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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2020年05月03日

教育実践の論理から 「エビデンスに基づく教育」を問い直す 石井英真著




 はじめに、の中でこう書かれている。

学校教育に関する議論で「エビデンス」という言葉が聞かれるようになった一つのきっかけは、2000年前後に起こった学力低下論争であった。学力低下の事実、「ゆとり教育」の是非が問われたが、根拠となる実証的データのなさが問題視され、それが全国学力・学習状況調査(以下、全国学力テスト)の実施にもつながった。また、「エビデンス」という言葉が使用されるようになった時期は、義務教育における質保証のシステム(PDCAサイクル)の確立が提起されるなど、教育の営み、特に教育目標と評価が、経済学や経営学の言葉で語られるようになった時期でもあった。

 なるほど「ゆとり教育」で学力が下がったのではないか、という声が出て、それにからんでOECDのPISAへの言及や、全国学力テストの話が出てくるのだな。

1972日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに「学校5日制」を提起
2002教義の「ゆとり教育」の開始。「総合的な学習」始まる。
2011〜2013改定された学習指導要領の施行。・・・脱ゆとり教育

 Wikipediaはそれこそ「根拠」としては馬鹿にされるけれど、文部科学省のサイトだと「建前」「きれいごと」しか書かれていないけれど、Wikipediaだと批判的意見なども書かれているので参考になるよな。



エビデンスを重視する考え方は、1990年代初頭の「エビデンスに基づく医療(evidenced-basedmedicine:EBM)」に始まり、1990年代後半から刑事司法、社会福祉、教育といった社会科学分野にも広がっていった。
OECDも、PISAをはじめとする「教育インディケーター事業(IndicatorsofEducationSystems)」や「教育研究革新センター(CentreforEducationalResearchandInnovation:CERI)」による「エビデンスに基づく教育政策研究(Evidence-basedPolicyResearchinEducation)」プロジェクトを通して、先進諸国におけるエビデンスに基づく教育政策の展開を牽引している。

サケット(D.L.Sackett)らによれば、EBMは、「個々の患者のケアに関して意思決定するために、最新かつ最良のエビデンスを、誠実に、明示的に、思慮深く用いること」􏰅と定義できる。そして、エビデンスには、「つくる」(産出)→「つたえる」(伝達)→「つかう」(活用)という三つの段階がある。

これは、いつ出た定義だろう?

後で出てくるが、2000年には変わっているから。

EBMにおいて、エビデンスが量的なものに限られるというのは誤解であり、専門家の臨床経験やそれに基づく意見、ナラティブやエスノグラフィーなどの質的研究の成果も含まれる。しかし、それらは弱いエビデンスとされ、もっとも強い(推奨度合いの高い)RCTとメタ・アナリシスを経たエビデンスの産出がめざされる。

強いエビデンスを得るための計画
医学、薬学、公衆衛生領域を対象とするコクラン共同計画(theCochraneCollabo-ration)
社会科学分野を対象とするキャンベル共同計画(theCampbellCollaboration)

一方、エビデンスを「つかう」のは、主に実践者や政策立案者である。「つくる」主体と「つかう」主体との間には、しばしば職務内容、文化等の面でギャップが存在する。そこで、二つの集団のギャップを埋める仲介機関や利害関係の調整役が必要となる。


確かに、

「使う人」政策立案者、文部科学省、教育委員会
「作る人」研究者
「関係ない人」ほとんどの教師

となっている感じがする。

 私は昔から大学教員に「エビデンスを作ってくれよ。それは現場教師の仕事じゃないだろう?現場の実践に忙しいんやから」と思ってきていました。そこに調整機関がかんでくれればいいよなあ。

医療分野だろうけど、調整機関として

米国のWWC(WhatWorksClearinghouse)
英国のEPPIセンター(EvidenceforPolicyandPracticeInformationandCo-or-dinatingCentre)

など

実証的・統計的手続きを経たエビデンスが蓄積されたとしても、実際にエビデンスを「つかう」段階では、実践者や政策立案者は、目的や状況に応じて、量的データのみならず質的デタも含む多様なエビデンスを用いて判断や意思決定を行う。それゆえ、「エビデンスに基づく(evidence-based)」という言葉ではなく、「エビデンス情報に照らした(evidence-informed)」という言葉が用いられるようになってきている。


