを誰かのせいにしてる感じが出てしまうから。
もうこういう時は学校内であの手この手を講じていく必要があります。医療関係からの援護はもらえないと思っておいた方がいい。そして「問題」を解決していって、保護者から信頼を持たれる状況になり、かつ本人が「困っている」保護者が「困っている」状態で「ひょっとしたら医師からの診断をもらい、それに基づいてお子さんを理解すると助けになるかもしれません」というふうにして初めてうまくいきます。
クラスの中で居場所を見つけ、「自分っていいやつじゃん」と思えるようにする。もちろんクラスのみんながそれぞれに「いいやつじゃん」と思えるようにする。よく言われることだけど「いいところを褒める」なかなか難しいことですが。特別支援学級時代のことは
叩かれていた子の例1
からのあれこれに書いていますが、しょせん特別支援学級でのこと。「通常学級ではできない」と言われれば終わりです。
大昔の大昔の通常学級担任時代のことを書いてみたいと思います。
私は新規採用時代は本当に情けない教師だったと思います。子どもたちに知的興奮を与えるような授業はできなかったし、かといって子どもたちの表現を大事にする、いいところを見つける、なんてこともできていませんでした。
少し年数が経った時。丁度「いじめ」がマスコミで話題になっていた頃。文部省や教育委員会からの子どもに書かせるアンケートが山のようにやって来た頃。どう言ったらいいんだろう。そんなアンケートを書かせたり「学校はこうだからあなたたちはこれをやりなさい」「先生は事務仕事がいそがしいから遊べないよ」というようなことにばかり時間を使って肝心の「子どもと関わる」時間を全然作れていなかったような気がします。休み時間といえば職員室に戻っていたし。
クラスで「いじめ」が起こりました。クラスを仕切ろうとする子が弱い子をいじめていました。複数の弱い子に対して。他の多くの子からも「あの子がいじめている」という意見がぞくぞく。私はその子に「悪いところがあるからなおしなさい」というような指導をしたと思います。するとその子が不登校に。そして学級崩壊に進んで行きました。その後「子どもたちの意見を大切に」みたいなことをしようとしたけど、このクラスはグチャグチャに崩壊したままで終わりました。
翌年のクラスからは徹底的に子ども達と一緒に過ごすようにしました。授業では子ども達のひとりひとりの発表を大事にしました。(う〜ん、表現が具体的じゃないですね)今から思えば障害を持った子もいたし、その子が障害ゆえにした行動で周囲の多数の子にいじめにあいかけたりしました。その時も「悪者を作らない」という方針で臨みました。
双方の保護者が「相手が悪い」と言い、ある日の夕方、ある子の家に双方の保護者(いじめ側は複数)が集まり話し合いをしたことがあります。子どももいました。私もその場にいました。保護者は「相手が悪い」と言いつのっておられました。私は「誰も悪くない。この子にはこんないいところがあり、あの子にはあんないいことがある」というのは言い続けました。そうしているうちに不思議なことが起こりました。いじめている子といじめられている子が(リーダーとパシリの関係ではなく)その場で「ええやんなあ」と仲良くなってしまったのです。そして保護者も「???」な感じでしたけど「なんかよくわからないけど、これでいいのかあ」みたいな雰囲気になり解決しました。
遅くに学校に戻ると用務員さん含めたくさんの先生が心配して待っていてくれていました。私は「子どもたちに助けられました」と報告しました。
そう言えばその頃、6時間目(つまり下校の前)のクラスのホームルーム(?って名前だったか?)の時間に多くの子どもたちが「(その障害のある子は(しかしその子に障害がある、ということは私にはわかっていませんし、子どもたちにもわかっていませんでしたが))かくかくしかじかの変な行動をするからいじめられて当然」という意見を出したことがありました。
当時、子どもたちの意見は大切にしようと思っていたし、時間をかけてゆっくり話を聞きました。そして「変な行動をしたからと言っていじめる理由にはならない」ということを伝えましたが、1コマの時間が終わっても男の子たちが納得しません。女の子たちは納得した(?)ようだったので先に帰しました。当時、私は「叱らない先生」になっていたのですが、男の子たちと話をしていて、ついに教卓を叩いて「やったらあかんもんはあかんのじゃ!」と叱りつけてしまいました。あとあと男の子にも女の子にも「(あの)kingstone先生が教壇を叩いて怒った」と話題になっていたようです。
そんなふうにして「いじめ」はなくなっていきました。
今から見れば(そのいじめられかけた子とは別に)暴力的なADHDの子もいたようです。でも意見がユニークだったし、その子の意見を授業に取り入れると授業がふくらんだし。やっぱりそういう子は「面白」かったです。
別の時のクラス。
今から思えば、はっきりと自閉症であるお子さんがいました。ADHDっぽいお子さんもいました。この子の場合はてんかんもありました。
自閉症のお子さんは得意な「漢字」や「地図」でみんなから賞賛されるようにしました。
ADHDっぽいお子さんは私の発問にとんちんかんと思えることを発表し続けるのですが、それも取り入れるようにしていくと本当に授業がふくらみ楽しいものになりました。
当時の私には障害に対する知識はありませんでした。しかしどの子も「排除」せずにいかに「普通の学校生活」が送れるか、に腐心していたような気がします。今「障害特性」を理解することを主張し「正しい対応を」と強調していますが、全然矛盾することとは思えません。
当時、私は通知票を書くのが苦痛でした。当時は相対評価であり、一定数(クラスで1人か2人)は1をつけなければならない。また通知票では成績のいい子であっても、私が「いいな」と思っている部分を書ききれない。そこで通知票を渡す時に便せん1枚に私が思っているその子の「いいな」と思う部分を書いて渡すようにしていました。
正直言って労働量ははんぱじゃなかったです。45人分書くより初めから記述式の特別支援学校に行く方がいいかも、というのは私が特別支援学校に異動希望を出した一つの理由です。
長々と私の大昔の取り組み(しかも具体的では無い!!)を書きつらねましたが、学習院もそんなふうな取り組みができるのではないかと・・・で医療からの援助を受けるのはその後でいいのではないかと・・・
新潮の記事の見出し部分についてですが
「東宮がADHDを疑われるA少年の給食に向精神薬を入れることを学習院に提案した。学習院は断った」と書いてあります。これも出所が不確かではあります。後ろに医師への取材で「ADHDにはリタリンとかコンサータ」というような情報も出てきます。
もちろん環境を整えた上でまだ本人がいろいろ困っているならお薬の助けはあっていいことです。実際に当事者の方で「助けられている」という方もいらっしゃいます。しかし、学校や東宮が薦められることではない。
どの雑誌の記事を読んでも思うのですが、医療にしろ教育にしろ、あまりまともな専門家と思える人に取材していないよなあ、と感じます。これはちゃんとした専門家の場合、アセスメント(診断を含む)が無ければ語ってはいけない、という倫理があるから当たり前ではあるのですが。
まあ取材は置いておいても、現実に東宮や学習院はきちんとした専門家に相談したり、周囲の専門家が「あるいは・・・」と助言したりしているのだろうか。誰も適切なことを言わなかったら事態はどんどん悪くなっていくような気がします。
自閉症など発達障害の診断がついたらまず環境調整をしてほしい
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追記
東宮が週刊新潮に抗議をしたとか。
確かに「薬云々」は無理がありそう。