※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2010年04月26日

構造化(わかるようにする)された教育をすると

 大昔の話です。

 知的障害特別支援学校にいた頃。


Q.構造化された教育をすると、その中でしか生きられない人間になるのでは
ないでしょうか。

A.
まず「構造化」って何ですか?
 私は「わかるようにする」ということだと思っています。

 私たちも多くの構造化の中で暮らしています。

 毎年出るカレンダー。日付と曜日がわかります。
 職場から出る毎月の予定表。
 電話をかける時はノートに書いた電話帳。
 バス停には看板。そして時刻表。
 便器はおしっこやうんこをする所。
 洗面台は顔を洗い歯磨きをする所。

 誰かが何かを言ってくれている、それもわかるならば構造化のひとつ
と言えるかな。

 これらのものが一切なくなったら、私はどう動いていいかわからなく
なるでしょう。私は今ある構造化を外してほしくはありません。

 最近になればなるほど、私たちにも便利なように、いろいろわかりやすい
工夫がされるようになってきました。

 例えば視覚障害の方には点字ブロックがかなりの範囲で設置される
ようになりました。

 聴覚障害の方には、要約筆記や字幕、手話サービスなどがされることも
多くなってきました。

 さて、私も自分に意味あるものを見つけだしたり、スケジュールを頭に
入れたりする能力がかなり低い方だと思っています。しかし、世の中には
もっともっとそういう能力の低い方がおられます。自閉症の方がそうです
ね。もちろんこれにも個人差はありますから、人によっていろいろですが。

 自閉症の方は視覚的な情報処理が強い場合が多いので、場所を区切ったり
音声言語でなく絵や写真でお互いにコミュニケーションしたり、という
ような援助で暮らしやすくなることも多いわけです。

 そして人によっては、そういう方法をとっていても、どんどん他のやり方
も身につけて、そういう支援手段が必要無くなる方もいらっしゃるでしょう。

 しかし、ずっと必要な方もいらっしゃるかもしれません。

 ところで最初の質問

Q.構造化された教育をすると、その中でしか生きられない人間になるのでは
ないでしょうか。

 これは「できたらそういう構造化というのはなしですませられたらいいな」
ということだと思うのですが、もちろんそうできたら周囲の人間はいろいろ
準備したりしなくていいぶん楽かもしれません。対象の方にとって必要なく
なればやめたらいいですよね。

 しかし先ほど視覚障害の方や聴覚障害の方の例を出しましたが、我々は
「点字ブロック邪魔やからもう慣れたら外してもらいたいな」とか
「手話通訳、なんか横でばたばたしててうっとおしいから、講演者の
口だけ見てわかってね。もうやめましょう」とかは最近は決して思わなく
なってきていると思うのですね。

 さて構造化をはずそう、と言う時、その対象の方はその構造化が必要
なくなっているのでしょうか。で、そうであればOKだろうし、そうでなければ
あった方がいいだろうし。

 で、実のところ私も自閉症の方と意識してつきあいだしたのは、
たかだか4年(しかもきちんと勉強したのはここ2年くらい・・)
のことにしかすぎません。ずーーっと将来のこと、というのは本当の
ところわからない、というのが正直なところです。

 でも、やっぱりできる限りその方が生きやすい環境を整えるように
考えていきたいなあ、とは思います。
−−−−−−−−−−−−−−−
 > で、実のところ私も自閉症の方と意識してつきあいだしたのは、
 >たかだか4年(しかもきちんと勉強したのはここ2年くらい・・)
 >のことにしかすぎません。ずーーっと将来のこと、というのは本当の
 >ところわからない、というのが正直なところです。

 C君に対しては意識して構造化を一部取り入れて関わり出したのは
ここ1年と少しです。

 写真・絵カードでコミュニケーションすることを教えてみました。
 で家で好きな所にいけるように、いろいろな場所の写真を手帳に
入れてあげました。でも、たかだか8か所程度です。それ以外のところに
行きたい、と言えないなあ・・・と思っていたら、彼はカードの裏の
白紙部分をお母さんに示して要求しました。

 カードなどを示すことを教えてから指さしが増えました。
 しかし、カードを見て欲しい人に見てもらいながら、示すということが
できませんでした。よそ見をしながら別方向に向けて示してたりします。
そこで相手の肩をとんとんして注意を向けてもらうことを教えてみました。

 これをやり始めてから、相手の目を見てカードを示すようになりました。
 また「おーい」とでも言うように離れたところにいる人に手をあげること
も出てきました。

 以前はトイレに行きたい時に黙って行こうとして、止められつらい目を
することも多かったと思います。(本人がまんしてしまうからわからない・・
・・でも、止めてすごーーくもじもじあばれそうになった時、つかんで
いた手をはなすとピューッとトイレに走っていく、ということもあった)

 それがカードでトイレを示して行くことができるようになりました。

 そして最近は止められそうになった時に、トイレを指さして意思表示
できるようにもなりました。

 これは1例にしかすぎません。他のお子さんには当てはまらないかも
しれません。

 でも、私は構造化された教育の中で周囲が本人にわかりやすくなったり、
他人にわかりやすく伝えられた経験が増えれば増えるほど、こちらの意図
を越えて(構造化を越えて)本人が力を示してくれることがあるのだなあ、
と実感しています。

 いや、構造化を越えて、って書いたけどTEACCHの人は「それが構造化
なんだよ」って言うかな(笑)
−−−−−−−−−−−−−−−
○○さん、こんにちは。

 >これって、「脱構造化」の一歩ではないかと解釈したいのですが。

 ええ。それでもいいと思います。

 どう言ったらいいのだろう、「構造化」してわかるようになって
「脱構造化」もできる場合もある。もちろんできない場合もあるけど。
でそういうのも含めて「構造化」なのだよ。

 そして、私の上げた例はコミュニケーションの例(しかし視覚的構造化
とも言えるわけですね)ですけど、こちらが考えた以上のことを本人が
工夫してやってくれることもあると・・・


posted by kingstone at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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