英国において、ハーグリーブス(D.H.Hargreaves)の「教員養成研修局(TeacherTrainingAgency)」での1996年の講演「研究に基づく専門職としての教職:可能性と期待」を契機に起こった論争が有名である。


ハーグリーブスの主張したこと

ハーグリーブスは、医師と対比させながら、教師が「研究に基づく専門職(research-basedprofession)」となっていない現状を指摘した。自然科学を軸にした知識基礎が明確な医師に対して、教職については合意された知識基礎がなく、共有された専門用語も欠如している。ハーグリーブスが、「研究に基づく専門職」というとき、研究を実践に機械的に適用する過程でなく、状況に応じた実践的判断が重要だと捉えられている。また、専門職としての熟達は、実践的な経験や知識の獲得だけでなく、実践を正当化する力量や根拠の獲得という点からも捉えられている。

 私の関わっている特別支援教育では「共有された専門用語」も無いことを痛感している。
 というか、「単語」をご存知なくて、専門用語を使ってはまずもって対話が成立しないので、わかりやすく単語をかみくだいて説明してやっと対話が成り立つ場合が多い。

ハーグリーブスは、研究に基づく専門職になっていない教職の現状の主要因を、教育研究が積み重ねに欠け、研究と実践との関係が希薄であることに求める。教育研究のほとんどは、小規模なもので追試されることもなく、医学研究のように、こういう状況でこういう対象にならこの方法が効果的であるといった、専門家の臨床判断を下支えするような実践的かつ実証的な知見(効果研究によるエビデンス)が蓄積されていないというわけである。


「教育研究が積み重ねに欠け」私が勤務した養護学校でも毎年「紀要」は出されていたのですが、今読み返しても、いったい何を書いているのかわからないような文が多いです。またどう読んでもすごくとんちんかんなことしか書いていない文も多かっったです。
なんかいかにもむつかしげな言葉が書いてあっても、「本、読んだのね」としか感想が持てないような文とか。その方の行っている実践とは結びついていないというか。

患者の症状の診断や治療に関する日常的なやりとりにおいて、医師は研究や学術雑誌を参照する。これに対して、研究の蓄積のなさゆえに、教師は、先輩教師たちによって蓄積された知恵にも、研究によって生み出されたエビデンスにも依拠することなく、ただ個人的な好みによって、自らの実践経験における試行錯誤のみを通して、自身の専門職としての実践をつくっていくことになっていると、ハーグリーブスは述べる。


ですねえ。

 以前、内山登紀夫さんが「養護学校の先生ってどれくらい文献読むんだろう。本、論文、だけでなくレポートでもいいし、月に20本は読んで欲しいけど」とおっしゃっていたことがあります。少なくとも私の周囲では私以外だと、ほとんどの教師は月に1本も読んでませんでした。実践障害児教育を毎月とっている先生だって全校で私ともう一人くらいだったかな。

ハーグリーブスは、実践家が経験的に身につけた洗練されたスキルを、量的・実証的なエビデンスで置き換えることを主張しているわけではない。実践的判断において、実践知とエビデンスに基づく知見とを統合することを求めている。しかし、教師の実践的判断において、科学的検証に耐えられるエビデンスがより重視されるべきだし、それがより妥当な決定・判断や専門職性の確立をもたらすと考えているのである。

 本当に自分がやったことを記録し、それに対してお子さんの行動変容がどう起こったか、起こらなかったか、というのを正直に書けばいいだけなのに・・・

 例えば私が勤務した知的障害養護学校では、少なくとも私の勤務した前半は全校的に「威嚇と暴力を教育の主軸においた学校」だったのに、紀要に「威嚇を使った結果こうなった」「暴力を使った結果こうなった」という記述はありません。
「当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、それがちゃんと記録されていれば、その後、それが妥当であったかどうかも議論できます。しかし「絵空事」しか書いていないものについて議論したってそれは「絵空事への感想を私はこうもった、あなたはこう感じた」というのがあるだけで、エビデンスのある教育論にも教育技術にもならないじゃないですか。

