大昔の話です。
知的障害特別支援学校にいた頃。
本の紹介です。
とても素敵な本です。中古品で88円から、ですね。
慶応義塾大学出版会
デイヴィッド・B・シュオルツ
冨安芳和・根ケ山公子訳
3400+税
著者は日本で言えば社会福祉協議会を立て直しに入った、という
立場なのかな。ペンシルバニアでの話です。
久里浜に内地留学をしていた同僚が紹介してくれました。
昨日から読み始め、まだ3章までしか読んでません。でもそれで
十分に感動して、紹介したくなりました。著者は1章で非常に簡単に
歴史を概観します。
(引用開始)
発達障害者たちを「収容施設から出そう」という運動は、反戦運動
と同様に、当時主流であった社会的文化的信念と実践に反対する運動
でした。それは魂を死なせてしまうような悪しき収容施設、かって
バートン・ブラットが1966年に「煉獄のクリスマス」の中で暴露した
ような、多くの人たちが幽閉されていた施設に反対する活動でした。
それは改革運動でした。
(中略)
あの息あがっていたときは、今はまぎれもない過去となりました。
彼らが一致団結して作り上げた新しい場と新しい「別の」コミュニティ
システムは、一見したところ、処理しにくい問題に満ちています。経済、
虐待、職員の募集と確保に関する特別専門委員会が緊急に開かれて
います。改善のための行動は提案されていますが、それでもこのような
行動の表面下には、私たちの大切な新しい場の挫折があまりにも急速に
進み、私たちの努力がその2倍であったとしても十分でなく、また無駄
でさえあったという気持ちが残ります。
(引用終了)
で、彼はあれこれいろいろ努力するわけです。でうまくいくことも
あって、この本を書いたわけでしょうが
(引用開始)
最後に、私が述べようとしている考え方の変化は障害者たちの状況に
ついての新しい「解決」とされてしまう危険についても、十分に考え
ねばなりませんでした。ここに提示された考えを新しい万能薬として
見る人がいるかも知れません。その人たちはそれは単に歴史的過程の
最新の展開であって、今までにあったたくさんの万能薬のすべてが
そうであったように、崩壊、堕落、失敗に曝されるということに気づいて
いないのです。
(引用終了)
うーーん、ようわかってはる人やなあ、と思いました。
で、第2・3章はシュオルツさんのもと(?)で働いてはる人が実際に
障害を持った人がコミュニティに参加しながら暮らしていけるように、
またその生活が擁護されるように、と活動した報告になっています。
で、実は息子を医者に連れて行ってここを読んでて、涙が止まらなく
なり、その時、受け付けで呼ばれて、涙を流しながら支払いをして、
めちゃかっこ悪かった(笑)
シャロンさんが書いているところです。彼女(彼?)は、アルバートと
いう人が参加できるようにフランクにお願いします。少し引用すると
(引用開始)
アルバートは、60歳代前半のちょっとずんぐりした男性で、それまでの
人生の大部分をナーシングホームで過ごしていました。アルバートは大きな
声で話したり笑ったりする、すばらしく人好きのする男です。
(中略)
アルバートの持つ障害は脳性マヒと精神遅滞を含みます。
(中略)
フランクは町のたくさんの失業者のための地元の無料食料配給所で週1回
手伝う仕事をアルバートのために手配しました。
(中略)
アルバートの仕事は、家族連れがはいって来たとき、切符を手渡すことです。
切符には番号が打ってあります。しかしアルバートは番号が分からないので、
番号の順番を整えておく方法を考えなければなりませんでした。アルバートが、
食料配給所で仕事を始めてから、彼が自分の役割を遂行できるようないくつか
のシステムが試みられました。フランクともう一人の人が、配給所が暇なとき、
アルバートが数字の勉強をするのを手伝い始めました。アルバートはだいぶ数字
がわかるようになったとフランクが教えてくれました。おかしなことに10年
通った特別通所プログラムの授業ではこういうことは起こらなかったのです。
(中略)
毎週、食料配給所では誰かがアルバートに名札のバッジをつけたらどうだと
言うと、彼はたくさんの袋の一つを取り出し、ハンカチの包みを何枚も何枚も
ほどき、大切なバッジを取り出します。これは社会サービスの仲間内では矯正
すべき「施設的行動」として知られています。この食料配給所では単に
アルバートの儀式として理解されています。儀式といったのはアルバートが
このグループの一員であることを誇りに思っているという意味だ、とここの
職員の一人が話してくれました。この儀式のことで何か不都合なことなど何一つ
なかったのです。
(中略)
すべてが必ずしも完全ではないということを理解することが大切です。
アルバートが食料配給所に行きだして数か月後に、問題が起きたとフランク
