給食の歴史 藤原辰史著
面白かったです。
著者の政治的立場ゆえか、「ちょっとその書き方は・・・」という点はあるものの、資料はきちんと出ているので、役にたちますね。
世界の給食の歴史
イギリス
1870 義務教育法制定
しかし欠食など、貧困な子を無理に学校に行かせるのは虐待では、というので給食が始まったものの広がらなかった。
1899 第二次ボーア戦争(南アフリカでの戦争 1902まで)
末期に兵士を募集したら志願者の5人に2人しか肉体的適格者がいなかった。
1906 教育法(学校給食法)
・地方教育当局が給食費一部負担
・当局(国のこと?)による学校食堂委員会への援助
・食費の払えない人間から公民権を剥奪しないこと
・当局(国のこと?)による学校食堂委員会への援助
・食費の払えない人間から公民権を剥奪しないこと
介入的な自由主義 「弱く、劣っていて、失敗する個人」の救済によって市場メカニズムを維持する
(新自由主義と区別)
最初レストランに外注 不潔で暴利
学校食堂、一部センター方式へ
(新自由主義と区別)
最初レストランに外注 不潔で暴利
学校食堂、一部センター方式へ
1922 公費負担が90%
1944 給食は地方教育当局の義務に
1946 牛乳の無償給与規則
1980 サッチャーが給食関連予算カット
1944 給食は地方教育当局の義務に
1946 牛乳の無償給与規則
1980 サッチャーが給食関連予算カット
(地方教育当局に・・・って国のサービスが地方のサービスになってお金が出なくなるパターン)
そのため、質が悪くなっていたが、最近またよくなってきた。
そのため、質が悪くなっていたが、最近またよくなってきた。
ドイツ
(ドイツっていつからドイツになるんだろう?)
(ドイツっていつからドイツになるんだろう?)
1790 ミュンヘンで無宿者救済会が給食を開始。
労働者向け簡易食堂の一部で貧困児童に食事を与えた
1875 ハンブルク博愛学校協会
1880 ドレスデン要救済児童給食協会
1890 全国学校教員や学校医のライプツィヒ集会
1880 ドレスデン要救済児童給食協会
1890 全国学校教員や学校医のライプツィヒ集会
給食が貧困対策として最も効果的であることが確認された
1896 79市が実施
1897 社民党が全市に普及する建議をしたが
1897 社民党が全市に普及する建議をしたが
人口の都市集中を引き起こすとして否決。
(ってことは地方ではやられてなかったんだ)
(ってことは地方ではやられてなかったんだ)
1890〜1907 兵役検査に44〜48%が不合格(国民皆兵)
児童衛生当局が給食を行うことを決断
1909 239都市で実施
1914〜1918 76万人の餓死者が出る
1914〜1918 76万人の餓死者が出る
第一次大戦後 食料農業省が児童給食局設置
フーヴァーの欧州食料救恤事業部より義援金品を受け取る
フーヴァーの欧州食料救恤事業部より義援金品を受け取る
1925 義援金品の期限が切れ、議会は経済状況が厳しいが500万マルクの支出
1927 原徹一が児童給食局を取材した時
1927 原徹一が児童給食局を取材した時
対象者 小学校児童 55万人
未就学児 7万人
母親 1万8千人
青年 8千人
未就学児 7万人
母親 1万8千人
青年 8千人
第二次大戦後 東ドイツ給食制度整った
西ドイツ 給食普及せず
2009 制度が整い給食復活
フランス
1849 パリ市で学校給食開始
最初は慈善事業職が濃かったが、貧困世帯でない子どもにも給食をするようになった。
貧困家庭の子どもの自尊心を傷つけないため。
食事前に無償給与者リストを作り無料チケット配布。
非貧困層からは一定料金徴収。
貧困家庭の子どもの自尊心を傷つけないため。