教育実践はより実証的エビデンスに基づくものとなるべきであり、そのためには教育研究の方法や組織や文化にドラスティックな改革が必要だとハーグリーブスは述べる。教育研究は、投入されている予算に見合うような、実践の効果に関するより強力なエビデンスを生み出していく必要があるというわけである。また、医学においては、研究する者と研究を使う者(実践者)の壁は低く、実践者である医師が研究の主体でもありうる。同様に、教育研究は、専門職の実践とのより生産的な関係性を構築すべきであり、研究の使用者(実践者や政策立案者)が、研究の計画・実施、および、ピア・レビューや研究予算の配分の決定に関与すべきだとも主張した。

 私も現役時代に「論文書けよ」と言われたことがあるのですが、やっぱり「そんな暇無い」と答えてました。もし仲介してくれる人・組織があったり、研究者さんからの申し出があったりしたらできたかもしれないけれど。

2.「エビデンスに基づく教育」への批判

ビースタ(G.Biesta)の「エビデンスに基づく教育」への批判のポイント

(1)教育における因果関係と技術の問題
「エビデンスに基づく教育」は、「効果的介入(effectiveintervention)」という発想を前提

基づく2つの考え方

・専門職の活動の「因果関係モデル(causalmodel)」
 特定の介入(原因)を行えば確実にこういう成果(効果)が得られる

しかし、「効果的であること(effectiveness)」は、介入手続き自体の質(道具的価値)を指す
その介入が何をもたらすのか(「何にとって効果的なのか(effectiveforwhat?)」)が別途問われなければならない

例えば、「視覚支援」を使うことによって、自閉症スペクトラムの人とのコミュニケーションの確実性は飛躍的にあがる。そして適切なコミュニケーションが増えるだろう。

しかしご本人がその結果どういう行動を選ぶようになるかはまったくもって別問題である(ただ破壊的な行動は無くなる、減るということは言えると思う)、みたいなことが頭に浮かびます。

この後にこう書かれているのですが

次に、専門職の活動を効果的介入と見なす発想は、目的と手段の分離を前提としている。活動の目的は所与のもので、専門家や研究者は、その目的をどう効果的で効率的に達成するかを問うのみとなりがちである(専門職の活動の「技術的モデル(technologicalmodel)」)。
これらの考え方は、医学の一部の領域には当てはまるかもしれない。しかし、それは教育分野に適用することはできない。因果関係モデルについて、「生徒である」という状態は、「患者である(治すべき病気がある)」といった形で単純化できない。何より、教育は物質的な相互作用ではなく、象徴的な相互作用の過程である。教えることで学習への何らかの効果が生じたとすれば、それは学習者が教えられたことを解釈し、意味を生成したからである。このように、教える者と学ぶ者の相互の解釈によって成立する教育の過程は、学習を規定する諸要因のすべてを把握し統制し、因果関係的なテクノロジーを確立するにはあまりにも複雑で、オープンで再帰的なシステムなのである。
また、特定の介入が効果的か否かを知ることは、教育的な活動を決定する際の十分条件ではなく、特定の介入が望ましいか否かに関する問いを避けることはできない。

 言わんとされることはよくわかります。
 そして現在の特別支援学校では、

「学習者が教えられたことを解釈し」の段階で大間違いなことをやっていて、「教える者と学ぶ者の相互の解釈」がまともに起こっておらず、その後に起きる活動もグダグダになっていないか?

 だからそれ以前の、技術としての視覚支援が使える知識・技術が基本に無いことがおおいに問題で、特別支援学校、特別支援教育では、「エビデンスに基づいた教育」を語る以前のことが問題なのだなあ、というのが痛感されます。

エリオットは、ビスタ同様、内的善に導かれた倫理的実践として教育を捉える立場から、「エビデンスに基づく教育」が、実践にとって外在的な目標によって、実践を機械的・技術的に統制しようとする「成果に基づく教育(outcome-basededucation)」の考え方に基づいている点を批判する。
 これも「外在的な目標」を何にするか。
 何を測定すればいいのか、というふうに考えていけばいいのじゃないだろうか?
 特別支援学校の場合で言えば、それは「学力テストの点数」ではない。

どれだけ
「本人が楽(居心地がいい)か」
「周囲の人が楽(居心地がいい)か」
とかが「成果」だろうし、もちろんじゃあそれをどう「量」として測定できるか考えるととても難しいことになるのだけど。


対立する二項?

