武士の日本史 高橋昌明
なんかめちゃ面白かったです。
歴史小説の話ではなく、日本史の話として、最近の主流の論、また著者の論とかいろいろ出てきて面白い。
古代において官職にあるものは冠を被った。(冠位十二階とか)
日常平服の時は烏帽子を被った。
中世でも家の中でも被り(って、どのくらいの立場の人までだったんだろう。著者は「一般庶民まで」と書いてはるが)、男女が交わる時にも取らなかったと・・・
なんかめちゃじゃまになりそうだけど・・・
頭の先を他人に見せることは恥ずかしいと思われていたのか・・・
で、鎌倉前後から、烏帽子も被り兜も被って(当時の兜には烏帽子が突き出る穴が開いてた)戦ってたので、暑いから月代をそり出したってことです。
侍は武士だけではない。「さぶらふもの」だから、文士も(少数であるが)いた。
農民でない百姓が大勢いたようなもの。
武士は芸人に分類される。
技術があるだけでなく武芸を家業とする特定の家柄の出身でなければいけなかった。
古代の武将。坂上田村麻呂。
その父、坂上苅田麻呂は恵美押勝の乱(764)や弓削道鏡の告発(770)などによって、上流貴族(従三位)にまで昇った。
自力救済(要するに私闘)を許していると治安が乱れる。
律令社会では、宮都とその周辺で武器を携帯して横行するなど、あってはならない事態だった。
(でも、古代でも中世でも守られなかったみたい。あと私は「平安時代は死刑の無い平和な時代だった」という意見を見たことがあるけれど、平安時代も中世も、江戸中期くらいまでは刑罰でなくめちゃめちゃ人が簡単に殺される時代だったことを頭に入れておかないといけないだろうな)
平安中期以降成文法で繰り返し武器の携帯が禁止されている。
許されているのは、武士だけだし、官位が上がると武士でなくなり(?)個別の許可が必要になる。
桓武天皇治世8世紀末、皇族が激増→財政圧迫→ウジ名と姓を与え臣籍降下。
この中で源氏や平氏が出て来た。
「幕府」という呼称は政権が自ら使うのは江戸時代中期だったかでないと出てこないそう。
また「幕府」を武士の政権と言うならば、著者は鎌倉幕府が始まりではなく、平清盛も「幕府」を作っていたと考えていい、と。
戦闘について。
基本は弓で相手を傷つけ、弱ったところを刀でとどめを刺す。
よくドラマである白兵戦というか、刀での斬り合いなどはほとんど無かった。
あと投石とか。
それらの飛び道具が鉄砲に変わっていく。
昔の刀は兜などの防護の上から殴りつけるものだった。
刃も切っ先以外ははまぐり型。そのほうが刃こぼれが少ない。
刃の全体を鋭く研ぐようになったのは江戸時代。
剣術は平和な時代になってから。
幕末の千葉周作や他の道場主も、元々の武士でないものが増えてきた。
また道場では竹刀などを使うので、本身を使う実戦とは違うものになっていた。
江戸後期の武士は、刀での斬り合いなどしたことがほとんど無かった。
桜田門外の変の時は攻守両方の侍が、頭真っ白状態で、また本身でつばぜり合いなどしたため、その場には耳や鼻のそがれた肉片が多数落ちていたと・・・
(たぶん木刀や竹刀でのつばぜり合いの経験でやっちゃったんだろうな)
なお加藤清正は初陣の時に「闇夜のごとく」と何も見えない状態だったと記録している。
1853(嘉永6年)ペリー来航。軍事力の前に屈す
いわゆる安政の軍事改革が始まる
1862(文久2年)文久の軍事改革
これらによって従来型の武芸が廃れる
1869(明治2年)版籍奉還 藩主と家臣の主従関係が無くなる
藩主は華族、家臣は士族となる。
1871(明治4年)郡県制に(律令制の昔、中央集権に戻す)
脱刀の自由を許す(強制ではない)
1872(明治5年)壬申戸籍
1873(明治6年)(希望者に)秩禄を停止し公債を与える
徴兵令の施行、制服以外の帯刀禁止
1874(明治7年)佐賀の乱
1876(明治9年)秩禄支給打ち切り
神風連の乱
秋月の乱
萩の乱
1877(明治10年)西南戦争
