私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2019年06月11日

居るのはつらいよ 東畑開人著




ケアとセラピーについて書かれている。

「いる」と「する」ということについて。
なるほど。
「福祉」と「教育」
「居場所の提供」か「療育の場の提供」か、ということでもある。

エヴァ・フェダー・キテイ(フェミニミズム哲学者)が「誰かにお世話をしてもらわないとうまく生きていけない人のケアをする仕事を「依存労働」と名づけた。 それは基本的に「専門的」ではない「素人仕事」を指すそう。


ふむ。

私、教師って「素人仕事の塊」だと思ってた。

プロアスリートでもなければ、特に音楽、美術の素養があるわけでもない。
特に科学の訓練を受けたわけでもなく、数学は苦手な人も多いし、国語学の専門家でも無い。
でも、とりあえずにわか勉強し、で、もちろんそれを使って「子どもの成長につきあう」という「専門性」があるのだけど。

それとつながってるな。

ウィニコットを引用してから著者が地の文で

「人は本当に依存している時、依存していることに気がつかない」

そうやな・・・
だから、「その時点の常識」に依存して動いている人はそれに気づくことができないし、指摘されると猛烈に反発する。

精神障害者の方用のデイケアで、同僚スタッフ(元々生活のために入ってきていて、無資格だし、それ以前に何かを学んだということはない方。しかししっかりしている)から

スタッフ「トンちゃん(東畑さんのこと)さ、よくそんなにメンバーさんと喋っていられるね」
東畑「なんで」
スタッフ「疲れるさ」

という会話をし、「(臨床心理士としての)専門性は見えないところで、確かに存在している」と思いはる。

これもよくわかる(ような気がする)。

で、著者はもともとは「セラピー」がしたくて就職したのに、「ケア」が主たる仕事となることに違和感を持ちつつ、でもそれらは対立するものではなくて同時に併存したりするものだな、と実感されていくわけですが・・・

最終章で 「アジール」と「アサイラム」について述べてはります。

「アジール」はそこに入り込めばもう追われない聖地みたいな意味で知っていました。
避難所という言葉があてられる。

「アサイラム」は全制的施設。
「居る」を強制される場。
例えば刑務所、あるいはブラックデイケア・・・

で、実は「アジール」と「アサイラム」は同じ言葉で、ドイツ語の「アジール」を英語に訳したものが「アサイラム」

そして(たぶん、不断に意識し続ける努力が無ければ)すぐに「アジール」としての「デイケア」は「アサイラム」に堕してしまうんだろうな。

特に収益性や効果を判定材料にする時に。

そうだよねえ・・・

知的障害者の暮らしにしても、コロニーから始まり、大規模入所施設の問題が出てきて、小規模へ、グループホームへ、となっても、また親御さんの居る自宅に住んでいたとしても、例えば1日の暮らしを空から撮影してみれば毎日同じ経路を通りほぼ閉鎖された環境にいる方もおられるし・・・

あと「いる」時にもちろん「いる」専門性ってやつもあるけど、「する」の専門性があっても助けになる時があるよね。(東畑さんが自分の専門性に助けられていると感じられたように)

私、言語聴覚士さんや臨床心理士(最近だったら公認心理士か)さんや作業療法士さんや(肢体不自由のお子さんが来るなら理学療法士さんも)も、児童発達支援や放課後等デイサービスのプレイルームで長い時間をスタッフとして過ごせばいいのに、と思うのだけど。

セラピールームでだけやってたら、変なところで満足してしまう、暮らしの助けにならない、暮らしとしては無意味なことをしてしまう、なんてえことを思っています。

「ただ、いるだけ」それでOK。
そして「出て行きたくなったら出ていける」 そういう場の大切さ、すごく感じます。


posted by kingstone at 22:28| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月10日のつぶやき




































































































posted by kingstone at 00:01| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする