道路の日本史 武部健一著
著者は建設省の技官から始まり道路公団のえらいさんにまでなった方。
高速道路建設に従事しておられ、予定地から古道遺跡が発掘されることなどから、道の研究を志してたくさんの本を書かれている。
ジョセフ・ニーダム
「紀元の前後の数世紀の世界で一つはイタリア半島の一角に、もう一つは中国の黄河の山西山脈の屈曲部あたりに、それぞれの中心部から樹状に延びる道路交通網が、お互いに何の関連も無く広がった」
どちらも強い中央集権の権力ができたから
ローマ街道
主要幹線道路幅 12m
主要幹線道路総延長 90000km
秦の始皇帝の道
主要幹線道路幅 70m
(記述間違いと思われていたが、30m幅の道が各所で発掘されているのでありそう)
主要幹線道路総延長 7500km(ローマに比べれば版図が狭いので)
※この道は秦の滅亡とともに崩壊(メンテナンスできないもんな)
しかしヨーロッパでも中国でも紀元3世紀以降は長い停滞の時代に入る。
日本
魏志倭人伝(魏書東夷伝)3世紀末
土地は山険しく深森多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(みち)の如し
その後、外国使節が来るのにまともな道が無くて恥ずかしい、ということで広い道が作られ始めた。
律令国家時代
七道駅路(駅に馬を置き、素早く情報伝達をする)
672年壬申の乱では大海人皇子が隠駅家(なばりのうまや。今の三重県名張市)と伊賀の駅家(三重県上野市)を焼いた。
埼玉県所沢市東の上(あずまのうえ)遺跡。
道幅12m(ローマ街道と同じ)
駅路・駅家・駅馬の3点セットが駅制。そこを駅使が往来する。
緊急時は1日10駅(160km)進む。
これとは別に伝馬(てんま。でんば)があった。
中世になって地域の力が強くなると、街道は衰退する。
(このあたり全世界同じ)
鎌倉時代、蒙古軍に関する情報が京まで伝わるのに、
9日、11日、16日前後かかっている。
これは律令国家時代よりかなり遅い。
(律令国家時代だったら4日くらいで着いている計算かな)
古代の道は、結構現在の高速道路と同じ経路を通り、高速道路建設の時に発掘される。
しかし近世の道は、現在も使われ続けていることが多く、遺構としては発掘されないことが多い。
織田信長、豊臣秀吉(つまり強い天下統一政権)あたりからしっかりとした街道的なものが再び作られてきた。
江戸時代は五街道。
「宿村大概帳」によると
道幅 おおむね三〜四間(5.4〜7.2m)
江戸に近いところ 九間(9m)
駿府城、浜松城あたり 六〜八間(10.8〜14.4m)
箱根など急峻な山間部 二間(3.6m)
東海道の大井川などで橋がかかっていない理由。軍事的なこともあるかもしれないが、川渡し人足の生活を配慮した点もある。(なるほど、海峡を渡る橋についてフェリー会社への保障をどうするか、みたいな話)
古代の道(駅路)は「馬が走る道」であり、中世以降は「徒歩の道」
「馬車が走る道」は作られなかった。明治となり産業振興には鉄道が使われ、道の発展はまた遅れた。
道を作った例。
三島通庸(みしまみちつね) 薩摩人。
山形県令となり栗子山隧道を含む苅安新道(幅25フィート。7.5m)を作った。
(しかし、かなり強引で、民間からのお金を使った。ニューヨーク開発のモーゼスみたいな立場か・・・)
現在の高速道路の基準
車線幅 3.5m
片側三車線の場合、中央は 3.75m
なお、高速道路、インターチェンジとかジャンクションとかあるが、インターチェンジをインターと略するのは左翼用語を思い出させるということで没になったとか。(しかしラジオなんかで使ってないか?)