大昔の話です。
知的障害特別支援学校小学部3年目の2学期の話です。
−−−−−−−−−−−−−−−
12月4日
めちゃ怖かったり不気味だったり
いろいろ考えるとこはあるのですが・・・
「褒める」にしても「叱る」にしても本人にわかるようにやらないと
駄目だ、というのは確実ですよね。ところで「叱る」あるいは「不気味」が
効果があったとして・・・
「骨の随にまで響くように強烈に叱る」ことができる人、知ってます。
複数。子どもがピリッとしてなかなかよく言うことを聞きます。で、安全も
確保でき、授業もうまくいき・・・
(○○さんの場合は「そういうやり方じゃない方がいいみたい」と
気づいて下さった、という方でしたが。で、上記の方には私の苦手な方も、
そうでない方もいらっしゃいます)
さて、その方の言うことは聞くけど、他の方の言うことはきかない、って
事態もよくあります。で「やっぱりああやらないかん」というような話に
なったり「私とやったら大丈夫」というような話になったりするわけで。
でも、そういう人がそのお子さんが成長する課程でずっとついていく
ことができるのだろうか。卒業して社会に出た時もそういうふうに叱ったり
不気味だったりする人が「必要」である、という体制をとらないといけなく
ならないのだろうか。
私は最近思いだしてるのは、もしそういう方がいらっしゃらないと
うまくいかない授業や体制はそっちが間違っているのじゃないか、って
ことです。
もちろん「叱る」あるいは「不気味」がうまく作用して他の方との
関係も良くなる、というのであれば何も言うことは無いわけですけど。
で、私自身は「情けない私」でもできる「方法」であれば、それを
伝えることができれば他の方でもやって頂けるだろうなあ、ってこと
なんですけどね。
まあこれが言うはやすく、やるのはむつかし、というやつですけど。
−−−−−−−−−−−−−−−
追記
「授業もうまくいき・・・」と書いていますが、ほんとにうまくい
っていた授業なのか、子どもが「わかって嬉しい」「やった!」みた
いな授業だったのか、疑問です。
わからないけど、とりあえず静かに座っておこう、になってなかっ
たか。
また「怖い」と当時書いていますが「威嚇と暴力」であったりした
わけです。目の前のことを正確に書かないと議論にならないですね。
知的障害特別支援学校小学部3年目の2学期の話です。
−−−−−−−−−−−−−−−
12月4日
めちゃ怖かったり不気味だったり
いろいろ考えるとこはあるのですが・・・
「褒める」にしても「叱る」にしても本人にわかるようにやらないと
駄目だ、というのは確実ですよね。ところで「叱る」あるいは「不気味」が
効果があったとして・・・
「骨の随にまで響くように強烈に叱る」ことができる人、知ってます。
複数。子どもがピリッとしてなかなかよく言うことを聞きます。で、安全も
確保でき、授業もうまくいき・・・
(○○さんの場合は「そういうやり方じゃない方がいいみたい」と
気づいて下さった、という方でしたが。で、上記の方には私の苦手な方も、
そうでない方もいらっしゃいます)
さて、その方の言うことは聞くけど、他の方の言うことはきかない、って
事態もよくあります。で「やっぱりああやらないかん」というような話に
なったり「私とやったら大丈夫」というような話になったりするわけで。
でも、そういう人がそのお子さんが成長する課程でずっとついていく
ことができるのだろうか。卒業して社会に出た時もそういうふうに叱ったり
不気味だったりする人が「必要」である、という体制をとらないといけなく
ならないのだろうか。
私は最近思いだしてるのは、もしそういう方がいらっしゃらないと
うまくいかない授業や体制はそっちが間違っているのじゃないか、って
ことです。
もちろん「叱る」あるいは「不気味」がうまく作用して他の方との
関係も良くなる、というのであれば何も言うことは無いわけですけど。
で、私自身は「情けない私」でもできる「方法」であれば、それを
伝えることができれば他の方でもやって頂けるだろうなあ、ってこと
なんですけどね。
まあこれが言うはやすく、やるのはむつかし、というやつですけど。
−−−−−−−−−−−−−−−
追記
「授業もうまくいき・・・」と書いていますが、ほんとにうまくい
っていた授業なのか、子どもが「わかって嬉しい」「やった!」みた
いな授業だったのか、疑問です。
わからないけど、とりあえず静かに座っておこう、になってなかっ
たか。
また「怖い」と当時書いていますが「威嚇と暴力」であったりした
わけです。目の前のことを正確に書かないと議論にならないですね。