1881(明治14年)の公務員中の士族の割合(教師を除く)
中央・府県道の官吏のうち 70%
郡区町村吏のうち 40%
日露戦争は最新科学技術のおかげでのぎりぎりの勝利
機関銃も日本のほうがたくさんあった。
南山の戦闘でも奉天の会戦でもロシアの5倍
銃剣突撃はロシアの得意とするところ。
ドイツの観戦武官の報告
「日本兵はいまだかつてこれ(ロシア兵の銃剣突撃)に抵抗したることなく、まったく傍観しながら退却した。日本兵は銃剣使用の練習に精励したのち、戦争の末期に到り初めて銃剣をもってロシア兵と戦いを交えんとしたけれども、なお常に大敗することを免れることはできなかった」
(初期の「傍観しながら退却」ってめちゃ正しかったんだろうな。で、待ち伏せしていて機関銃でなぎ払うと。)
(旅順の大量の死者は乃木希典の指揮が悪かったから)
ところがその後、武士道とか攻撃精神など、精神論が広がってしまう。
1897(明治30年)30年式歩兵銃が採用される
これは中国での厳しい環境の中で不具合がよく出たのですぐに改良された。それが38式歩兵銃。
1905(明治38年)仮採用。
1906(明治39年)制式銃として制定。
1908(明治41年)部隊に配備。
当時は「手動式小銃では改良の余地が無い(ほど優れている)」と言われた。
1887 「武道」という言葉が使われ出すのは明治20年になってから。
1898(明治31年)撃剣と柔術が中学校課外に限り許可
1911(明治44年)体操の正課授業として実施が認められる
1913(大正2年)学校体操教授要目で、旧制中学と男子師範学校の体操科教材となる
1926(昭和元年)名称が剣道と柔道になる
1931(昭和6年)必修化(満州事変)
1936(昭和11年)女学校や女子師範で弓道、薙刀が加わる
1938(昭和13年)第24回甲子園大会での選手宣誓で
「武士道にのっとり」と宣誓すると、
他の選手も一節ごとに唱和した。
1939(昭和14年)小学校5,6年と高等科の男児に武道を課す
1940(昭和15年)銃剣術が銃剣道と名称変更し軍事教練に採用
1941(昭和16年)国民学校体錬科武道として重視
2017(平成29年)2021年実施の中学校学習指導要領に武道9種目の選択肢として銃剣道が明記
しかし、武士が出てきた昔から、刀同士の近接戦より、遠方から相手を傷つけ、弱ったところを近寄ってとどめをさすのが主流。白兵戦重視は戦争を指揮する側から見ればおかしい。
1900(アメリカで新渡戸稲造の「武士道」出版)
1907「武士道ー日本の魂」として桜井鷗村(さくらいおうそん)訳で日本で出版)
ここに書かれた徳目は士道に多少似ているものの、近世に存在した士道・武士道とはまったく別物。
なお、「武士道」が書かれたころ、「葉隠」はまだ世に知られていなかった。
西欧の騎士道などとの比較をしているが、キリスト教の徳目も出てくる。「義」など。
菅野覚明は「武士道の皮をかぶったキリスト教」と評している。
新渡戸自身熱心なクエーカー教徒。
当時の好戦的な時代の中で、キリスト教が忠君愛国道徳に反するという国家主義者たちへの方便であったと著者は書く。
(武士が廃れて何年もたってからだし、新渡戸だって知らないよなあ、というのと時代の風潮の中で苦労してはったんやろな、というのは思うな・・・)
(クエーカー教徒は労働福祉の分野の先駆者的な人が多い)
後、江戸時代後期には「切腹」ってほとんど無くなっていたので、赤穂浪士の時も切腹の作法を聞かれた人が「わかりません」と答えている。
逆に幕末
1868「神戸事件」
「堺事件」
で切腹が行われている。
それから、どういう社会背景があったのかはわからないけれど、私、中学生くらいまで「何か失敗したら責任をとって切腹すればいいんだな」と考えていました。刀が無いから包丁でやるしかないよな、とか。これは当時の身の回りにあった情報(本、ラジオ、テレビ)の影響だよなあ・・・