から電話があったときのことを思い出します。アルバートがトイレに間に
合わず失禁してしまったというのです。私の反応は恐怖と不安のそれでした。
彼はもう来なくていいと言われるのではないか、という不安。私はフランクの
機先を制したつもりで、誰かアルバートの代わりができるはずだし、そう
すべきだ、と言いました。フランクは驚きました。私は彼に「とんでもない!」
と言われました。アルバートは彼らの一員でした。彼らは問題を解決したかった
だけだったのです。結局、アルバートの介助者が食料配給所に来て、トイレに
行くのを手伝うような配慮がなされました。フランクも手が空いている時は
手伝ってくれます。
(中略)
時にはアルバートが切符を混ぜてしまって、間違いの切符を渡すこともあった
ようです。この問題は棒刺し台を作り、その棒に切符を突き刺しておくことで
解決しました。アルバートは一番上の切符を取ればいいだけです。
(引用終了)
シャロンさんはアルバートとフランクを結びつけるような活動をされて
いるわけですが、しかしそれまでの「組織」の活動の枠にはまらない活動
であり、組織との間ですごく違和感を感じ、自分自身を常軌を逸している
のではないかと感じ始めます。
そこらへんが特に私の琴線に触れるのかもしれません。
またこんなことも書いてはるなあ・・・
(引用開始)
私は幸運であったとも言えます。なぜなら私の上司はいつも話に耳を
傾けてくれ、彼にとってどんなに面倒なことを呼び起こそうとも、私が
とても重要なことを申し出ようとしているのだと言ってくれました。
(引用終了)
なかなか言えまへんで・・・こうあってほしいし、自分もこうありたい
ですね。
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つけたしです。
私は1章から3章までを読んだ段階で紹介しました。
この2章3章は事例報告的なところですごくわかりやすいところでした。
(しかし、訳は・・・あんましわかりやすいとは言えないか・・)
それ以降はヒューマンサービス(必要のある人を支援する事業ということで
いいかな)について豊富な事例や先人の言葉をひきながらあれこれ考えて
いきはります。
この方はうーーん、言葉にしちゃうと「コミュニティ感が大事」って
ことを言ってるんだと思います。しかし現実ってやつは一筋縄ではいかない
から、あれこれあれこれ語ることになる。それが私など、おおいに納得
できる書き方になっています。結構辛辣な、しかしユーモラスな叙述が
あり笑いながら読みました。
いろいろ紹介したい部分は、fedhansの9番会議室でやろうと思います。
(ここは紹介の部屋でたぶんやりとりの部屋では無いから)
その中でどんなことが書かれているか興味のある人のために少しだけ
引用してみます。
(引用開始)
コミュニティサービスの中で発生するさまざまな問題は、もしひっくるめて検討されるなら、この分野の仕事における変化のより広範囲のプロセスの前兆として浮かびあがります。これらの問題は、私の経験では基本的な5領域に分けられるようです。
1 虐待、放置、向精神薬の投与
2 「職員の確保と募集」の危機
3 サービスを受ける人たちの孤立
4 この分野での臨床システム化の増大
5 システムに遺贈している人たちに対するシステムそれ自体の効果の遅延化
(引用終了)
(引用開始)
新しい考え方の初期の熱狂の中では、それが絶対に間違いない解決策と
受け取られる危険が常にあります。これが必然的に重大な誤りを犯すことに
なります。
(中略)
実行にあたっての主要な障害は、基本的に4タイプあるように思えます。
それらは、専門性のとりこになる、コミュニティという考えを美化する、
反専門家主義に走る、政治の道具とされる−この4つです。どのような試み
でも、良い意図だけでは成功を確約するには十分ではありません。
(引用終了)
ってなことがあれこれ考えられているわけです。
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ちょっとやりとりできたらとも思うので、こっちでも紹介します。
重複部分はできるだけ少ないようにしたいと思っています。
題名の「川を渡る」(Crossing The River)というのは
行政(専門的なシステム)という此岸からコミュニティという彼岸に
渡る、というところから題名がつけられています。
著者自身、ペンシルベニア発達障害企画協議会という此岸にいる方で、
(今は別に転身されたよう)そしてコミュニティという畑を耕そうとして
いる方なわけで、第12章で
(引用開始)
私は、川の向こう岸、コミュニティという岸に関して働いてきましたし、
書いてもきました。しかし私の仕事は向こう岸ではなくこちら側の川岸、