食事前に無償給与者リストを作り無料チケット配布。
非貧困層からは一定料金徴収。
1882 給食無償児童 32%
1898 給食無償児童 63%
1909 給食無償児童 30%
1936 文部省が給食全国調査
1898 給食無償児童 63%
1909 給食無償児童 30%
1936 文部省が給食全国調査
学校の新設にあたっては学校食堂も設備する旨通知
(現在でも?昼食時間を長く取り、家庭に戻って食べる子どもも多い)
(現在でも?昼食時間を長く取り、家庭に戻って食べる子どもも多い)
アメリカ
1904 ニューヨークでの小学校児童身体検査
多数の栄養不良児がいることが判明
イタリア系移民の住む東部とアイルランド系移民の住む西部の2校を選び試験実施
好成績だったので組織を整えた
(やはり実験と結果を大事にしてるのかな)
イタリア系移民の住む東部とアイルランド系移民の住む西部の2校を選び試験実施
好成績だったので組織を整えた
(やはり実験と結果を大事にしてるのかな)
1908 ボストンで虚弱児養護のための「栄養クラス」設置。
1920 「学校教育奨励通牒」が発せられる
1929 大恐慌。
1920 「学校教育奨励通牒」が発せられる
1929 大恐慌。
一つの原因は、農業技術の進歩による大豊作とそのために農家が貧乏になり、消費力が落ちたこと。
1936 ニューディールの一環。
余剰農作物の市場開拓、失業婦人の雇用のため国家政策の日程に登る。
1946 「連邦学校給食法」
1981〜1989 レーガン政権による人件費節減
1981〜1989 レーガン政権による人件費節減
韓国
1908 梨花学堂(現在の梨花女子大学)の寄宿制に食事提供
1953 朝鮮戦争後、ユニセフなどの援助のもとでパン給食始まる
1973 外国からの援助が終わったが、パンと牛乳の給食実施
1981 学校給食法
1988 (ソウルオリンピック)欠食児童が再び注目される
1998 初等学校での実施率99.9%
2000 朝食、夕食、休み期間中、未就学児の欠食にも対策
2003 中学校でも全国で導入
1953 朝鮮戦争後、ユニセフなどの援助のもとでパン給食始まる
1973 外国からの援助が終わったが、パンと牛乳の給食実施
1981 学校給食法
1988 (ソウルオリンピック)欠食児童が再び注目される
1998 初等学校での実施率99.9%
2000 朝食、夕食、休み期間中、未就学児の欠食にも対策
2003 中学校でも全国で導入
ソウルで集団食中毒
2006 ソウルで集団食中毒
これらにより民間委託から直営への転換の動きが大きくなる
2011 ソウルで小・中学校給食完全無償化
2016 全国で無償化率は小学校95.6%、中学校78.3%
2016 全国で無償化率は小学校95.6%、中学校78.3%
日本
1806 会津の藩校日新館 15歳以上の諸生に2年間昼食提供
1831〜1845 天保期
手習所(庶民の師弟に読み書き算盤を教えた)で貧困者に食べ物を与えたい(与えた、ではなく)と文献にある
天保7年には天保の大飢饉。
一揆と打ち壊しが頻発
天保8年には大塩平八郎の乱
幕末 松下村塾で塾生に食事を出す
他にもこのような例はあったと思われる
1872 学生発布 授業料月50銭
翌年の調査 就学率男子39.9%
女子15.1%
1886 小学校令
1889 忠愛小学校(仏教各宗派連合立。山形県西田川郡鶴岡町)
設立と同時に給食開始。基金は托鉢で賄われた。
1890 第二次小学校令
1900 第三次小学校令 義務教育無償化
1919 佐伯矩の援助で、東京府内の小学校でパンによる給食が始まる
1920年代 女性就学率が100%に近づく
1921 原徹一が郷里岐阜県恵那郡川上村で副食(みそ汁)の給食を始める
