ロッキング・オンの時代 橘川幸夫著
1972年の創刊から深く関わっていた橘川幸夫さんの書かれたもの。
お父さんが印刷屋さんをされてて、初期はそちらで印刷していたと。
初めて会う渋谷は、きさくな男であった。新宿の落合に住んでいて、同じ新宿区の住人である。渋谷は浪人生であり、僕は大学生であった。新しい雑誌をやりたい、という意欲を渋谷は語った。僕の親父が高田馬場の小滝橋で小さな印刷屋をやっているので協力してもらえるかもしれない、というと、渋谷のギョロッとした目が一層輝いた。渋谷は、盛んに、市販の雑誌に負けないものを作ろうと力説するのだが、それは、どのようにやれば良いのか全く想像もつかなかった。なにしろ当時の学生は、世の中の常識やルールなどをまるで知らない子どもたちであったのである。今の大学生であれば、世の中の仕組みやルールはある程度は分かっているだろう。しかし、この時代においては、世の中とは「向こう側」の世界であり、子どもたちの世界と、向こう側の大人の世界は、はっきり違う世界であった。
これ、私も感じるなあ・・・
「この頃の若い者はダメだ」ってんじゃなく、本当にいろんなことをよく知っている、と思う。まあだから「馬鹿できない」というところはあるのかもしれないけど。
また橘川さんご自身が写植を学び、写真写植をやってたそうですが・・・
一文字一文字写真に撮るという気の遠くなるような作業だったんですね。
それでも活版印刷に比べれば場所も時間も人手も大幅にコストダウンできる技術だったんだろうな。
しかし、橘川さんも書かれてるけど、ほんと「著作権ってなに?それおいしいの?」みたいな感じで訳詞とかばんばん載せられてたわけで・・・今の中国みたいな状況だったんだろうな。
そうしたロックもやがて体制化する。当たり前の文化として社会に認知される。でも、本当のロックとは、そうした体制化の流れに対しても、そこから更にはみ出していくことではないのか、と思った。ロックは音楽からはみ出すべきだ、と思った。音楽という狭い業界だけで解決出来ることは何もない。豆腐屋は豆腐を作ることでロックが出来るはずだし、教師は授業をすることでロックが出来るはずだ。むしろ生活全体でそうした新しいロック・ミュージシャンが生まれる社会でなければ、僕たちの欠落感は永遠に解消しないと思った。70年代の後半から、僕は、ロッキング・オンに音楽のことはほとんど書いていない。
「止まってしまわない。常に動き、揺れ続ける」なんて言葉が浮かぶし、「典座教訓」を思い出すところもあるな。
あと、NHKの「ドキュメント72時間」でちょうど「カニ坂ロックフェスティバル」のことをやってました。