官僚制の岸で行われています。そのコントラストはとても大きくて、
居心地の悪いことも多いのですが、しかしこうした内容豊かなジレンマ
からは、さまざまなことを学ぶことができます。
(引用終了)
なんて書いてはります。
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第2章・市民参加
うーむ、どこを紹介しようか、と考えると全文引用してしまいそうで・・
悩んでしまいます。
シャロン・グレッツは1979年から重度障害者のためのヒューマンサービス
の仕事に就いています。で、収容施設から出た人たちが長年ある町で暮らして
来たけれど、全然コミュニティとは関わりないところで生活していた。そこで
その人たちがコミュニティに参加できるように(これが市民参加ということに
なるのかな?)したいと思って町長のソフィ(美容師でもある)のところに
お願いに行きます。
(引用開始)
フランクとソフィとの出会い、そして二人と時を過ごしたことが、ヒューマン
サービスに働く者としてのみならず、人間として、予期せぬ仕方で私を感じ
やすくさせました。二人は、最初私が彼らを変えようと思ったようには私を
変えようなどとは考えないで、つつましい方法で私に教えてくれました。最初
自分では気づいていなかったのですが、私は指導者として、また教育者として、
あるいはこの二人とこのコミュニティに「コミュニティでの統合」のやり方を
教える権威者のつもりでここに来たのでした。私が人々の身体面でのできない
ことについて一生懸命話している間に、二人の頭の中にはもう、その人々が
できることが浮かんでいたのです。
(中略)
最初私は心配でした。と言うのは、ソフィもフランクも私が使う専門用語
とか言い回しを知らなかったからです。「ソーシャルロールバロリゼーション
(Social Role Valorization)」「目標計画」「サービスの単位」などは彼ら
には何の意味もありません。私の職場の誰かが、自分たちのしてほしいことを
この二人が本当にする資格があるのか、と私に尋ねました。長い時間、私は
このことを考えて苦しみました。結局、二人の「専門的」資格は問題ではない
ことが、私自身に分かってきたのです。私がこの結論に達したのは、私の心が
私にそう語ってくれたからだとしか言いようがありません。コミュニティ生活
に人々を招き入れることはもうとっくに二人の生活の情熱となっていました。
人々を喜んで迎え入れ、懐深く抱き入れる彼らの力を見せてくれていました。
私は二人がどんな用語を知っているかなどもう心配していませんでした。
そしてあのデリカテッセン(簡易食堂)に二人とコーヒーを飲みながら話す
ために出掛ける時は、もう書類入れを持って行かなくなりました。
(引用終了)
そしてfedhansの2番会議室#377で紹介した、アルバートやたくさんの例が
紹介されています。
ここらへんはボランティアグループを立ち上げようとしている私に、
いろんなことを考えさせてくれます。
またシャロンさんは市民参加の活動を始めて、今までの組織・機関から
ずれて来る自分を感じ、苦しみ「常軌を逸している」と感じ始めます。で
苦しまれるわけです。このあたりは学校現場で「常軌を逸している」と
感じる私を思い起こさせます。そして
(引用開始)
そこで協議会とコモンウエルス研究所は、私をこの州や郡の人で、自分
たちが思っているように物事を考えるのは少なからず常軌を逸している
のではないかと自問している人たちとを結びつけました。私は接触し
始めました。このネットワークは私の命綱になりました。
(引用終了)
いろんな人の顔が思い浮かびます。
そして私にとってもネットワークは命綱です。
最後のほうでこう書いてはります。
(引用開始)
私はこれまでずっと私の仕事の手引書があればと願ってきましたが、今は
そういうものが出版されないよう望んでいます。あたかも何か
−危険に曝された種−を護る必要があるように感じています。
お分かりですね。
(引用終了)
よくわかります。
もちろん、そうであって、そうでない、わけですが。
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8章新しい考え方の革命
紹介もあちこちとんでしまいます。
著者はコミュニティの重要性ということを繰り返し述べています。
(しかし手放しで賞賛するわけではありません。また紹介するかも
しれませんが、もともとコミュニティは虐待の場でもあった、という
ようなこともちゃんと述べられています)
で第8章ですが、冒頭にこんなエピソードが紹介されています。
(引用開始)
ノーラ・エレン・グロースが、奇妙な歴史的事実と思われるものに偶然
出会ったのは、1978年マーサーズヴィンヤード島を訪れているときのこと
