まだ2本読んだところですが、論文の中の意見としては「EBE の困難性」について書かれてるのが多いのかな。
実は私は
「特別支援教育においてはN数が少なすぎるので、RTCをすることもできず、またもしRTCをやれば倫理的に許されないことになるので、エビデンスを作ることはできない。だから EBE は不可能」
という仮説を持っていて、でもそれを「間違い」と証明できて「EBE は可能」となれば嬉しいな、という思いで論文を読み始めているのだけど。
いや、1事例研究もあるし、という意見もあるだろうけれど、ABAB実験計画って、なんかめっちゃ失礼な気もするし。
しかし、この雑誌「教育学研究」の対象読者としては主として通常校における通常学級での教育や高等教育に関心を持つ人が多いだろうし、主としてその立場で考えられている。
で EBE は無理じゃね、みたいな視点のほうが強いのかな。
そうなってくると、天邪鬼な私は「いや、もっとエビデンスに基づかんかい」と言いたくなってくる。
教育観の変容を経て成立可能になったエビデンスに基づく教育は、 それを要求してきた固有の歴史的・社会的文脈ゆえに教育を変質させ、教育の形骸化や空洞化をもたらすであろう。さらには教育学を廃棄に追い込んでいく可能性もある。 |
別に「古い教育学」が時代に合わなくなって廃棄になってもいいだろうけれど、新しい「教育学」は作り続けられていくのじゃないかな。
一般には教育政策をめぐって説明責任を果たす際の根拠として用いられる。限られた資源や財源を有効に(効率的・効果的に)活用するためには、恣意的なイデオロギー(イズムや理念)やドグマ(信条)や慣行の類いではなく、政策目標の達成に有効かどうかの客観的根拠に基づく合理的な評価に従って投資を決定する必要がある。同時に、投資された側(研究・実践サイド)もまた、期待されている成果がどれだけ得られたかを「目に見える」形で、つまりエビデンスを用いて示す必要がある。 |
そうですね、エビデンスってこういうふうに使われるものだと思いますね。
また著者は「説明責任」と書かれてますね。
今井さんは「応答責任」と書かれてましたが。
教育にエビデンスをと言い出した例。
英1997労働党マニュフェスト
米2002NCLB法
OECD国際学習到達度調査(PISA)
(これはエビデンスというより、PISAの得点を上げる実践を、という形でプレッシャーがかけられる。そして得点が上がればエビデンスとして採択されやすい、ということかな)
医療は治癒や快復という明確で一義的な目的を追求するのに対して、教育は、相互に葛藤・対立することもある多様な能力・態度の育成、あるいは人間としての成長や人間の形成といった、多義的で多様な解釈に開かれた目的を追求するからである。そのため、医療が何よりも科学的判断と技術に依拠するのに対して、教育ではたえず価値判断が求められ、技に満ちた実践的思慮が必要になる。「教育的に何が望ましいか」という価値判断をめぐっては、時に幅広い民主的な議論も必要になる。 |
ただ、医療にも価値判断は必要で、現在の「救命措置は必要ありません」という意思表示カードとかも、緩和ケアの広がりとかも、価値判断があってこそのものだよね。じゃあ教育は?
そのため教育はしばしば、「教育とは何か」「人間とは何か」という認識枠組みへの反省や批判を本質的なものとして要求する。教育は目的の達成に「役立つもの」(“whatworks”)を追求するだけでは到底すまない。 |
もちろんおっしゃりたいことはわかるのだが、「周囲の人のストレスを最大にし、かつ本人も決して幸せそうでない」状態、例えば強度行動障害にするような教育を放置するわけにはいかないだろうと思う。そこでは「役立つ」教育でないと困るし、エビデンスとしてはどうかは別として「役立つ」教育はある程度はっきりしていると思うし。
教育は手段の技術的操作によって合理的にコントロールできるものではないし、そうすべきものでもないのだ。 |
これもなあ、「合理的にコントロールできる」部分もあるし、その部分に働きかけてご本人が「わかる」「できる」ようにしないといけないだろう、と思う。
例えば「文字」。高等部になっても「この生徒は文字は読めません」と先生方が言う生徒について、もともと「文字を読む必要のある授業(好きな物を選択するために、好きな物の単語のシルエットを判別する、など)」を小学部時代からやられていないことが明白だったり・・・
文字、あるいは単語のシルエットのレベルでも、わかればどれだけQOLが上がることか。
それゆえまた、学校・教育が歴史的に積み上げてきた豊かな遺産を継承しようとはしないし、「民主主義」を維持し発展させていくことへの配慮もない。民主主義には、多数派の考えに従うという側面だけでなく、新参者や少数派の異他的な声や不同意を受容し、社会のあり方や生き方を批判的に問い直し、別様の可能性を探究していく側面もある。 |
そういうエビデンスを積み上げていけば良いのでは?
