1889年(明治22年)
大日本帝国憲法発布。衆議院議員選挙法制定(制限選挙・小選挙区制・記名投票)。満25歳以上の男性で直接国税15円以上を納めている者に選挙権付与。
(総人口の約1%)
選挙に関われる人数が少なければ、直接暴力で威嚇することの効果は大きかった。
1925年(大正14年)
納税条件撤廃。満25歳以上の男性全員に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)。中選挙区制を導入。
(総人口の20.12%)
選挙に関われる人数が多くなり、直接暴力で威嚇することが難しくなり、効果が少なくなり、それよりお金を使う(買収)ほうが効果的になった。
1945年(昭和20年)
衆議院議員選挙法改正。満20歳以上の男女に選挙権付与(広義の普通選挙・完全普通選挙)。大選挙区制限連記制を導入。
(総人口の約50%)
この本では明治維新の前の志士は維新後に力をもつことにならなかった、ということを書いているが、結局散発的なテロでは効果がなく、藩の正規軍に入った、という意味らしい。
また維新前後は軟弱になっていた武士よりも、博徒のほうが実戦経験があったので、藩などに召し抱えられることもあったが、維新後は何の報酬も無かったと。
1884 賭博犯処分規則
これにより、博徒の生活が苦しくなる。
また地域住民も
松方デフレで生糸の値段が下がり困窮していた。
"大隈重信は…「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張"
"松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策"
ここんとこの勉強で基本的に兌換紙幣(一定の重さの金や銀との交換を保障する)がデフレを生む、ということだけど、どうなんだろう。
(秩父困民党事件)博徒でもあった田代栄助がリーダー。
しかし、地域住民からの支持もあった。
志士については、明治維新後野に下った武士の反乱はいろいろあった。
1875 新聞紙条例
1877 西南戦争(鹿児島)
1880 集会条例(500人以上の壮士が首都から追い出された)
しかし、アメリカやイギリスにも選挙干渉、選挙妨害はいろいろとあった。
NY エンパイアクラブ
それを取り締まるために
1868 英。判事が汚職捜査をできるようにした。
1870 米。国政選挙を取り締まれるようにした。
1890年に議院となった
尾崎行雄は、議院内でも暴力をよくふるわれている。
というか、壮士をボディガードとして引き連れている議院が多く、暴力沙汰はしょっちゅうだったみたい。そして
1892
(明治25年)、楠本正隆らが組織した民党(自由党)の院外団ができ、これが各政党の壮士の組織となる。しかし暴力への容認は世間でもあった。
なお、壮士については
肉体的な危害を加える場合は、誰を殴ったか、またどこを殴ったかに応じて報酬額が決まった。 |
この仕事を金銭面で見てみると、壮士のあいだで申し合わせがあった節がうかがわれる。というのも、ライバル壮士が自陣の公開集会に出席していた場合、退出願う前に少なくとも短時間は連中にひと暴れさせてやるという不文律が見られるからだ。そうすれば彼らも報酬を手にできるという配慮なのだろう。 |
ってことで、プロレスやな・・・
アメリカでは集票組織マシーン
NY市第6区の消防隊長マシュー・ブレナン
40人かそこらの屈強な若い男からなる集団を予備選や本選に送り込む
"買収および供応を含む移民に対する集票工作が政治腐敗を招き、1800年代半ばのウィリアム・M・トウィードが会長を務めていた時代には悪名を轟かせるなど、「タマニー・ホール」と言えば票の買収操作の代名詞となる"
1913 明治大学の学生だった時、図書館に行こうとして犬飼毅、尾崎行雄の演説に感激。桂内閣への抗議デモに参加。逮捕される。しかし苦労したのに対価はもらっていないと考え、政友会本部へ行き、お昼ごはんをおごってもらい、お金を受け取る。その後、院外団の青年部門、鉄心会の壮士となる。壮士には博徒もテキヤも居た。
(学生壮士は基本的に食事でつられる)
憲政会院外団は早稲田の学生が多かった。
"1919年(大正8年)10月10日、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)は、全国的な右翼団体を創設するべく、政友会の米田穣代議士をまとめ役として博徒等関西壮士の大親分36人を東京に呼び寄せて会合を開いた"
この本によると親分衆のほうが声をかけたとのこと。会員は建設請負業者とヤクザの親分。労働争議を抑え込みたいとの思い。
現在はどうなっているかというと・・・
"國粹会(国粋会、こくすいかい)は、東京都に本部を置く暴力団。かつては独立した指定暴力団であったものの、2005年に山口組の二次団体となった。"
正義団という団体もあった。
著者は
ナチのSA(突撃隊)
イタリアのスクァドリズモ(黒シャツ隊)
との対比を書いてはるが、国粋会も正義団も「そこまではいっていない」感は強い。
この1919年はどういう時代か
"神戸の三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所(現・川崎造船神戸工場)における大争議を指導するし、労働者による工場自主管理や約3万5千人を組織した大規模デモなどを指導するが、示威行動中の労働者と警官隊との衝突により、賀川をはじめ百数十人の組合幹部が一斉に逮捕され、戦前最大の労働争議は労働組合側の敗北に終わった"
1922 雑誌で武闘派の代議士を紹介。(強く、乱暴であることが売りになっていた)
もともとは壮士は自由民権運動(つまり政府に対立する立場)から出てきているが、植民地政策の先兵になり、軍などからお金が出ていた。(政治的意図よりお金の重要性が大きくなる)
1932 5.15事件 政党内閣の終わり
1936 2.26事件
(民間ではなく正規軍の一部の起こした事件)
1930年代になると、民間の暴力組織の重要性は下がる。正規軍や憲兵、警察など、政府の組織で住民を管理できるようになったから。
戦後
巣鴨刑務所から
岸信介
笹川良一
児玉誉士夫
が出てくる。活動資金は企業(経団連)とCIAからの資金
(これは陰謀論ではなく、歴史だよね・・・)
しかし世の中が変わったのは、
1959 強行採決を阻止しようと社会党議員や秘書が議長室選挙、また暴力をふるうことがあったが、世論の大きな非難を受けた。
1960 三池炭鉱闘争(それ以前も暴力団が組合員を抑えるためにたくさんの労使紛争の場で使われていた)
安保反対デモでの樺美智子さんの死亡(デモ隊には暴力団が襲いかかっていた)
浅沼稲次郎が山口二矢に暗殺された。
これで世論は徹底的に暴力を容認しない方向に触れた。
(しかしその後も極左、極右は使うこともあるが・・・)
選挙への影響力も「暴力」よりも「お金」という傾向がより進んでいくことになる。
こういう歴史を見ると、今はいいな、と思うのだけれども、先日のアメリカの大統領選挙とそれに続く議事堂乱入を見ていると、世界的にはまだまだどうなるかはわからない、という思いは浮かぶ。
あと、ロシアは暗殺されかけた人について大統領が「我々がやったのならもっとうまくやる」という国だし・・・
日本だってわからないよね。