でした。つい最近までの2世紀近くの間、異常なほど多くの聾者がその島で
生まれ、生活していたのです。彼女がついに見つけた原因は、その孤立した
コミュニティに限られた、遺伝的に伝わる一種の聾でした。しかしこの興味
深い事実とは別に、現実にはとても信じられないようなとこを発見しました。
それは、その島では聾が特に注目に価するは誰もが考えていないことは明白だ
ということでした。実際誰も聾を障害と捉えてはいませんでした。しかし、
聴こえない、あるいは話せない人たちが、他の人とまったく同じように、
どうやって働き、「聴こえる」夫や妻と結婚し子どもを育てることができる
のか、彼女は友人に不思議がって話しました。友人は、ああそれはね、その
ころはみんな手話で話したから、と答えました。身内の人とか友だちとかが
通訳したというの?いいえ、誰もかも、と彼は答えました。そこから、
グロースは彼女の著書「みんなが手話で話した島」(Groce,1978)を書く
きっかけになる調査を開始しました。
年老いたこの島の住人はこんなふうに回想しています。
「みんなで輪になって座り、郵便が来るのを待ちながらおしゃべりばかり
していたなあ。聾の人たちもいたよ。みんなそこにいたよ。あの人たちは、
人だかりの一部だったし、みんなから受け入れられていたね。あの人たちは、
漁師だったり、農夫だったり、他にもいろいろ、何でもやっていたね。あの
人たちはみんなと同じようにニュースを知りたがっていてね。みなんよく話
をしたけれど、みんなが話についていけるよう、いつも身ぶりをつけて話して
たね。話せる人より聾の人が多いときは、もちろん全員が手話で話すんだ。
まあそれが礼儀だろうね」
(引用終了)
なるほど。そしてまた、この島には聾者のための専門的サービスは無く、
しかし専門的サービスのある他の地域の聾者の方が苦しい生活を強いられて
いたことが書かれています。
またこんな記述もありました。
(引用開始)
マーサーズヴィンヤード島に前に住んでいた聾者や、今日アルバータ州
ラクリートのメノー派教徒の農場−ここでも遺伝的条件が原因でトゥレット
症候群という特定の障害が高率で発生し、しかも同様に受け入れられている
のですが(Sacks,1988)−に住む人の状況について、何がそんなにも重要
なのでしょうか?これら2つの場の中の人々の経験と、ある種の「意図的
コミュニティ」に住んでいる人たち、あるいは、住んでいる社会的環境に
深い帰属感を抱いて暮らしている幸運な人たちに共通するものは何で
しょうか?このような状況と、レベルの高い援助に囲まれながらも孤立と
孤独を感じている多くの人たちを分けるものは、何なのでしょうか?
(引用終了)
−−−−−−−−−−−−−−−
第10章
ここでは、「社会の中で何が障害者の安全を本当に護るのか」について
述べています。
(引用開始)
ジェローム・ミラーは、マサチューセッツ州の少年院を閉鎖したことで有名
ですが、彼が、どうしてこれらの施設の改善ではなく、閉鎖を決めることに
なったかを話したことがあります。もともと彼は施設の改善だけを考えて、
マサチューセッツに赴任しました。第一段階として、彼がハーバード大学で
見つけ出せるもっとも優秀で社会運動に関わった60年代の活動家を2,3人
雇用しました。「2か月たってみると」、と彼は驚きと共に思い起こして
いました。「全員がファシストでした」
もし微生物的隠喩が当てはまるなら「環境の中の何が、このハーバードの
活動家たちの内で休眠状態にあった虐待の衝動の発現を促進したのか?」
という問いかけは可能でしょう。もう一つ、多分もっと重要な質問と思われる
のは「(さまざまな心理学的研究によってはっきりと示されているように)
虐待の性向をわれわれすべてが内包するなら、なぜ、今までよりも、もっと
頻繁に虐待が起こらないのか?」というものです。デュボスは微生物学での
問題は単に「微生物がどのように病気を引き起こすか?」ではなく、むしろ
「なぜすべての微生物が病気を引き起こすとは限らないのか?」であると
述べています。
(引用終了)
そして、障害のある人も安全に護られているコミュニティの例としてキャンプヒル(の考え方に基づく村)を考察します。その「安全に護られる」要因をいくつかあげています。
(引用開始)
1. 宗教的信仰を共有するシステム。これによって、障害者も含めすべての
人が、能力あるいは生産性の見かけ上の違いに関係なく、固有の同等の
価値をもつと信じられる共通の世界観に導く。
2. 結果的に、名前、肩書き、生活状況、着ているもの、経済的地位、特権
などによって、障害をもたない人からもつ人たちを区別しようとしない。
3. たいていのこと(仕事、料理、旅行、礼拝)を障害のない人たちが障害
をもつ人たちと一緒に行う。
4. その成員すべてにコミュニティ内部の、また少しだが外部の、多くの人