著者のいう学問的伝統の対立
テオリア VS プラクシス
実証主義 VS 解釈学
還元論 VS 全体論
科学 VS 人文学
説明 VS 理解
支配・統制 VS 共生・批判
観察者 VS 参加者
方法 VS 対話
ルール VS コンテクスト
真理 VS 共同体
内容 VS 概念図
う〜〜む、VSの関係にならないものもたくさんあるような。
並立するというか。
エビデンスに基づく教育は、研究と実践が一体となって政策に役立つことを求めるとき、トップ・ダウンや外在主義の立場を支持して教師や教育研究者の専門職性を脇に追いやり、専門家の自律性を奪っていく。 |
う〜〜ん、今、エビデンスに基づく教育なんてやられていないと思うけれど、教師(専門家だよね?)は自律性をもってない人がほとんどかも。
というか「勝手なこと」をやってるけれど、上から言われたことには逆らわない、というか・・・
アメリカからIEPの考え方が入ってきて、日本でもやったほうがいいよね、という話になった時、文部科学省が「書式は決めないから各地域、各学校で作ってね」と言ってきたら、現場の「よく勉強している先生方」が、「書式決めてくれないなんて無責任。できないじゃないか」とか文句を言ってたのを覚えている。
私なんかは、「なぜだ?」と思っていたけれど。
現場の教師が「こういうことを記録しておかないといけないなあ」と考えることが実現できるんだし。
そして、もちろん最初に理想的なものができるとは思えず、各地方、各学校で行われている「これはいい」という書式を参考にしてシェイプアップしていけばいいのだし。
それこそ「教育観」が百花繚乱の時代でも「上から言われなければ何もできない」「自律性のない」教育が行われていたのではないか。エビデンス云々ではなく。
その結果、教育実践・研究は内発的な動機というより、ペナルティや「インセンティブ」によって動機づけられがちになり、創発性やダイナミズムを失いがちになる。 |
ただなあ、「体罰」と呼ばれる「暴力」は、ペナルティで減少した面は大きいと思う。(懲戒処分、報道への公開)
インセンティブはあったことあったっけ?
このように自分たちの生き残りに懸命な人びとの耳には、上記(1)や(3)のような主張は、たとえわかりやすく説明できたとしてもとても届きそうにない。それらの人びとは、クライエントやカスタマーとして多様で変化の激しい「社会を生き抜く力」(第2期教育振興基本計画)の育成という政策目標を確実に実現してくれる教育に期待し、公教育には、民主主義の学習や人格・教養といった教育の理想を追求するよりも、将来の生活に直結しそうな学力・能力やスキルの形成を求めがちだからである。 |
これも、将来の「良い生活?」のために、受験競争を勝ち抜かそうとして、がんがん勉強させようとして子どもを潰してしまうようなことが背景にあるのはよくわかる。
しかし適切なコミュニケーション能力を身につけることなく「周囲を困らせる強度行動障害の人」として卒業させられる生徒を見る時、そのご本人の力で当然身につくはずの能力・スキルを形成することなく長い学校生活を過ごさせてきたことに怒りさえ覚える。
「最小国家をめざすリバタリン的な立場や、教育や人間の本質をめぐる議論を回避するポストモダン的な立場」
?そうなの?ポストモダンってそういうことなの?
リバタリアンは確かに最小国家を目指すだろうけれど。
したがって教育の過程は紛れもなく非因果的である。見えない要因や予期できない要因が複雑に絡まる教育の過程は合理的にコントロールできるはずもなく、その結果もまた予想がつかない。教える者は、その振る舞いや居住まい・佇まいの全体を見ながら学ぶ者を複眼的に評価し、長期的な展望に立って、その者にふさわしいと考えられる実践の機会や世界との出会いを用意するだけである。あとはその者がいずれ花を咲かせ、実りをもたらすことを願い祈りつつ、待つしかない |
ここにはほとんど反論はなかったりする。
その瞬間「年間指導計画って立てても無駄なんだ」と思いました。
当時の中学部の実践は・・・・
年間行事計画はスケジュールですから書けます。
しかし、一人一人の子どもは目の前でどんどん変化し、また停滞したりします。目の前の「今、ここ」を追求していくのでいいのじゃないかと思います。年間指導計画なんて立てられるのか?
年間指導計画を立てる時間にビデオ分析をした方がよほど役に立ちます。
書類作りに追われて肝心の実践ができないのは馬鹿みたいなことです。
つまり、いま、ここの瞬間はそれなりに合理的な指導ができるのですが、年間とか長い時間をとると無理になってしまいます。
「ねらい」はいつも持ってるんですけどね。
しかし、著者が「教育とエビデンスの反転」というものはよくわかります。
福祉の世界でも「困っている人を支援するために制度ができる」のだけど、それが「制度に合う人だけを支援する」になってしまうことはよくあります。
教育とエビデンスの関係がしばしば反転するようになる。<エビデンスに基づいて教育を評価する>という発想は、エビデンスが容易には得られない教育を視野の外に置くことによって、<エビデンスに基づいて評価できるものを教育とみなす>という考えに転じるようになるのだ。手法を現実に合わせるのではなく、手法に現実が合わせられるようになるのである。 |
しかし、その後ろに書かれていることは、さっぱり私に理解できない・・・(汗)
なんかエビデンスに基づく教育が商品交換の世界に入ってしまい何かが失われる、ということらしいが・・・
こうして教育をめぐる問いが転倒する。「授業でどのようにして能力を高めるか」という問いが、「能力を高めた授業といえるためにはどのようなエビデンスが必要か」という問いに反転し、「生きる力をどのように育てるか」という問いが「生きる力の教育が成功したといえるためにはど・・・のようなエビデンスが適切か(客観的か・偏っていないか・インパクトがあるか・わかりやすいか等々)」といった問いに転倒するのである。 |
あれ?
これって、めちゃくちゃ大切なことじゃない?
ここをたいていの場合はおろそかにしているから、今までの「学校ではこうする」という授業、行事を何も考えず(本人にあってるか、将来に役に立つかどうかも考えず)に活動している。
将来のことを考えれば、どのようなエビデンスが適切か(何を測定するのか)を考えて教育活動をすることはとても大切じゃないか。
その延長上にあるのは、求められるエビデンスをより確実で効率的に生み出すための教育システムの開発である。教育の失敗を防ぎ、力量のない教員でもうまくいくように、めざすエビデンスをわかりやすく単純化した上で、標準化・マニュアル化された指導、スモールステップに基づく学習、表現や思考のためのテンプレート、反復学習、それらを巧みに組み合わせたコンピュータの学習ソフト、等を導入して、インプット=教育的介入とアウトプット=エビデンスの間の隙間をできるだけ埋めることにより、因果関係を偽装するのである。だが、それは(長い伝統に支えられた従来の用法に従えば)もはや教育とはいいがたく、そこでは専門職としての教師の仕事も必要ではない。さらにそこでは教育という行為は、知る喜び・学ぶ喜びを促すわけでも人を育てるわけでもないので悦びを伴わず、学習と同様に自己利益(賞罰)によって動機づけするしかない。 |
そない言わんでも、と思う。
前半部分の「教育の失敗を防ぎ、力量のない教員でもうまくいくよう」というのはとても大切なことだし、標準化・マニュアル化できる部分はすることが大切だし。
で、それに続く指導方法の例がすごく「痩せている」というか・・・
「因果関係を偽装する」とのことだけど、例えば肢体不自由養護学校でコンピュータ学習を取り入れた時に、知るとか学ぶとかよりも本人に「できる喜び」は確実にあったけどなあ。
ただ、これは言えると思うのは、マニュアルがあったり、標準化されていたりした上で、その教師がそのお子さんを前にして、自分の肌で感じ、自分の頭で考えることの大切さがある、ということ。
「近年の「状況的学習」(situatedlearning)論や「真正な学習」(authenticlearning)論は、教育の再評価につながる可能性をもっている。」
この「状況的学習」とか「真正な学習」って言葉は知らなかった。
また気にしておこう。
だとすれば、エビデンスに基づく教育を評価するためには、全体論的で解釈学的なアプローチに依拠するしかない(1.1の(4))。その教育を多様な意味連関やコンテクストの中に置き、入手可能なデータも参照しながら、その機能や帰結を総体として評価するのである。そこでは多様な概念や事実の間で一定の意味の均衡を追求するものの、主張は確定的なものではありえず、(エビデンスに基づく教育と同様に)一定の物語に支えられた仮説としてつねに批判や反論に開かれている。だがそのような方法論に依拠しなければ、その教育自体は批判可能なものとはならない。 |
「全体論的で解釈学的なアプローチ」・・・わからん。
まあ、何でも批判や反論に開かれていなきゃならんのは何でもやろなあ。
posted by kingstone at 23:29|
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