量的研究 VS 質的研究
標準化された大規模調査 VS 個別具体的な事例研究
実証された科学的知識 VS 活動に埋め込まれた実践知
効果に関する科学研究 VS 価値に関する規範理論

「価値に関する規範理論」?
 わかんねえ。

 しかし、これらも対立するものでもなさそうな気がするが。

 そして、統合しようという動きはEBMでも起こっており、2000年には定義はこうなったという。


RCTによる実証的な根拠のみをエビデンスと捉え、患者の好みや状況を無視してエビデンスに従うような、教条主義的でマニュアル的な実践をEBMが生み出していないかという危惧が高まる中、サケットらのEBMの定義も2000年の段階で、「最良の研究のエビデンス(researchevidence)を、臨床的な専門技能(clinicalexpertise)と患者の価値観(patientvalues)と統合すること」と変更され、場の状況
に応じた総合判断や患者の好み・意志を尊重することが強調されることとなった。

 まあただ「反ワクチン」の信念をもった人にはどう対峙するんだろう・・・

医師による診断と介入という技術的過程の視点だけでなく、医師と患者との「協働的意思決定(shareddecisionmaking)」という対話・コミュニケーション過程の視点からも、医療行為が捉えられつつあるわけである。こうして、医学分野でも、量的効果研究をベースとするEBMと、質的改善研究をベースとするNBMとを統合することが課題になっているのである。

 オープンダイアローグなどの流れにもつながっているかな。

特に教育という仕事については、何がよい教育かという教育目的・目標自体が論争的であり、しかも教え学ぶプロセスは、教師と子ども、子どもたち相互の複雑で象徴的なコミュニケーションによって成立する不確実性の高い営みである。

前にも書いたように、その最初の「コミュニケーション」の部分が現在の特別支援学校でできていない例があるよね。その後起こる「不確実なあれこれ」は成果として楽しむところだよなあ。

日本での過去のよりよい授業を作ろうとする運動

1980年代 教育技術の法則化運動
1990年代 授業研究
     事例研究
実践レベル、特に教室での授業レベルでは、一瞬一瞬の状況判断や子どもへの応答が求められる。応答的関係性の下で個々人に対する具体的で総合的な判断(熟慮)が求められる実践の場において、もっとも依拠すべきは、実践の中の理論(直観的なものだが、なぜそれが妥当かの事後的説明は可能なもの)である。実証された技術知は、あくまでも実践上のレパートリーを提供するのみである。また、ペーパーテストなどによって得られた量的データの系統的な収集・分析以上に、実際の子どもの表情・行動やノートの記述などから学習の質を多面的に具体的に解釈することが意味を持つ。
 これは実践者として納得できます。
 うまくいったことを事後的には説明できる。
 やってる最中は、「今、ここ」に従って動いているだけ、みたいな。

 ここで私はこう書いています。

「ところで、この記録は、学研のかつて出していた「NEW教育とコンピュータ1996年8月号」に掲載して頂きました。現在は休刊(つまり廃刊)になっている雑誌です。

で、その記事の中に大嘘があります。61Pに書いてある「学習指導略案」
そんなもん作ってませんから(笑)

あくまでも後になってみたらこういう意図で進んでいたんだ、と自分で気づけたというものにしか過ぎません。いろんなこと、これができるかな?あれができるかな?それをさぐりつつ、楽しいコミュニケーションを実現していこうとしていただけです。でも確か「指導案があるでしょうからそれ載せて下さい」と言われて、うんうんうなってでっちあげたんです。

まあ、通常校の通常学級の研究授業だと当然指導案は書きますが、普段だとそんなの書かなくても「指導書」とかに書いてるってこともあるし、指導案を頭に置きつつ授業する、ってことはあります。しかしそれ、特別支援教育でできるかなあ・・・」