1922 この頃より医師岡田道一が牛乳の普及に尽力
日比谷小学校保護者会による49回の給食実験が行われ、4〜5人の発育が改善した
1923 関東大震災
大阪毎日新聞と大阪朝日新聞の義捐金で学校給食をすることに
1931 東北地方冷害
1932 五一五事件
「学校給食臨時施設方法」「学校給食臨時施設方法に関する件」公布 国は3年で210万円を支出することを決定 しかし資金は十分ではなく学校関係者の個々の努力(それこそ釜を作るところから)に頼る部分も大きかった
1934 東北地方冷害
1936 二二六事件
1938 警視庁衛生部獣医課が東京市で子どもに牛乳を飲ませる取り組み
志那事変の勃発による体位向上の必要性から
1940 「学校給食奨励規程」「学校給食の実施に関する件」公布
欠食児童対策から全児童の体位向上に舵が切られた
1941 東條英機の食糧協会食糧学校での言葉
「食う物が足りないと不足を唱うる事は、(中略)、唯人間の知恵が足りないからであります」 ただし
1944 東條は
「決戦非常措置要綱に依る大都市国民学校児童学校給食に関わる件」を閣議決定 また農商次官通牒として疎開児童にも配給が届くようにし、それらの政策で人気挽回をして政治生命を少し長く保てた
1945 敗戦
上野の地下道での餓死者は1日7〜80人
日比谷公園で児玉誉士夫らによる「餓死対策国民大会」
1946 食糧メーデー GHQは「暴動」であると声明
GHQや旧日本軍の備蓄食糧を何度も放出したが、栄養状態は改善されなかった
フーヴァーを中心とする調査団が
「このままでは日本国民の栄養水準はドイツの強制収容所と変わらない」と警告
これをきっかけにガリオア資金による食糧援助スタート
ララ物資(LARA。アジア救援公認団体)もやってきた
東京でララ物資を用いた給食開始
1947 給食用脱脂粉乳購入開始(まずく、下痢も多く不評)
石垣順二(当時、ラジオで解説する医師として有名)が「脱脂粉乳返上」を説いた。
1951 サンフランシスコ講和条約
当時の大蔵大臣の池田勇人は給食を無くそうとし、文部大臣天野貞祐以外の閣僚もそれに賛成。
「給食は社会主義だとの論もあるので」というのが無くす理由。
天野は「他人の弁当ののぞきこんだり、偏食ということも無くなる。礼儀を教えることもできる。一定のカロリーの食を全ての生徒に食べさせることができる等々によって精神、身体両面から有益で是非とも実行したい」と反論。
またその後、池田家を天野が訪れ頭を下げた。
そして様々な草の根運動も大きかった。
(しかし、裏で文部省が動かしてたんだって(笑)ええことするやん)
1965 すずらん給食
当時の首相佐藤栄作が「いまなお欠食児童がいることは政治の責任」と4億円の緊急支出を閣議決定
(選挙対策であっても、ええことはええこと。今だったら消費税増税停止か廃止で累進課税強化、法人税も累進強化とかかな?)
沖縄では給食開始は遅れた。 戦闘で建物が無くなっており、学校が青空学校であったため。
1949からリバック物資(カトリックの援助物資)により完全給食への移行ができた
GHQ側担当者 サムスの考え方
・米と小麦の戦いで小麦が勝った
・日本人にも小麦、脱脂粉乳、肉の味を覚えさせる
・GHQの占領意図の完遂(反共、防共)
・無償給食反対(それは社会主義、共産主義であるというような観点)
ただし、こういうところから「アメリカ農産物を売り込むための陰謀」という意見が出るが、日本も欲しがっていたことに注意が必要。どちらの利害も一致していた。
どの国でも、給食を受けることがスティグマにならないように配慮している。
そのために一番良いのは「全員無償給食」
(もちろん、今だと、どうしてもダメな子には弁当持参を許してもいいだろうけど)