この本で取り上げられている戦いは
527 磐井の反乱
587 蘇我と物部の争い
645 蘇我入鹿暗殺(大化の改新)
7〜9世紀 (大和政権と)辺境民との戦い
663 白村江の戦い
672 壬申の乱
939 平将門の乱
1051〜1087 前九年・後三年の役
1156〜1159 保元・平治の乱
587 蘇我と物部の争い
645 蘇我入鹿暗殺(大化の改新)
7〜9世紀 (大和政権と)辺境民との戦い
663 白村江の戦い
672 壬申の乱
939 平将門の乱
1051〜1087 前九年・後三年の役
1156〜1159 保元・平治の乱
の9+α
527 磐井の反乱
これ以前のヤマト政権は身内同士の争いがひどく、ヤマトには次代をつぐ器の人物がいなくなってしまっていた。そこで大伴金村が、応神天皇の五世の孫の継体天皇を福井から呼び寄せて天皇になってもらった(507)。
これでようやく中央集権が進み出した。
これでようやく中央集権が進み出した。
その頃、筑紫の磐井は新羅と結んで交易の独占と王朝を打ち立てることをねらった。
しかし、継体が物部麁鹿火(ものべのあらかい)を征討将軍として打ち破った。
なお、その後、屯倉(みやけ)が置かれた。
私、単に「屯倉が置かれた」とだけ日本史で習ったと思うけれど、これ、日本各地に点々と食糧倉庫を置いて、いざという時、軍勢の兵站用にしていたのね。デポか。
587 蘇我と物部の争い
587年は決着のついた年。
物部は「もののふ」の語源になった精強豪族だった。伝統を重んじる立場。
蘇我は外国で流行りの仏教思想を取り入れるいわばハイカラ豪族。
で、相当な確執があったみたい。
蘇我は外国で流行りの仏教思想を取り入れるいわばハイカラ豪族。
で、相当な確執があったみたい。
物部・蘇我との戦いの決着がつくまでは、僧も還俗して身を隠して暮らさないと身が危険だったみたいだし。
この恵便さんもだし、上のエントリに出てくる善信尼は
585年(敏達天皇14年)3月、物部守屋による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。
だもんなあ・・・
587年には聖徳太子も蘇我方で戦い、勝ったので四天王寺を建てた、という伝説が残っていますね。
これは中国のより進んだ統治システムを入れよう、渡来人を重用しようとするための戦いでもあったのだって。
645 蘇我入鹿暗殺(大化の改新)
舒明天皇(中大兄皇子の父)なきあと、中大兄皇子が皇位につくことができず、皇極天皇(中大兄皇子の母)が皇位についた。有力豪族の間で中大兄皇子に対して「可愛げがない。独断で動く」という評価があったよう。その中でも一番力を持っていたのが蘇我入鹿。
皇極天皇は外交にも積極的。朝鮮半島の三国(百済・新羅・高麗)の使者からのみつぎものをされる儀式に、蘇我入鹿を呼び出し、武器はあらかじめ道化みたいな人に渡させた後、儀式場内で中大兄皇子とその一党が暗殺した。
儀式に参加していた皇極天皇や古人大兄皇子は陰謀を知らなかったよう。
で、古人大兄皇子は自分の宮に帰った時に
「韓人が入鹿を殺した。私の心は痛む」
と言ったと。
極度の緊張状態で頭の中がとっちらかると、状況を間違って認識し、デマを言ってしまうものなのだなあ。
なお古人大兄皇子は出家して吉野へ去ったが、中大兄皇子に殺された。
その語、改新の詔が出て、当時最新の中国風政治組織が確立したように日本書紀に書かれているけれど、どうやらそれは後年の後付のようだ、とのこと。ってことは7世紀に中国を意識して書かれた、ってことかな。
7〜9世紀 (大和政権と)辺境民との戦い
これ、単に「勢力範囲を拡大したいという欲望」ではなく、中華思想によってたんだって。
663 白村江の戦い
新羅が強くなって百済を圧迫した。百済からの要請もあり、斉明天皇が援軍を送ることを決定。斉明天皇が亡くなった後、中大兄皇子が称制で実務をした。それが天智天皇となっても続いた。
一時は百済が失地回復していたが、百済の中で内紛が起こり、それに乗じて唐・新羅軍と、百済・日本軍が白村江で対決。唐の船は大型で、百済・日本軍は小型船(千艘もあったのだけど)だったので、唐・新羅軍が圧勝した。
これで百済は滅び。百済と高麗は(敵の敵は味方だし)同盟を組んでいたが、百済が滅んだことで高麗も弱くなり唐に滅ぼされた。
百済の多くの人材は新羅に移ったが、日本に亡命した人もたくさんいた。
日本では、唐・新羅連合軍が攻めてくると困るので、多くの朝鮮式山城が作られた。
新羅と対抗するために、亡命者の知識もあり、中国風中央集権が進んだ。
672 壬申の乱
天智天皇の子大友皇子と、天智天皇の弟大海人皇子の跡目争い。
大友皇子は百済からの人を重用する立場。しかし大海人皇子が勝ち、百済人は重用されなくなり、学制を整え、直接中国文化を受容しようとし始める。(こうして中国風だけれど日本独特の文化が花開くことを美術史家は「白鳳文化の成熟」と言う、とのことなんだけど、白鳳文化って奈良時代のことだと思っていたのだけど・・・)
939 平将門の乱
平将門って東北というイメージがあるのに、将門塚が東京にある(神田明神?)のが不思議だな、と思っていました。
この本の地図を見ると、本拠は茨城県の石井だったみたいだけど、勢力圏は神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、栃木県、群馬県、茨城県(もっとかも)に及んでいたんですね。
で、首が飛んでいく絵とかあるし、攻撃的な人だったのかなと思ったら、本人はその気が無いのに、地元の人から人気があって、頼まれてしかたなく立った、みたいな感じだったそう。
だからこそ、今も人気がある、ということだそうです。
友人からの情報
第34話「柏ふしぎ発見!藤ヶ谷編」〜これってナンダイ!?市立柏研Q所
後ろの方に将門神社のことが出てきます。
平将門の首は平安京で晒されて、で、東京の神田明神の首塚に飛んで行ったって。
その晒された地を、空也上人が手厚く供養し、そこが京都神田明神になったとか。
国内の争いでも、外国からの影響が大きくある場合が多いのだなあ。