※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2022年02月05日

『江戸の学びと思想家たち』辻元雅史著





読書メモ

 このあたりのことは、どういう流れがあったのか、とか全然知らず、いくつかの単語のみ知っている、という状態でした。少しは流れが把握できて面白かったです。

江戸時代は「文字社会」として成立し、文字を知らないと損をする社会であった
武士身分の知識人は四書五経の素読(声に出して読んで丸暗記)から始めた
庶民は手習い塾で筆記から始めた(寺子屋は上方のみの呼び方。そして明治政府が寺子屋という言葉を使ったので普及した)

1627 『塵劫記(算数書)』初版
1722 室鳩巣「江戸に八百余人の手習い師匠がいる」(江戸八百八町だから、一町に一人はいる、と言いたかっただけかも)

1702(元禄15年) 『元禄太平記』「京都には『本屋(出版社)』が7〜80軒あった」
半世紀遅れで大阪で、さらに18世紀中期以降に江戸で商業出版が賑わう。

まずは『平家物語』や『太平記』などの「語り物」が出版された。
続いて『徒然草』『伊勢物語』『源氏物語』『万葉集』『古今和歌集』『枕草子』『方丈記』など。これらは先に注釈書も出ていたし、講談でも扱われていた。
(芸能で普及していたものが文字化された。米朝全集を文字化して出版するみたいなものか。


儒学のテキスト

○中国・朝鮮からの舶載書(無点本)
○林羅山(1583〜1657)などが返り点や送り仮名などをつける
○返り点などがついたものを和刻本として印刷

山崎闇斎(1618〜1682)

幼時に比叡山、次いで禅寺に送られた。土佐はもともと「禅儒一致」の学統があったが、吸江寺で禅を排し朱子学を優位とする立場を学ぶ。「持敬静坐(居敬)」を大事にする。
朝鮮の李退渓の『自省録』に衝撃を受け、朱子の息遣いまで学ぼうとする。蔵書の表紙は朱色に、服も朱色に・・・(ファンというか・・・アイドルオタクというか・・・)

京都で塾を開いていたが、保科正之の知遇を得、毎年のように江戸に講義に行き、会津や幕府の治世に闇斎朱子学の影響が見てとれる。

「寛文異学の禁」仏教排斥。闇斎朱子学以外の禁止。1666年。山鹿素行は赤穂に配流された。ここから歌舞伎の赤穂浪士討ち入りのさいの

「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、」

という話につながるのだけど、これはフィクションみたい。そりゃ、今からテロをしようという時にはまず静かに近づくわな。
1667年 熊沢蕃山、京都から追放


弟子への伝え方「講釈」
聞いている弟子が恐怖を覚えるほど、非常に厳しく激しいものであったらしい。


伊藤仁斎(1627〜1705)

闇斎朱子学に没頭していたが、そこから闇斎や朱子学へのもっとも激しい批判者となった。
京都の町人文化の人。親戚は芸術家だらけ。

弟子(仲間?)への伝え方「古義堂」での「同士会」
「講者(輪番)」が話題提供をした後、みんなが意見を出し合い、「会長」がコメントするが、甲乙などの序列はつけない。
(連歌や和歌の会に似てる)
「人倫日用(道は日常卑近な人と人のつながりの中にある)」
出版はせず、学びたい人はサロンに参加。


荻生徂徠(1666〜1728)

14歳の時、父が江戸払いとなり、房総半島の真ん中あたりで暮らす。
「講釈(闇斎)」の否定。「看書」舶載書をそのまま読み、理解することの大切さ(しかし、めっちゃ難しいやろな)。

弟子への伝え方「会読」「輪講」
著書や注釈書は死後出版された。


貝原益軒(1630〜1714)

福岡の人。京都で7年間の遊学経験あり。人とのつながりを大事にする。
「民生日用」日々の人々の暮らしに役に立つこと、を大事にした。
『養生訓』を始めとしたベストセラー作家。それゆえに難しげなことを言う人たちからは馬鹿にされたりしていた。

著書の一部
『花譜』- 1694年(元禄7年)
『菜譜』- 1704年(宝永元年)
『大和本草』- 1709年(宝永6年)刊行、和装本。
『養生訓』、正徳2年(1712年)
『和俗童子訓』1710年

『和俗童子訓』の自序に「師匠もいない田舎の子どもたちが独習する便宜になるように、平明な仮名で書いた」と記した。
「物理学」の初出は貝原益軒。
対象は「読書する民衆」

なお、明治初年、聖書を和文に翻訳するにあたって、わかりやすくしかし通俗的になりすぎない格調を保つ文体として、貝原益軒の和文をモデルにしたって。


石田梅岩(1685〜1744)

「梅岩は奉公のかたわら、かねてから神道を修め、鈴をふり、町々を廻ってでも「人の道」を説き広めたいという熱い志をいだいていた(『石田先生事績』)
基本的には耳学問。そのため「四書ノ素読モセザル[無学の]者」と世間からあざけりを受けた(『都鄙問答』)

開悟体験

学び疲れ夢うつつの夜明け、雀の啼声とともに大悟した。(って一休禅師とほぼ一緒やん・・・あちらは烏だけど)
「読書する民衆」の背後にもっと広く広がる「文字の読めない民衆」に対して口語で自在に語った。

弟子 手島堵庵(1718〜1786)

石門心学コミュニティーの組織化(寺院本末制や家元制度と相似)
子ども相手にも開講(「前訓」)

弟子 柴田鳩翁(1783〜1839)

「『聖人の道』をお知らせするために、『詞をひらとうして、たとえをとり、あるいはおとし話』をまじえて『神道でも仏道でも、何でもかでも取込』み、『通じやすいやうに』『軽口話のやう』に話す」
って落語や現代の講談・講釈の源流のひとつなんやろな。
またこれら「道話」は「雀はちうちう、烏はかあかあ」「外に願い求めない」ってことだから・・・禅の認知やマインドフルネスと同じようなところをねらってる感じがするな。

寛政の改革

松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革。この頃天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、そして天明の大飢饉により、世の中が乱れに乱れた。そこで心学で民心を安定させようとした。(しかし心学ははやったみたいだけど、人々の暮らしは経済政策が基本的に緊縮政策だったからうまくいかなかったみたい。精神論よりまず経済やわなあ・・・)


本居宣長(1730〜1801)

京都に遊学しいろいろなことを学ぶ。まめな人で漢文で日記を書いていたが、ある日から突然和文になり、すると歌会参加、芝居見物、物見遊山、宴会、遊郭通いなど、非常に自由な内容になった。なお、遊郭通いの部分は後年何者かに破棄されてしまった。

文字以前の古代の<やまとことば>を探り当てようと『古事記』に向かった。
『古事記』は稗田阿礼が誦習(しょうしゅう)する伝承を太安万侶が文字に起こしたもの。

弟子や仲間への伝え方「歌会」「出版(伊勢、名古屋、京都の書肆から)」「通信教育」


平田篤胤(1776〜1843)

本居宣長に私淑。宣長死後宣長長男に願い出て「没後の門人」と認めてもらった。
関心は「人は死後どうなるのか」
神道の二大門流、吉田家(幕府につながる)、白川家(地方に影響力をもつ)の両方の講師となった。

伝え方「講釈」(全国ツアー)
「出版」門弟たちの醵金で(クラウドファンディングみたい)


さて、では、ネットが広がった現代、どういいうやり方があるのか。


桂米朝師匠の「三年酒」には心学・講釈などの話が出てきます。


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