敗戦(1945)直後から未曾有の住宅難。
ベビーブームと都市部への人口流入。
ベビーブームと都市部への人口流入。
1954年
下河辺淳(しもかわべあつし)が経済審議庁(経企庁を経て現在は内閣府)が公共事業として42万戸の住宅建設計画立案
政治家側では田中角栄「先祖伝来の土地を離れて働くときは、持ち家政策ではないのではないか」
単に土建屋さんのポジショントークということではなく、社会資本として見る、ということで面白い意見ではないか。
1955年(昭和30年)7月 - 日本住宅公団設立。
(現在のUR)
こちらは有料記事ですが
著者も団地育ち
お母様と昔住んでいた団地に行ったところ、1軒だけ著者が住んでいた頃から住民がおられ、その方に会った後、お母様はご近所の誰々さんはどういう人だった、と思い出話をとうとうと語りだした。つまり当時の団地には濃い人間関係があり、プライバシーはあまり無かった。
第一章 都会の限界集落 ー孤独死と闘う
中沢さんによる孤独死するタイプ
「ないないづくし」
「ないないづくし」
・仲間がいない
・近隣と関わり合いがない
・地域の行事に参加しない
・他人に関心をもたない
・あいさつしない
まあ・・・昭和の仕事だけやってきた男、という感じやなあ・・・
そしてこれを「あるある」に変えることで孤独死をしないですむようになると
孤独死する人の8割は男性、そして男性は離れて暮らす親戚から遺体の引取を断られることも少なくない・・・身に染みる・・・
第二章 コンクリートの箱 ー興亡をたどる
聖地巡礼みたいに来る人もあったということだけど。
当時、日活は崖っぷちにあった。しかしロマンポルノで起死回生の一発逆転となった。
しかしビデオデッキの普及でポルノ映画が駆逐され、1988年日活はロマンポルノ制作をやめた。
第三章 排外主義の最前線 ーヘイトへ抵抗する
ゼノフォビア(外国人嫌悪)
"ギリシア語: ξένος" (xenos, 異人、異国、よそ者、外国人)と
"ギリシア語:φόβος"(phobos, ポボス、恐怖)に由来する。
岡崎広樹 2014年に何かできるのでは、と芝園団地に住む。
もともと三井物産で働き、海外にも赴任し、文化摩擦に興味があった。
ヘイトスピーチ、ヘイトクライムをする人たち、あとネットで匿名で外国人を攻撃する人たち、何というか「出会い」「人とのつながり」を求めているのだけど、そういう形でしか表現できないのかもしれない。
こんな事件もあったのだけど、デモの後、約束してお互い律儀にまた会ってるもんなあ・・・
第四章 パリ、移民たちの校外
パリの団地の源流
1851年 都市住民が急増したためナポレオン3世の音頭で「パリ9区 シテ・ナポレオン」が作られた。
1894年 低廉住宅(HBM)と呼ばれる団地がフランス各地に作られた。
1958年 「市街化優先区域」が設けられ、大規模団地が質より量で作られた。
(ふと思い立って、モンテッソーリさんの「こどもの家」もイタリアの当時の団地ではなかったか、調べてみた)
「1907 年 1 月 6 日にローマ市の不動産協会の計画で郊外の労働者の団地の幾つかの部屋を利用して最初の「子どもの家」が生まれました。」
(イタリアが統一国家になった頃)
(イタリアが統一国家になった頃)
当時のフランスやイタリアの団地ってどんな建物だったんだろう?
パリ校外のブランメニル団地。パリの北、ドンラシー駅から。
パリに住む知人たちに案内を頼むと異口同音に「怖い」と尻込みされる。
外国人(フランス以外の国から来た人)がほとんど。
「移民と校外の運動」のメンバーに案内してもらう。
検索したら著者の記事があった。途中まで無料で読める。
ブランメニル団地では25歳以下(18歳以上?)の失業率は60%ととのこと。
たぶん無職でやることのない人たちが、パリで炊き出しをしている。
それは自尊感情にもつながるやろな。
「パンは盗むものではなく、与えるものだ。ここで活動すれば、それが理解できるようになる」
たぶん無職でやることのない人たちが、パリで炊き出しをしている。
それは自尊感情にもつながるやろな。
「パンは盗むものではなく、与えるものだ。ここで活動すれば、それが理解できるようになる」
アラブ人の多い団地だけでなく、中国人がほとんどの団地もある。
第五章 残留孤児の街 ー歴史の中に立つ
ほ〜〜。
原爆スラムと呼ばれていた一帯を開発して団地にした。
なお原爆スラムは「仁義なき戦い」のロケに使われた。
アパート開設当初は、現在外国人が入ってくると言われる「ゴミのトラブル」などは日本人どおしでも日常的なトラブルだった。(つまり人種・民族に関わりなく起こる)
残留孤児(と言ってももちろん大人、というか老境に入っていた人もいたはず)が日本に帰国後紹介される場所ともなった。
これは現在も動いているみたいだな。
第六章 「日本人」の境界 ー差別と分断に屈しない
人手不足対策で1990年代に入管法の改正によって、3世までの「日系人」に定住者としての資格が認められた。
また当時のブラジルは、インフレ、治安の悪化により80年代からデカセギに来て、定住する人も多かった。
(保見団地抗争の時、ヤクザも出てきたのだが
「日本のヤクザは怖くない。ブラジルだったら、子どものギャングが平気で銃を振り回す」
なるほどなあ・・・)
1999年 保見団地抗争
(ネット上では最近の動きがあまり出てきていないのが気になる)