※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2019年07月16日

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー ブレイディみかこ著




ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー ブレイディみかこ著

私、なんか「ブ」か「プ」かわかんなくなってましたがこの本は大きく書いてあるので「ブ」なのだ、と再認識しました。

みかこさんは3人家族。
ブライトンに住んでいます。
住んではる場所は「荒れた地域」とも呼ばれます。

「子どもたちの階級闘争」の中では、その地域の中の(みかこさん曰く)「底辺託児所」で保育士資格を取り、そのまま保育士として勤務されてた様子が書かれてます。いわば「悪ガキ」がこれでもか、と集まるところです。息子君もそこで育っていきます。




しかし、小学校入学時に

夫氏はアイルランド人でカットリック。
親戚には神父もいたりする。
みかこさんも日本ではカトリックの洗礼を受けている。

という経緯から、父方親戚の強いプッシュもあってカトリックの公立校(!)に入学。

そこは地域1位(イギリスの公立校はデータが公開されている)の学校でピーターラビットが出てきそうな学校だったって。

で、そのままそこの中学に進むと思っていたら、

その「荒れた地域」で家の一番近くには「元底辺中学(ここは数年前まで地域最下位の学校だったが、校長、先生方の努力で順位が上がってきている。)」がある。ここ、数年前までは生徒が中華料理屋の窓ガラスにレンガを投げて遊んだりしていた学校だって。でも校長先生が「なんでも子どものやりたいことをやらせよう」という方針で取り組んだら、なぜか学力の順位も上がってきた、という学校。

その「元底辺中学」から「学校見学」の案内が届き、行ってみたら音楽部の子どもたちの本気で楽しそうな演奏にみかこさんはやられてしまいます(確かみかこさんはイギリスロックの評論みたいなこともしてはる)。しかし息子君は学校全体に対して引き気味だったし、特に勧めることはせずにいたそう。

でも、親しい友だちがカトリック小学校から「元底辺中学」に行くことを決めたので、自分も行くことにします。

父親も、周囲のたくさんの人も反対したんだけどね。

なお、移民の子が多いのは上位の公立や市立で、底辺近くの学校はほとんど白人(過去、チャブと呼ばれていた人々。今はPCでその言葉は使ってはいけない言葉になっているそう)。

で、いい学校の周囲は地価が上がり、何とか近所に引っ越そうとするので地価は上昇する。それで持っているお金の額で教育も決まるので「ソーシャル・アパルトヘイト」と名付けられ問題となっている。

しかし息子君えらい。いろいろと差別され、相手と喧嘩し、しかしその相手と友達になり、相手をゆっくり諭していったり・・・

この本の題名「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
は、「元気に中学に行ってるなあ」と思っていて、ある日息子君がノートを忘れて行き、開かれたノートのすみっこに小さな字で書かれていた言葉。

 まあほんまに差別はされる。それは実は帰省のさいの日本でも。

 なお、英語にこんな諺があるそう。

老人はすべてを信じる。
中年はすべてを疑う。
若者はすべてを知っている。

 そしてみかこさんは息子くんが現実と切り結ぶ姿を見て

子どもはすべてにぶち当たる。

と加えていいんじゃないか、と書いてはりました。


 みかこさんが、日本でハーフという言葉はよくないとされてきてダブルという言葉が使われることもある、と語った時、息子君が言った言葉。

「それもなんか、僕は違和感ある。半分ってのはひどいけど、いきなり2倍にならなくてもいいじゃん。『ハーフ・アンド・ハーフ』でいいんじゃない?半分と半分を足したら、みんなと同じ『1』になるでしょ」


 みかこさんが、保育士をしてる時、子どもたちに大人気の絵本として紹介されてた絵本。

動物園にはいろんな家族がいます。でもペンギンのタンゴの家族はちょっと違っていました。
ロイとシロのパパふたりとタンゴ、それがタンゴの家族なのです──。
ロイとシロのおすペンギンは、いつからかお互いに気に入り、カップルになりました。一緒に泳いで一緒に巣づくりして、いつも一緒にいました。
ところが、他のカップルは、ただ一緒にいるだけでなく、どうやら巣の中で何かをあたためている模様。しかもそうこうしているうちにそのあたためたものがかえって赤ちゃんペンギンが誕生しているではありませんか。
ロイとシロは、近くにあった卵の形をした石を拾ってきて、さっそく毎日毎日交替であたためはじめました。でも石のたまごはちっともかえりません。
そんな様子を眺めていた飼育員がはたと思いつきます。
他のペンギンカップルが育てられなかったたまごをそっとふたりの巣においてやります。そして、ふたりにしっかりあたためられた卵から、タンゴが生まれたのです──。







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2019年07月15日のつぶやき






















































































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2019年07月15日

2019年07月14日のつぶやき


































































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2019年07月14日

団地と移民 安田浩一著



 敗戦(1945)直後から未曾有の住宅難。
 ベビーブームと都市部への人口流入。

1954年

下河辺淳(しもかわべあつし)が経済審議庁(経企庁を経て現在は内閣府)が公共事業として42万戸の住宅建設計画立案

政治家側では田中角栄「先祖伝来の土地を離れて働くときは、持ち家政策ではないのではないか」

単に土建屋さんのポジショントークということではなく、社会資本として見る、ということで面白い意見ではないか。


1955年(昭和30年)7月 - 日本住宅公団設立。
           (現在のUR)