たちとの広範囲にわたる自由に与えられる無報酬の関係が存在する。
5. 障害者である成員たちは、コミュニティのメンバーの「責任」者的役割
(寮父、農夫、あるいは理事長のような)については明白に認識している
が、「権力」者的役割をもつ人(施設長、ボス、ケースマネージャーの
ような)としての認識が比較的乏しい。
6. 自分たちがユートピア的コミュニティであるという考え方は否定して
いる。
7. 障害のある成員たちにとって、否定的になりやすい出来事について
個々人の小さな例を、文化的な対人関係の手段を通して改めようとする。
たとえば、難しい内容でもじっくり話をしたり(「それは私たちがここで
物事を進めるやり方ではない」)集会やグループ討論を行って、理解を
深めていくようにする。
8. コミュニティの成員全員の私的成長の重要性に価値を置いている。
9. 証明書発行のような公式の防護処置がはいり込んでくることは、
キャンプヒルの生活を印象的なものにしている文化的な価値やプロセスを
浸食すると信じている。
(引用終了)
ううむ・・・この要因を私の周囲に見つけ出すのは大変やなあ・・・
しかしまあ何とかしないといけないわけで、シュオルツさんは
「共同生活防護事業」という活動を始めはります。
で、その中で評価する方法を考えます。質問の形をとりますが、
そこから見えるものがありそうです。
(引用開始)
・その人(弱い立場にある人)には住んでいる家の外に無償の関係を
もっている人がいますか?
・その人は何かコミュニティのグループや集まりに所属していますか?
・近隣や町の人で、何人くらいがその人を知っていますか?何か間違い
があればそれに気づき、行動を起こしてくれる人はどのくらいいますか?
・誰がその人の金銭管理を補佐していますか?
・その人と、同居している人たちとの暮らしの条件は同じですか?
(引用終了)
今日は1月17日ですが、前三つは仮設住宅での暮らしなどでも、
有効な問いですね。
またこの部分などを読んでて、子どもの指導の時に「生活地図」を
書いてみて、それを生かそう、というのも思い出していました。あの
「生活地図」ってTEACCHにあるアイデア??
私は「個別教育計画の理念と実践」の中で見ましたが。
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構造化(「川を渡る」より)
>5.構造化は「外へ出る」ためにこそ必要.北海道のとある施設の人の話ですが,構
>造化を知る前はとても一般の職場に(援助つきであれ)出られるはずが
>無いと思ってた重度の人が,職場で働けるようになったそうです.
これよくわかります。
でもってこんなことが先日紹介した「川を渡る」って本に出てました。
P150
第7章 発達障害における考え方の革命
「最近の考え方の変化」
(引用開始)
私はある収容施設で庇護授産所を運営しましたが、そこで働く人たちが
うまく仕事ができるように、彼らが一方にしかネジを回せないよう、あるいは
一方にしかのこぎりを動かせないように、ジグと固定装置を使って、労賃の
得られる仕事をいかに単純化できるかを考えるのに大変な時間を費やしたもの
でした。そして私は「別の方法でやってみよう」と称するワークショップを
主催する「マーク・ゴールドという同業者に会うためにトロントへ行きました。
「別の方法でやってみよう」は庇護授産の事業がよって立つ職業能力に
ついての信念に対する周囲の期待を粉砕するような挑戦でした。ゴールドは、
「職業能力ゼロ」として放置され、収容棟でボディロッキングするままに
されている重度知的障害者たちに、どのようにすれば、込み入った自転車の
ブレーキの組み立てのような複雑な仕事を完成することを速く教えることが
できるかを示して、全国を回っている間に大きな興奮と、それと同じくらい
大きな抵抗を掻き立てました。彼は私の目の前で、また何百人もの聴衆の
目前で、初対面の人に対して、簡単な分類盤を使って、それをやってみせた
のでした。それは驚くべきことでした。魔術でした。
(引用終了)
これ、TEACCHのセミナーでよく見られる風景と同じだろうな、と思いました。
ただ、前半に出てきたジグはこの場合、英和辞典にjigとして出ている
「切削工具を導く装置」のことだと思います。で、たぶんそれがもともと
の意味で、TEACCHでよく聞くジグというのは、後半の「分類盤」にあたる
と思います。部品を分類したり、組み立てる順序などが、視覚的にわかり
やすいようにしてるわけね。
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追記
障害者施設における虐待の問題は、アメリカでも同じなのだ、というのが
わかります。
「川を渡る」によせて