その指導略案というのがこれです。
※画像はクリックすると大きくなります。
でっちあげ指導案.jpg

 そして、このエントリの前のところに自閉症のあるお子さんに対しての視覚支援についても書いています。うまくいった事例で、事後的に説明できます。しかし、特に関わり始めて初期の頃は、実はやっている最中はものすごくたくさんのことをやっていて、そのほとんどが失敗だったりします。

 その中でうまくいったことを集め、それ以外は使わないようにしていき、ということを続けることで「的確なコミュニケーション」ができていくようになるわけです。

 そばで見ていた親御さんが「無茶苦茶手数が多い」と感想を述べておられました。

 もちろん時間に追われてせかせかやっている、ということではなく、時間はそれなりにゆったり流れていると思いますが。

そして、いくつか論文を読んできてわかったのですが、私は「エビデンスが欲しい」と思っているけれど、「エビデンスに基づく教育」というのは、

先進諸国において、「エビデンスに基づく教育」は、教育における成果主義や結果至上主義、あるいは新自由主義的教育改革などと言われる動向とパラレルに展開している。

ということで、新自由主義を推進した人たちの論拠になってしまっている、というのがややこしさの元になっており、

「スタンダードに基づく教育改革」の展開は、グローバル化の進展と福祉国家の縮小を背景とした、公教育の新たなガバナンスの形の模索という、先進諸国に共通する課題と関連している。社会の成熟段階において、国家が福祉国家のコストを担うことが財政的に困難となっており、しかも変化が激しく人々のニーズも多様化する現代社会では、各地域の固有の状況に応じる柔軟性が公共部門でも重要になってきている。その結果、これまで国家が画一的な形で担ってきた公共領域を、さまざまなエージェントが分担して担っていくことが求められるようになる。その際、市場に委ねるか(新自由主義的方向性)、市民社会に委ねるか(社会民主主義的方向性)という点が、そして、局所的で多様な取り組みの質をどう保証するかという点が問われるようになってきている。

ということなのだな・・・

 例えば、今の日本で言えば、様々なエージェントのひとつがベネッセであったりするのだろう。

 その中で、政策決定の説明責任として、財政支出を減らせるよ、というエビデンスを積み上げる必要があるのだけど、それ例えば問題行動頻発の卒業間際の生徒に対して、「1対1で対応してます。我々はちゃんとやってる(ドヤ)」みたいな特別支援学校管理職がいたりするのだけど、実はそれはものすごく大きい無駄な支出(しかもどんどんこじらせている)になっていないか、というあたりで説明できるような気がするのだけど。

 しかし、これが通常校になると、「学力試験」の結果も「ひとつの(すべてではない!)大事な指標」であることは確かだろう。ただ、それは多くの指標の中のひとつであって、一番大事なことは、卒業後に「意欲的に自ら設定した課題に取り組める」とか「幸せに暮らす」とかになるのじゃないかなあ。

目の前の子どもたちへの応答責任を欠いた実践は、目標達成の自己目的化を招き、教育実践の萎縮や偽装を生みだす。そうした教育実践の形式化・空洞化は、教師たちが自生的に生みだしてきた教育文化を掘り崩していく。
おお、ここで「応答責任」が出てきた。
私にはまだよくわかっていない。

岩崎久美子は、教育においてエビデンスが持つ意味を下記の四点で捉えている。すなわち、@政策立案根拠、A予算獲得根拠、B説明責任根拠、C政策評価根拠の四つである。だが、これらの関係は並列ではない。説明責任に関わるABを文脈としつつ、実践・政策の改善に関わる@Cが求められているという問題の構図が重要なのである。
岩崎久美子さんの論文も読んでみたい。

「スタンダードに基づく教育改革」は、競争原理と結果至上主義の文脈に置かれる時、「テストのための教育」に矮小化される。

 ある意味、「まじめにやりすぎるとやばい」「原理主義はやばい」みたいなのと同じようなことか。競争だって大事だし、結果だって大事だし。

ちょっと思ったこと。

強度行動障害についてはこういう判定基準があります。

ここに書かれていることと対立する行動を形作るには、どういう指導が有効か、のエビデンスを積み上げていけばいいのかな。

posted by kingstone at 02:25| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月02日のつぶやき






































































































































































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