こちらは有料記事ですが

著者も団地育ち

 お母様と昔住んでいた団地に行ったところ、1軒だけ著者が住んでいた頃から住民がおられ、その方に会った後、お母様はご近所の誰々さんはどういう人だった、と思い出話をとうとうと語りだした。つまり当時の団地には濃い人間関係があり、プライバシーはあまり無かった。


第一章 都会の限界集落 ー孤独死と闘う

中沢さんによる孤独死するタイプ
「ないないづくし」

・仲間がいない
・近隣と関わり合いがない
・地域の行事に参加しない
・他人に関心をもたない
・あいさつしない

まあ・・・昭和の仕事だけやってきた男、という感じやなあ・・・
そしてこれを「あるある」に変えることで孤独死をしないですむようになると
孤独死する人の8割は男性、そして男性は離れて暮らす親戚から遺体の引取を断られることも少なくない・・・身に染みる・・・

第二章 コンクリートの箱 ー興亡をたどる

1971年 日活ロマンポルノ「団地妻 昼下がりの情事」

くすぶっていた西村昭五郎監督の出世作。
撮影地
神代団地(東京都調布市、狛江市)

あれ?「ゆかりの作品」という項目があるけど「団地妻 昼下がりの情事」は入れてもらえてない・・・
聖地巡礼みたいに来る人もあったということだけど。

当時、日活は崖っぷちにあった。しかしロマンポルノで起死回生の一発逆転となった。
しかしビデオデッキの普及でポルノ映画が駆逐され、1988年日活はロマンポルノ制作をやめた。


第三章 排外主義の最前線 ーヘイトへ抵抗する

芝園団地(埼玉県川口市)

在特会がデモをした。
著者の知る限り、ヘイトデモが初めて行われた場所。

ゼノフォビア(外国人嫌悪)

"ギリシア語: ξένος" (xenos, 異人、異国、よそ者、外国人)と
"ギリシア語:φόβος"(phobos, ポボス、恐怖)に由来する。

岡崎広樹 2014年に何かできるのでは、と芝園団地に住む。
もともと三井物産で働き、海外にも赴任し、文化摩擦に興味があった。


ヘイトスピーチ、ヘイトクライムをする人たち、あとネットで匿名で外国人を攻撃する人たち、何というか「出会い」「人とのつながり」を求めているのだけど、そういう形でしか表現できないのかもしれない。
 こんな事件もあったのだけど、デモの後、約束してお互い律儀にまた会ってるもんなあ・・・


第四章 パリ、移民たちの校外

パリの団地の源流
1851年 都市住民が急増したためナポレオン3世の音頭で「パリ9区 シテ・ナポレオン」が作られた。
1894年 低廉住宅(HBM)と呼ばれる団地がフランス各地に作られた。
1958年 「市街化優先区域」が設けられ、大規模団地が質より量で作られた。

(ふと思い立って、モンテッソーリさんの「こどもの家」もイタリアの当時の団地ではなかったか、調べてみた)

モンテッソーリ教育 第45号

この159ページに以下の記述があります。
「1907 年 1 月 6 日にローマ市の不動産協会の計画で郊外の労働者の団地の幾つかの部屋を利用して最初の「子どもの家」が生まれました。」
(イタリアが統一国家になった頃)

当時のフランスやイタリアの団地ってどんな建物だったんだろう?

パリ校外のブランメニル団地。パリの北、ドンラシー駅から。
パリに住む知人たちに案内を頼むと異口同音に「怖い」と尻込みされる。
外国人(フランス以外の国から来た人)がほとんど。
「移民と校外の運動」のメンバーに案内してもらう。

検索したら著者の記事があった。途中まで無料で読める。

ブランメニル団地では25歳以下(18歳以上?)の失業率は60%ととのこと。
たぶん無職でやることのない人たちが、パリで炊き出しをしている。
それは自尊感情にもつながるやろな。
「パンは盗むものではなく、与えるものだ。ここで活動すれば、それが理解できるようになる」

アラブ人の多い団地だけでなく、中国人がほとんどの団地もある。


第五章 残留孤児の街 ー歴史の中に立つ


ほ〜〜。
現在広島市が若い人向けに優待してる。
学生 1万円〜
若年、Uターン、地域貢献世帯 3万円〜


原爆スラムと呼ばれていた一帯を開発して団地にした。
なお原爆スラムは「仁義なき戦い」のロケに使われた。

アパート開設当初は、現在外国人が入ってくると言われる「ゴミのトラブル」などは日本人どおしでも日常的なトラブルだった。(つまり人種・民族に関わりなく起こる)

残留孤児(と言ってももちろん大人、というか老境に入っていた人もいたはず)が日本に帰国後紹介される場所ともなった。

これは現在も動いているみたいだな。


第六章 「日本人」の境界 ー差別と分断に屈しない


人手不足対策で1990年代に入管法の改正によって、3世までの「日系人」に定住者としての資格が認められた。
また当時のブラジルは、インフレ、治安の悪化により80年代からデカセギに来て、定住する人も多かった。
(保見団地抗争の時、ヤクザも出てきたのだが
 「日本のヤクザは怖くない。ブラジルだったら、子どものギャングが平気で銃を振り回す」
 なるほどなあ・・・)

1999年 保見団地抗争

(ネット上では最近の動きがあまり出てきていないのが気になる)


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2019年07月13日のつぶやき














































































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